魔物とサイレン
サイレンは僕の頭を打ち付けるようにして長いこと鳴り響いた。
町はざわめいたかと思えば今度は悲鳴や叫び声が聞こえる。
テレビでしか聞くことのなかった魔物警報。
リポータが手や足を震わせながらも懸命に実況するが、
痛烈な悲鳴とサイレンに恐怖心をあおられ、
ついには蹲ってしまう…という衝撃的な映像を見てから僕は、魔物とニュースが苦手になった。
とは言っても魔物を見た人は実は世界のどこにもいない。と言われている。
でも、疫病とかではないのだから、必ず実体は持っているはずらしい。
中継が切れて、緊迫した空気の中、スタジオの専門家であろう眼鏡のお兄さんがそう、淡々と解説をしていた。出演者はさっきの映像が頭から離れないのか、目が泳いでいるし、アナウンサーは声を震わせてうなずくばかりだった。
しかし、空気が読めないのか、周囲を気にせずにその専門家はそれに全く動揺しなければ、構う様子もなく話を続けた。
数百年前に現れ、戦争の激化とともに出没率を上げてきている魔物は、世界に争いをもたらす最大の脅威であり、諸悪の根源だと。
姿かたちを自在に変化させ、罪もない人々を襲ってゆき、人類を滅亡に導こうとしている。
魔物の脅威というものは計り知れない。
今までにいくつもの王国が傾き、村が滅び、都市が壊滅した。被害は世界中に広まっており、この前はある国の首都が魔物によって崩壊し、
結局、今まで戦勝ばかりで栄えていたその国は、魔物によって今では世界ナンバーワンを誇る奴隷産出国となっている始末だ。
魔物に襲われたら最後、大人は瞬殺、子供は昏睡状態に陥ることが多い。
例外もまだまだあるようだが、基本的にそのような傾向にある。
それを見逃していいわけがあろうか、いやそんなことは許されない!!
専門家は先ほどの冷徹さとは一転して熱を混じらせながら雄弁に語り始めた。
しかし我々、アルフォートはその魔物に対して世界で唯一の情報収集、対策をトップレベルで皆様にご提供できることに加え、数々の実績を国境を越えて証明している。つまりアルフォートは有益かつ安全な団体である!!
まず我々には「魔物警報」という魔物の襲来を非常サイレンとして皆様にお伝えできる設備があり、そのサイレンによって、前回3000人の犠牲者が事前に察知することができたため、5人にまで減少した。
今のところ誤作動は一度もなく、100%の察知力を誇っている。
そのほかにも情報が皆無に等しい中、多くの協力を得て、アルフォートは今この瞬間も魔物に対する研究を続けている…。
それからもその専門家は息つく間もなく熱心に語り続けるので、しばらく呆然としていたアナウンサーや出演者らが我に返り、削られた放送時間をどうにかしようとまず、そのしゃべり続ける専門家を必死に制止していた。
おととしの今頃に放送された、このニュースを受けて、僕の町は早速その団体のサイレンを導入した。
僕はそのニュースを見たとき、お兄ちゃんが眠ってしまったのは魔物のせいではないかと疑い、両親に早速相談してみたが、そのときに、お兄ちゃんのように眠ってしまった子供や、死んでしまった人はまさかの一人もおらず、僕の推理の結末は、お母さんの苦笑いという完全な不発に終わった。
仮に、お兄ちゃんが目を覚ませば、僕に名前を呼ばれる機会は昔よりも、もっとなくなるだろう。
それでも、
僕は初めて、寂しい静かさで満たされた部屋で眠るその姿のお兄ちゃんに、この世界でただ一人彼を理解し、寄り添えていた。
理由はそれとなく自分でも分かっている。
安らかに眠るその姿には、今までどこか、近づき難かったお兄ちゃんの光はなかった。
その親近感は自分でも思ったより大きなもので、僕はお兄ちゃんを忘れるまいと、助けようとする気持ちは固まっていた。
例え、両親が諦めたとしても、僕は諦めない。
望んだ未来にならずとも、せめてお兄ちゃんは押し花ぐらいにはなってほしかった。
まだまだ鳴り続けるサイレンの音が町の高いコンクリートの壁に反響しあい、ぐわんぐわんと脳内まで振動させる。そのせいか、僕は尻餅をついたまま、そんな過去の思い出を振り返っていた。
逃げなきゃなあ。
いつもの僕なら、慌ててたくさん忘れ物して、店を飛び出して、道中たくさんヘマを重ねながら涙と汗でぐしゃぐしゃの体で行先もわからずに逃げ回る。
お兄ちゃんはそんな僕を見て嬉しそうに笑ってくれるだろうか。
そうして、「ナナロクらしいな」とあの時のように言ってくれるのだろうか。
最初にそう言われた時、僕は全く信じなかったけれど、僕の行動は決まってお兄ちゃんが予想した通りになるものだから、僕はお兄ちゃんの言葉を信じる他なく、
そのため僕はちょっぴり複雑な気持ちになっていた。
…それでも僕が僕らしいことを理解するのは今でも理解できない。僕らしさが僕には分からなかったんだ。
でも僕はそれをお兄ちゃんに尋ねることはなく、
そのままあの日は訪れ、
お兄ちゃんは長い眠りについてしまった。
寝言でもいいから声が聞きたい。
強くそう思った。
一体これで何度目だろう。
それと同時に同時にまた靄のかかった気持ちが心の隙間から顔を覗かせる。
サイレンが不意に止む。
悲鳴も、叫び声もその刹那、サイレンに伴って静まりかえった。
僕のぼんやりした気持ちはふと、じわじわと現実に引き戻されていく。
そのうち、今まで一切沸き上がらなかった恐怖が僕の足元から頭のてっぺんまで染み渡っていった。
ふいに湧き出た感情に、狼狽とした僕の気持ちは今からでも逃げ出そうと考えた。しかし、それを僕の頭が無理だと却下した。
遅すぎる。
サイレンは止んでしまったのだ。
背筋にすうっと冷たい水が僕の背中を味わう様にゆっくりと流れた心地がする。
絶望と一言でまとめてしまえば簡単であったが、それよりもぼんやりとしていたくせに、未だに腹を決めていない自分の不甲斐なさが上回っていた。
自分の心情とは真逆に、余りにも冷静に状況を飲み込む脳が僕の身体の末端を冷やし、全身からは血の気を引かせる一方で、心臓はただ競うように速く、速く脈打つのだった。
思考回路は鈍っていたかと思えば、今度は恐怖と突然の状況理解にショートしてしまっていたようで、僕はサイレンが止んでしばらくの間、何も音のない空間に強ばらせた身体を置いていた。
サイレンが止むと、
避難所の安全装置がフィルターを作り、
そうしてそれと同時にシャッターが閉まってしまう。
閉まってしまったシャッターは、町長さんであろうが、総理大臣であろうが、団体の人間でさえも、魔物警報が解除されるまで、決して、決して
開くことは出来ない。
町内会で説明を受けてきたお父さんとお母さんに、あれだけ耳にタコが出来るほど教え込まれたというのに、テレビであれだけ放送されていたのに、僕は一体どうしてしまったのだろう。
不安と恐怖に駆られて、遂に震え始めた身体を必死に抑えながら、辺りを見渡す。
雨はいつの間にか止んでいた。
見上げれば、空の端々から赤と黒がじわじわと灰色の雲を侵食していく。
足元には枯れた僕の鉢植えが柔らかい土を半分ほど被っていた状態で埋もれていて、
背後にある裏庭の扉は開きっぱなしだった。
そしてどこからか吹く、生ぬるい微風に吹かれて、ぎこ…ぎこ…ぱたん…ぱたん… と、その扉は金具や土のついた白い木の板を軋ませながら、怪しく動いていた。
積み重ねられた鉢に、大量のドラム缶。そして辺りに散らばるコンクリートの破片。
緑は……
緑はいつの間にか綺麗になくなってしまっていた。
まだ少しあったはず!
ついさっきのことがずっと昔のように思えるのはとても不思議だったけれど、さっきまで、
僕が鉢植えをここに埋めに来た時までは、僅かではあるが、確かに緑があった。
それがこの僅かな時間に枯れてしまうなんて!
記憶に新しい、この奇怪な現象は不気味な雰囲気によって恐怖心と絶望感をより一層増させて、僕を地面へと押し付ける。
魔物警報が発令される直前に、店の表に並べられた鉢植え達が一斉に枯れていった、あの現象。
それがまた起こっている。
これはもう間違いなく、魔物のせいだと言うに足りている。
「……お父…さん…」
叫び声をあげた訳でもないのに、僕は
掠れた声で小さく、小さくつぶやく。
高鳴る心臓のせいで呼吸は既に荒く、そして空気の抜けるような呼吸音はヒューヒューとちいさな風のようだった。
次の瞬間、ポロポロと僕の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……おがあ…ざん…」
鼻水と涙で何が何だかよく分からない。
濡れた黄色のレインコートの上から素手で震える身体を抑えていたものだから、土まみれの手は既に濡れていた。
寒いような、生暖かいようなこの空気が本当に心地悪くて、またそれが僕の涙を誘った。
「…お兄…ちゃん」
そう言葉に出してみれば、声すらも震える僕にすぐ下の部屋で眠る、お兄ちゃんの存在が脳裏をよぎった。
もしかしたら、お兄ちゃんが。
危ない。
でも僕はお兄ちゃんを守らなきゃいけないのは分かっていたくせに
それよりもこの状況を分かち合いたい、
誰かの体温を感じていたい気持ちの方がずっと大きかった。
だから、僕は縋るような思いでお兄ちゃんの元へ行こうと決心した。