ようこそ不思議な魔法界へ
僕はゆっくりと立ち上がると、
おぼつかない足どりではしご階段を降り、
左側の部屋へと向かった。
その部屋の木の扉には枝の枠組みに押し花が沢山貼られてある、小さな看板が掛けられていた。
丁寧に飾られたこの押し花達は、
僕がお客さんへ渡したけれど、
捨てられたり、落とされてしまったもの。
しかしあの時、お兄ちゃんはそれが、お客さんに地面へ落とされるたびに拾いに行き、
「お忘れ物ですよ」
とあの笑顔でわざわざお客さんにしっかり受け取らせるのだった。
落としたお客さんはそんなもの貰ったかしら、と不思議そうな顔をしていて、押し花を受け取り、
捨てたお客さんは決まりの悪そうな顔をして、渋々受け取っていた。
それでも落ちて、すぐさま踏まれてしまった押し花は流石に渡せなくて、捨てるほか無かった。
…はずだったのに、お兄ちゃんはそれすらも拾い、僕の前で膝をおって「これ貰っていいかな」と訊いた。
僕はもちろんそんな風に捨てられて、足跡のついた、汚い、しわくちゃの押し花なんか要らなかったし、
加えて押し花の人気の無さに半分自暴自棄になっていたので、二つ返事でお兄ちゃんに押し花を譲っていた。
そんなに欲しいなら新しいのをあげるのに。
つい、独り言のように出てしまった言葉を聞いたお兄ちゃんは振り向くと、キラキラじゃない、優しい笑顔で
「大丈夫。これでいいんだって」
と、返した。
そうして捨てられるはずだった押し花達はお兄ちゃんが綺麗に飾っていたため、こうやって今もこの看板に残っている。
僕は看板を見るなり、
その記憶と、お兄ちゃんの「大丈夫。」という声を思い出し、僅かではあったが気持ちは楽になれた。
扉を開けば、その先に閉められたカーテンにベッドがあって、毛布をかぶったお兄ちゃんがその上ですやすやと眠っていた。
よかった…
お兄ちゃんには何の外傷も変化もないようで、毛布をはぐってみても、何一つ変わったことが無かった。
僕は安心するや否やすぐさまお兄ちゃんの手を両手で包むようにして握る。
その手は暖かく、少し柔らかかった。
僕は何度も何度も「大丈夫。」と、まるでお兄ちゃんがそう言ってくれることを想像しながら呟きつづけた。
どれほど経ったのか、僕には分からないほど長い時間が流れているように感じた。
そのうち、僕も本当に落ち着いてきて、どっと疲れが押し寄せてきたのか、眠気で視界がぼやけてきていた。
瞬きをして、何とか起きようとするのだけれど、
お兄ちゃんの暖かい手がどんどん僕を眠くさせていって、遂に僕は少しの間だけと、目を閉じることにした。
僕は夢をみた。
夢の中で僕はお兄ちゃんの手を握ったまま、起きていた。お兄ちゃんはしばらくすると、ゆっくり目を開いて、僕の方を見ると驚いたような顔をしていた。
その時のお兄ちゃんの顔はまさに、
鳩が豆鉄砲をくらったような顔で、僕はそれが面白くって笑ってしまう。
クスクスと笑う僕を見たお兄ちゃんは少しムッとした顔をすると、今度は口をパクパクとさせた。
僕は突然の金魚の物まねには流石に耐えられず、繋いでいた手を離して、床に笑い転げる。
しばらく笑ったあとはお兄ちゃんのほっぺをつついたりして、一頻り遊んだ。(お兄ちゃんで)
すると対抗して、お兄ちゃんは僕のずぶ濡れのレインコートのフードを素早く、一気に僕に被せた。
突然前が見えなくなるから、僕は慌ててその場をふらつき回り、挙句の果てに転んで、お兄ちゃんの毛布に倒れ込む。
それを見るなりお兄ちゃんは僕を指して、声を出さずに肩を震わせながら笑っていた。
あんまり笑うからお兄ちゃんの目にはだんだんと涙が滲んできている。
そうだ!お兄ちゃんに、見せたい絵があるんだった。
僕は笑いすぎて号泣までしているお兄ちゃんの手をとると、扉の方を向いて…
…そこにあったのは扉ではなく背の高い人の姿だった。
オリーブグリーンの重厚感あるローブに身を包み、
セピア色の長い髪をした男の人が少し息を切らして立っていた。
彼の荒い呼吸音だけが部屋に響く。
思わず握った手に力が入る。
…怖い。
身体が硬直して思うように動かない。
長い髪の男の人は不思議な雰囲気に包まれていて、
シトリンのような宝石のキラキラした光が眼に宿っていた。男の人はそんな瞳を炎が揺らぐようにしてこちらを見つめるので、それがまた、僕を不安にさせる。
怖い。
思わず僕は後ずさる。
それに構わず男の人は1歩こちらに近づく。
また、僕が後ずさる。
そんなことを3回くらい繰り返すと、僕の背中は壁にぶつかってしまった。
不意に握っていた手が強く握り返された。
僕は思わずお兄ちゃんの方を向くと、
お兄ちゃんは何やらいいたげに真剣な表情で僕を見つめていた。
突然水面に石が投げられたように、お兄ちゃんの瞳が揺らぐ。お兄ちゃんが何かを訴えかけてもやっぱり僕には聞こえなかった。
そして、そっと瞳を閉じたお兄ちゃんの頬には一筋の涙がすうっと流れていった。
その瞬間。
劈くような叫び声が空気を張り詰めさせ、
バチバチと電気の逆立つような音が渦を巻き、
僕が男の人の方を振り向く間もなく、
突風が全てをかき混ぜて、
びりびりと感じる冷気が全てを凍らせていった。
夢が覚めた。
…………はずだったのだけれど、
どうやら覚めたのは目だけのようだった。
それを証明するのは、
目の前に僕と同じように倒れている、レモンイエローの髪を大きく三つ編みにして前髪流すように留めている、見知らぬ人子供がいるということだった。