人間嫌いの販売員
「売れるんですか? 貴方の様な大人しくて寡黙な人が……」
「――売ります」
プロローグ
西暦二〇一三年元日。
昨年度末に地球滅亡説を唱えていたのは、どこの偉い学者だったのか、そんな事はもうとっくに忘れた。
三輪神社は、相変わらず今年も賑わっている。大勢の家族連れの人たちが、石で出来た巨大な鳥居を潜り、様々な出店に目移りしながら境内へと続く参拝路を歩いていた。
「あっ、フランクフルトだ!」
恋人である村沢咲奈が、屈託ない笑顔を見せながら言った。
「食べる?」
僕が訊ねると、咲奈は首を横に振った。
「帰りに買うから今は我慢」
咲奈は毎年初詣に来ると、神様への挨拶が終わってから、出店巡りをするのが、習慣になっていた。
僕と彼女は元旦になると三輪に参る。何でもここは奈良県では最強のパワースポットと謳われおり、随分と前に謀有名テレビ番組でも取り上げられていた。
白いニット帽からはみ出した長い黒髪に、ベージュのダッフルーコート。コーチのハンドバッグを手にした咲奈は、白い吐息を零しながら、参拝路脇にある出店看板を見つめて、どこにどんな食べ物があるのか、しっかりと確認していた。
フライドポテトに綿菓子、からあげ、みたらし団子、たこ焼にたい焼き――咲奈の心奪う出店があまりにも多かった。参拝路には、美味しい香りが漂っている。
石垣の階段を超えて、境内に着くと、そこには人間の頭しかなかった。境内では行列が出来ていて、人波に呑まれながら漸く賽銭箱の前に辿り着くと僕達はそそくさと五円玉を投げ入れて、手を合わせた。
「吉秋は何をお願いしたん?」
咲奈の質問に僕は戸惑った。
願い――それは去年までは毎年決まっていた。
願い、それは即ち夢。
僕の夢は高校を卒業してからずっと一つだった。
それは、小説家になる事だった。
「さぁ、何でしょう?」
咲奈は僕より三つ年上なので、時折彼女に対して敬語を使ったりする。
「またまた、どうせ小説家になりたいってお願いしたんでしょ?」
「まぁね……」
面白い小説を書き、新人賞をとる。僕の書いた小説が大勢の読者に支持されてその物語が映画化なんて話になったら――それが僕の願いだった。
その途轍もなく大きな夢を実現させる為に僕は定職にも就かず、ずっとアルバイトをしながら、毎日原稿を執筆する生活を繰り返してきた。
この女と出会うまでは。
村沢咲奈とはアルバイト先のコンビニで出会った。彼女は理学療法士という本職を持ちながらも小遣い稼ぎをしたいという理由で会社に内緒でコンビ二の仕事をしているのだと言った。彼女と偶々シフトが重なった時に話をする機会があり、その時に彼女がバツイチだと言う事を知った。
何でも彼女の夫は暴力を振るう男だったらしい。
それが離婚した原因だと彼女はいつも暗い顔で語っていた。勤務先で咲奈と話するのが当たり前になり、時間が経つに連れて、彼女と一緒に過ごすのが僕の日常になった。
「頑張りなさいよ。夢は見るもんじゃなくて、叶えるもの――なんてかっこつけてたのはどこの無愛想男だったっけ?」
咲奈はクスクスと笑いながら訊ねた。
彼女は僕の告白をすんなりと受け入れてくれた。
付き合い始めてしばらくは彼女は僕の応援していた。しかしかれこれ三年という月日が過ぎた頃になると小説の話を彼女とする事もすっかり無くなっていた。
彼女に小説の話をするのはいつも僕からだったが、何時しか僕もその話題を振る事はなくなっていった。
「もう夢追い掛けるのは辞めにするよ。いい加減疲れた」
そう言うと咲奈は、少し哀しそうな表情を浮かべた。
「いいの? せっかくここまで頑張ってきたのに」
「いいんだよ。もう面倒くさくなったんだ。歳も歳だし、それに――」
僕は言葉の続きを口籠った。
「それに?」
咲奈が僕の顔を覗き込んでくる。
「何でもない」 そっぽを向いた。
言葉の続きは結婚の二文字だった。しかし、言えなかった。まだ言えないと思った。結婚を口するには、僕の置かれている社会的立場はあまりにも中途半端としか考えられなかったからだ。
ちゃんとした仕事を就く前にこんなことを口にすれば僕はただの愚か者に違いなかった。それに咲奈はあまり結婚に対して前向きなイメージを持っていない。それは前夫の暴力も影響しているのかもしれないが、彼女の頭の中では結婚=幸せのイメージがどうしても持てないらしく、僕と付き合ってはいるが、結婚までは全く意識していないだろう。
以前彼女にどうして僕と付き合っているのかと訊ねた事があったが、回答は素気ないものだった。
――何となく。一緒に居て楽だったから。
それだけである。
神社からの帰り際、咲奈は出店を歩き回り鱈腹食事を済ませていた。彼女の満足そうな微笑みを見ながら僕は全く別の事を考えていた。
彼女と一緒に居続ける為には、このままではいけないと。
小説家を目指している場合では無いのではないか?と。
「咲奈、社員の仕事を探してみるよ」
「え? どうしたん?」
咲奈は一瞬驚いたような顔をしたが、やがてコクリと頷いた。
夢の終わりは、彼女と出会った時から始まっていたのかもしれない。
「metamorphose」
ヨーロピアンテイストを主軸としたメンズカジュアル服専門店
〔1〕
奈良県K市。巨大ショッピングモール街。三階のメンズファッションフロア。午後十二時半。
御影吉秋は「」と書かれた店頭のロゴ看板を見つめながら棒立ちしていた。緊張していたのは、面接に慣れていないわけではない。というのも、彼は、アパレル販売員という職種を全く理解していないのだった。
店の中には店員が一人いる。
女性だ。
何故メンズカジュアル服の店に女性の店員が居るのか、吉秋はすっかり落ち着きを失い店に入り辛く思って、しばらくの間店の前で入店を躊躇する。しかし何時まで経っても店に入らなければ自分は何の為にここに面接に訪れたのか分らない。そもそも何故彼は全く未経験であるアパレル販売員になろうと思ったのだろうか。
――それは三日前に遡る。
アパレル販売員の面接を受けようと思ったのは、先日電話で咲奈に相談したことがきっかけだった。
――夢がなくなったんだったら、仕事なんて何だっていいじゃない? どんな仕事だって結局やってみなくちゃ分からないし、何にも知らない業界でも入ってみたら以外と自分に向いてる事だってあるんだから。とにかく求人広告見て、気になったとこを受けてみるしかないよ。
――だけど、いまいち気になることが無いんだよね。
――吉秋に向いてそうな仕事か……そういえば、吉秋って御洒落とか興味あるんじゃないん? 結構私とデートする時格好つけてるけど。アパレル販売員とかどう?
吉秋は御洒落というものに興味がないわけでないが、これといった参考書たるファッション雑誌を買った事は一度だってなかった。彼は何時も書店で雑誌を立ち読みしながら、なんとなく今どきの若者がしていそうな服装をマネしていただけなのだった。服に金を掛けてこそ真の御洒落と言うが、彼はそれら類の物とは全く無縁だった。
――服は好きだけど、仕事にしたいと思った事はない
――吉秋はファッションセンスはあると思うけど、その性格じゃ無理かもしれないね。
――無理……だな。僕、コミュニケーションとるの下手くそだから。
――作家さんって、私の勝手なイメージだけど、明るい性格ってイメージ無いね。
本当に勝手なイメージであると吉秋は思った。
確かに彼は彼女の言う通り決して明るい性格では無かった。幼いころからも大勢の友人とどこかへ出かける習慣は無く、少人数で遊ぶ方が多かった。小学生や、中学生の頃もクラスの仲間達と運動場でサッカーをしたり、野球をしたり、体育館でバスケットボールやドッジボールなどもした事は無かった。昼休みの過ごし方は仲の良い二人か三人と組になって教室の隅の方でカードゲームをしたり、ボードゲームをしたりした。
また一人で読書して過ごすのも吉秋にとっても日課だった。好きなジャンルは主にミステリーだったか。学生を卒業してからというものそれでこそ読書する時間より、小説を書く時間の方が多くなったが。しかし、小説家志望へと導いたきっかけは、京極夏彦氏の衝撃のデビュー作「姑獲烏の夏」だった事はまだ彼の記憶にはっきりと残っているのだった。
――アパレル販売員ってすごく性格が明るい人たちができる仕事なんじゃないの? 僕にできるのかな?
吉秋は不安だった。
自分は今まで接客業をした事があるにしても、コンビニの様な完璧にマニュアル化した接客しかした事がないうえにあくまでもそれは単なる生活の為に働いていただけなのであって、本職は自称作家を貫いてきた。
毎日決まった時間に自宅に帰ってきては、パソコンの電源を入れて自分の練りに練ったプロット通りに物語を文章にしてキーボードを叩くだけの単調な日々を過ごしてきた。
吉秋にとってはそれが全てだったので、友人達と遊びに行く時間も無駄に思えて、進んで誘いに乗ることも無かった。
人と接する時間が余りにも少なかったのだ。
そうした時間が長くなるに連れて彼は人と接するのがだんだんと面倒だと思った。
根暗で無愛想で、人嫌い。
彼はそう言った人間なのである。
――何事もやってみなきゃ分からないって言ったじゃない。とにかく面接行って話だけでも聞いてきたら?
咲奈が背中を押した事が彼に行動に起こさせたきっかけだった。
吉秋は握り拳をきつく締めて、店に入った。
店の中に入ると様々な洋服が彼の目に映った。
マネキンの数は五体。それぞれ流行りのファッション衣装を着せられている。店頭平台と中央には丁寧に畳まれたプリントTシャツ。壁面のフェイスには綺麗にコーディネートされたジャケットの数々がディスプレイされている。若者が好きそうな派手目のカジュアルパンツ。カラーバッグにマフラー、シューズ。シルバーアクセサリー。奥にはPOSレジカウンターが一つ。
吉秋がしばらく店内を見渡していると、一人の女性店員が声を掛けてきた。褐色帯びた長髪。白い肌。黒のパーカー。白のショートパンツ。ロングタイツにショートブーツ。ロックテイストを意識した様な風貌の店員である。
「――何かお探しですか?」
「面接に来たんですけど、担当者の方いらっしゃいますか?」
「あぁ、一時から面接の人ね。今、店長呼んできますから、しばらく店内で待ってて下さい」
「分かりました」
吉秋は言われるがままに店内で待つ事にした。
五分ほどすると店の奥から一人の男が来た。
一八〇センチ程の長身。ミディアムロングヘアに黒いベロアのテーラードジャケット。白のロングTシャツ。細身なブラックボトムにブーツを履いた男である。
「初めまして、店長の桐原です。面接場所に案内するから、ついてきてくれ」
「はい」
桐原司――彼が「Metamorphose」の責任者である。
吉秋は桐原と共に店の外へと出て、ショッピングモールのコンコース脇にある従業員通路へと向かった。従業員通路を抜けると、そこには休憩所があり、大勢の従業員証を首に掛けたテナントスタッフ達が食事を摂っていた。
休憩所の脇には面接専用の応接室が設えらていて、吉秋はそこに案内された。
小さなローテーブルに、対面するように置かれた皮製のソファーが二つ。
ソファーに座り、正面に座った桐原のきりっとした表情を見て吉秋の緊張は一気に上がった。背筋に大量の虫が這いつくばっているような感覚だった。
休憩所に響き渡る他の従業員の騒がしい声音も吉秋の鼓膜には虚しく響くだけである。
「では履歴書を」
桐原は素気なく言った。
吉秋は、「はい」と短く返事をして、手にしていたバッグから用意してきた封筒入りの履歴書を手渡す。
「へぇ―作家さん目指してたんだ。これまた若いのに変わった業界目指すんだな」
「は、はい。どうしても面白い小説を書いて、読者の人に楽しんでもらいたくて」
「ふーん……」
桐原は黙々と吉秋の履歴書を見つめるばかりである。
「あの――何か?」 その沈黙が余りに長かったので、吉秋は唐突に訊ねた。
「あのさ、小説家ってさ、なんか黙々と文章書いてるイメージしか無いんだけど、そんな貴方にこの仕事ができるのかなって思って」
「そ、それは……」
吉秋は言葉に詰まった。確かに文書を書くとき、彼は一切の言葉を発する事はなく、黙々とキーボードを打つだけの単調な動作の繰り返しだ。そこにいかなるコミュニケーションも必要はない。作家にとっては作品が全てだった。
「それは?――まぁいいけどさ。じゃあまず何でこの仕事したいのか志望動機を教えてよ」
「はい。志望動機は――」
吉秋は何も考えて来なかった事に今更気付いた。咲奈に提案されて、何気なしに面接に受けに来たなどとは間違っても言えなかった。いや、この面接官、桐原司の大きな二重の眼差しを見ては、どんな下手くそな嘘も通じないような気がしたのだ。
しばらく重い沈黙が続いた。
「何? 動機が無いのに面接来たの?」
「そういうわけでは無いんです。あっ、あの服が好きだからです」
「へぇ、服が好きね。例えばどんな? 色々あるけど、キレイ目とか、お兄系とかアメカジとか」
「キレイ目とか好きです」
とは言ったものの吉秋はそれほど深くファッションについて勉強した事が無かったので適当に答えた。
「キレイ目が好きね……。じゃあさ、何か特技とかある?」
「特技ですか……小説を書く事ぐらいですかね……」
「どんな?」
「エンターテイメントとかミステリーとか」
「賞とか取ったことあんの?」
「無いです」
「じゃあ駄目じゃん。才能無いじゃん。それにこの仕事はお客さんと喋るのが仕事だ。お客さんと仲良く会話して、さりげなくニーズを聞き出して服を提案して売上を取るのが仕事なの。分かる? いくら文章が上手くたって、そんなの何にも関係ないの」
「は、はい」
吉秋は桐原から目を反らし俯いた。
今まで夢にどれだけの労力を注いできたのかは分からないが、この男の一言が、今の吉秋の背中に重くのしかかった。
自らの夢と、これからやろうとしている現実の仕事。
その二つはあまりにも相反しているのだ。
吉秋が口ごもっていると、桐原が呆れたように溜息を吐いた。
「俺も色んな人の面接をしてきたが、こんな静かな面接は初めてだ。この業界は若い人間が多いからな。面接とは言ってもいつもくだらない話で大盛り上がりしてるだけだから。そういう盛り上げ上手な人間が一番この仕事に向いている。貴方みたいに自己主張できない人は初めてだよ。ここに何しに来たんだ?」
桐原の目は余りにも悲哀に満ちていた。
負け犬を見据えるような、自分より弱い生き物を見ているような憐れみの眼差し。
「面接を受けに来たんです……」
「じゃあ、自己アピールして下さい」
自分に何が出来るのだろうか。
小説が書ける事など、何のアピールにもならない。人間関係を築くことだって間違いなく下手くそだった。
しかし、自分が夢に費やしてきた時間と労力を、今日初対面の男に否定されたのは吉秋にとって許せない事だった。確かに賞は取れなかったが、努力と結果が必ずしも繋がる事など絶対にあるわけがないのだと、吉秋は自らの経験を通して悟っていた。
「に、忍耐力だけは他の誰にも負けません。人と喋るの苦手だけど、コミュニケーション取るの下手くそだけど……そこら辺に居る誰よりも努力できる自信だけはあります」
拳が震えていた。
夢に向って、孤高を貫き、孤独に耐えてきた。
吉秋は真っ直ぐに桐原を見据えた。
「売れるんですか? 貴方の様な大人しくて寡黙な人が?」
桐原は醒めた目で問いかけた。
「――売ります」
吉秋は一言で桐原の問いに答える。
はったりだった。
売れる自信や根拠など彼は一つとして持ち合わせてはいない。
「口だけなら誰でも言える。自分の言葉に責任を持てない奴は嫌いだ。そう言って一カ月で消えていくスタッフを俺は幾人も見てきた」
「僕は――根性だけでは誰にも負けない、絶対に」
「根性ね――」
桐原との面接は三十分ほどで終わった。結果がどうなのかは分からないが、これほどしん――とした面接は吉秋も初めての事で、会話もほとんど弾まなかった。彼は、心の中でもはや確実に受かってはいないだろうと覚悟を決めた。――いやこれでいいのだ。元々ここで働く大した理由もなく来てしまったのだから。
二人が再び従業員通路を通り、店の前へと戻ると、先ほど会った女性店員が、大きくてさばけた話口調て接客に勤しんでいた。二十代半ばぐらいの男性客を相手に、彼女なりのコーディネートを提案している。
「あの娘がこの店の店長代行――要するに副店長だから、今度から彼女の指示はしっかりと聞けよ」
吉秋がコンコースでしばらく彼女の接客姿を目にしていると、ふと桐原がそんな事を言い出した。
今度から指示を聞く?
「どういう意味ですか?」
「本当に人の真意が読み取れない人だ……ここまで来たら本物だな」
桐原は呆れたように言った。
「はぁ……?」
「明日から来いって事だよ」
桐原に軽く背中を叩かれた吉秋は、思わず前のめりになって倒れかけたので、拍子抜けた声を出し、小鳥が羽ばたくような不思議な素振りを見せた。
――翌日の火曜日。メンズカジュアル服専門店 「Metamorphose」
店前のコンコースにはほとんど人が歩いていなかった。入店する客も一時間に数名とかなり少ない。この大型ショッピングモールは休日ともなると群衆の群れが至るところに見受けられるが平日はこんなものだった。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
店長代行の織原綾は入店してきた二人組の男性客に向って元気よく挨拶した。客は大学生ぐらいの年代だろう。
彼女は、今日もロックテイストを彷彿とさせる奇抜な服装をしている。彼女が胸元に掛けているネックレスは骸骨で、ブレスレットまでもが何十にも鎖が連鎖したような不気味なものだった。
織原はそつなく男性客にダウンジャケットとパンツ、ロングTシャツを売ると、吉秋の元へ向かって歩みよった。
「服の畳み方とか分かるん? 今日は桐原店長は公休日やから、分らん事があったら何でも私に聞いてや」 織原はにっこりと微笑んだ。
こうして織原の顔を近くで見るとかなりの化粧をしている様である。毛穴の一つも見えないほどに綺麗な肌をしているように見えた。
「アパレル販売員は初めてなので、何もわからないです」
吉秋が言うと織原は不思議そうな表情で彼の顔を覗き込む。
「何で敬語なん? 私、御影さんより二つも年下やで」
「いや、だって織原さん副店長だし、一応、礼義かなって」
織原は身震いするような素振りを見せた。
「うわっ、やめてよ。気持ち悪い。副店長言うてもただのバイトや、バイト。桐原店長の都合の良い時だけ、店長代行業務やらされてるだけやで。それに別に社員目指してるわけでもないし。定時の五時にはきっちりと帰らんとあかん。フリーターの方がきっと桐原店長にとっては都合良かったのかもしれんけど、今のバイトは学生ばっかりでな。そんで仕方無く私が代行っていう立場を引き受けただけや」
「何で定時きっちりで帰るんですか?」
吉秋が問いかけると、織原は顔をしかめた。
「ほら、敬語はやめって言ったやろ」
「あ、ごめん」
吉秋は照れ臭そうに後ろ髪をひっかく。
「子供がおるからな。幼稚園迎えに行かんとあかんから」
「結婚してるんだ」
「してない。別れた」
「はい?」
「二年前にね。まぁでも今の時代離婚とか別に普通の事やし、ええやん。前の旦那はよう女遊びする男で、私の趣味理解してくれんかったから疲れたんよ」
「趣味?」
「私、ヴィジュアル系バンド好きのコスプレオタクやから」
吉秋は不思議そうに彼女を見つめて、
「はぁ?」と息を零した。
続けて彼女は自らがバイだとも言った。吉秋がバイとはどういう意味なのかを訊ねると彼女は、「男も女も両方とも抱ける言う事や」と自信満々に言うものだから、吉秋は彼女に聊かの不信感を覚え、じっと彼女を見つめる。
「何か悪い?」
「いや、別に趣味は人それぞれだし」
「やろ」
「うん、それぞれだし」 吉秋は自分を納得させるように同じ言葉を繰り返した。
「あっ、でも彼氏はおるんやで」
「は、はぁ?」
「同じ年の超イケメン。ええやろ?」
「うん」
織原の暴露の連続は吉秋の脳内を?き乱した。意味が分からないが、彼女はかなりの個性派でキャラを売っているらしい。
「それにしても御影さんみたいな大人しい男、この店で初めて見たわ」
「それってどういう意味?」
「御影さんはこの店来たことあんの? 勿論お客さんとして」
吉秋は今まで俗に言う接客がある服屋には来たことがなかった。いや、一度だけあったか。彼がまだ高校生ぐらいの時、大阪のファッションショップに何気なく入ったら、いきなりチャラチャラした風貌の男性店員に声を掛けられて、気に入ってもない服を買わされた。その事をきっかけに吉秋は二度と接客のある店には行かないと心に固く決めて、以来店員が全く絡んで来ないファミリー層向けの服屋にしか行かなくなった。
「来たことないよ。こういう店苦手だから」
「苦手? じゃあ、何でここで働こうと思ったん?」
「何となく。求人広告に頑張ったら社員登用してくれるって書いてあったから」
「社員になろうとしてるん? 店に来たこともないのに?」
「うん。まぁ、そう言う事は働いてるうちに分かってくるかなっと思って」
織原は呆れたように吐息を吐いた。
「成程な……じゃあ、この店の服の事どころか、販売員って仕事が何かも全くもって何も知らんって事か……」
織原は何も知らんの部分を強調しながら言った。
「はぁ、まぁ」
吉秋は申し訳なさそうに織原から目を逸らした。
「はぁ、まぁ――じゃないっちゅうねん!」 織原が恰も関西芸人かの如くツッコミで吉秋の背中を叩くと彼は前のめりになってバランスを崩した。が、吉秋には突っ込まれた理由がいまいち理解できないので、ただ呆気に取られるばかりである。
「あの、何怒ってるの?」
「バイトの副店長といえども一応今日の店は私が任されてるわけやから、御影さんの教育担当は私になるわけや……。たいがいこの店で働きたい言う男は元々服にめちゃくちゃ詳しいし接客に関しても元々テンション高い連中が多いから別に教える事は無いから楽できてんけど……これはどえらい新人が来たわ」
織原は再び溜息を零した。
「なんか、ごめん」
吉秋の肩身はとてつもなく狭かった。
「まぁええ。ちょっとこっち来て」
織原は店内に客が居ないことを確認すると吉秋を中央ガラス什器に並べられたTシャツラックコーナーへと連れていった。
「まずは基本中の基本。商品整理から教えるわ。未経験かつ接客スキルも無い人はここからスタート。営業中はお客さんがグチャグチャにしていった洋服を整理しながら、私ら先輩の接客を見て、自分なりに勉強していって」
「は、はぁ――」
織原は滅茶苦茶になったTシャツの束の中から一枚一枚を丁寧に取り出し、手なれた手つきでそれらを畳んでいく。ものの一分もしない内に、綺麗に長方形になり、Tシャツが六枚積まれた束が出来上がった。
「今の段階ではお客さんが来ても接客はしやんでいいよ。お客さんの事は先輩に任せて商品整理しながら少しずつ、この店にどんな商品があるか覚えていって欲しい」
「は、はい」
吉秋が態度を改めると織原はすかさずツッコミを入れた。
「敬語!」
「は、はい」
織原は面白い生き物でも見てしまったかのように腹を抱えて笑い始めた。
商品整理についての説明を終えた織原は店内奥にあるレジカウンターに戻りパソコンのキーボードを叩き始めた。何か書類でも作っているのだろうか。
入店客も来ないので、黙々と散らかったTシャツコーナーの整理をしていると、吉秋はこの店に置いてある商品はどことなく偏っている事に気がついた。ロックテイストを基準としたカジュアル服――所謂お兄系ファッション衣類が、店の売り場の大半を占めているようだ。
不思議そうに吉秋が店内を見渡していると、一人の客が入店してきた。五〇歳ぐらいの男でその格好たるや否や御洒落好きとしか言えない様なものである。黒いやぎ皮のジャケットに、ブリーチのかかったデニム。スタッズが沢山ついたバッグ。一七〇センチほどの背丈があり、柔和な顔つきをしている。顎元の無精髭がどことなくワイルドだった。
「織原さんはいるかい?」
男が訊ねて来たので、吉秋は奥にいる織原を呼ぶ。織原は、この男の素性について何も知らない吉秋に淡々と紹介を始めるのだった。
御洒落な初老の男性は、この店の昔からの常連らしく、新作が入ってくる度に大量に買っていくといった随分と太っ腹な男であった。名前はというらしいが、店のスタッフは親しみを込めてゲンさんと呼んでいるらしい。ゲンさんと店のスタッフは昔から仲良くしているのも理由があった。ゲンさんは一人息子を病気で亡くしていたのである。以来、ゲンさんは亡くなった息子と同い年くらいの若い店舗スタッフに接客して貰うのが、趣味になったという。
「ゲンさん、この人、御影さんって言って今日から入った新人スタッフやねん。可愛がってくださいね」
吉秋は委縮していたので、半ば表情が固くなっていた。
「よろしくお願いします」
吉秋が絞り出した言葉はそれだけであった。
「宜しく」
ゲンさんは固くなった吉秋の肩をそっと叩く。柔和に綻んだゲンさんの表情を見て、吉秋はほっと安堵の息をついた。
「織原さん、新作は入ったのかい?」
「はい、大分春物も増えてきましたよ。二月ぐらいになると、もっと新商品も増えてくる思うけど」
「そうかい。なら、少し店の中をぶらぶらさせて貰うよ」
ゲンさんはそう言うと、店内をゆっくりと亀の様な速度で歩き始めた。
興味がある商品を見つける度に、ゲンさんは立ち止まり、そっと商品を手に取って、じっくりと見つめている。どんな素材なのか? 手触りは? 着心地はどうだろうか? 自分の持っているファッションアイテムと合わせる事ができるのだろうか? そのようなことでも考えているのだろうか。ゲンさんの頭の上には様々なクエスチョンマークが浮かんでいるように吉秋には見えた。
「ちょっと、君、御影さんだったかな?」
ゲンさんが吉秋に訊ねた。
「え、は、はい」
「これと、これと、これ、試着していいかい?」
ゲンさんが手にしているのは、最近入荷したサックス色のストレッチスキニ―デニムパンツと、白いプリントTシャツ、背中にスカルロゴの入ったジャケットである。サイズはそれぞれ2Lサイズだった。
「は、はい」
吉秋は店の奥にある試着室へとゲンさんを誘導する。ゲンさんが試着室のカーテンを閉めると、吉秋はその前で彼が試着を終えるのを待機姿勢で待つのだった。
御客が試着室を使っている間は絶対にその場から離れては駄目だと、織原に教わっていたからだ。
三分ほどすると、カーテンが開き、試着を終えたゲンさんが、吉秋の方を見返った。
「お、お似合いだと思いますが、い、如何ですか?」 吉秋は片言に訊ねた。
「なかなか良いと思ったんだがな。ちょっと想像していたのとは違ってたようだ」
ゲンさんは鏡の中にいる自分を見つめながら言った。
すると織原が再び店内奥から出てきて、
「その服はゲンさんには似合わないよ」 と言った。
ゲンさんは辛辣な意見を言う織原の顔をじっと見つめる。
「織原さんがそう言うなら、もう少し新しい服が増えてから買いに来るよ」
ゲンさんはカーテンを閉めて再び着替えを始めるのだった。
「御影さん、私食事に行ってくるから、何か分からん事あったら、店の外線で私に電話してや」
「は、はぁ……」
吉秋が腕時計の針に視線を落とすと、既に正午を回っていた。
織原はバックルームにあるハンドバッグを持ってそそくさと裏口から店の外へと出ていった。織原が店の外へ出るのと同時にゲンさんが試着室から出てくる。するとゲンさんは不思議そうに周りを見渡して、織原の居場所を吉秋に訊ねた。
「織原さんは?」
「一時間ほど休憩に行きました」
「そうかい」
「あっ、商品、僕が直しておきますので」
吉秋はゲンさんが手にしていた商品を受け取り、丁寧に畳み始める。
黙々と服を畳んでいる吉秋に、ゲンさんはゆっくりと歩み寄った。
「君は織原さんと今日初めてあったのかい?」
「?――二回目です。面接の日に」
「そうか。じゃあ、まだ何も分らないな。彼女が最近元気が無い理由を」
「元気がない?」
「あぁ――ここ最近ずっとな。まるで昔とは別人だ」
「あの、どういう意味です?」
「織原さんとはかれこれもう二年ほどの仲になるが、最近ではめっぽうわしに接客してくれんくなったんだ。昔はあんなに愛想よくわしの服を選んでくれたのに」
「あの、佐伯さん? 織原さんが元気ないって? 彼女、滅茶苦茶元気じゃないですか?」
「ゲンさんでいい。君は何も知らんからそう言えるんだよ。彼女がこの店に入って間もない頃、わしが店に入るといつも一番に声を掛けてくれた。他の仕事だって山ほどあるのに、作業なんかそっちのけで、すぐにわしの元へと来てくれて、一生懸命わしに似合う服を探してくれたよ。それが、ここ半年ほど前からすっかり無くなってしまってね。最近ではわしの服を選んでくれなくなったんだ」
「そうなんですか……」
「わしはここのスタッフと一緒に服を選ぶ時間が好きだ。中でも織原さんはわしの一番のお気に入りだった。彼女の一生懸命に服を勧めてくれる姿を見ていると、何故か彼女が実の娘の様に感じる事もあった。彼女だけじゃない。ここで働いている、花岡くんもそうだ。花岡くんと服を選んでいる時間は、まるで一人息子と買い物に来ているような時間だと錯覚するほどだ。しかし、さっきの彼女の態度を見ていると、寂しく思うよ」
ゲンさんは、寂しそうに誰もいないレジカウンターに視線を送った。
吉秋には二年前の織原が接客している姿など想像もできない。
「あっ、あの、息子さんは、なんの病気で?」
「――あの子は先天的に体が弱くてね……二十五歳の時にインフルエンザに掛かって死んだ」
「二十五歳……僕と同い年の時に……」
吉秋は、一度も面識の無いゲンさんの一人息子に対して、どこか親近感を覚えた。
「君は……そうか息子と……」
「す、すみません、何か変な事言ってしまって」
「いや、いい。 まぁ、とにかく今日は帰るよ。織原さんにまた来るって伝えといてくれ」
「はい」
「あっ、そういえば、これ渡してなかったね」
ゲンさんはポケットからカードケースを取り出し、吉秋に名刺を渡す。
――株式会社 インセクティブ エンタテイメント プロデューサー 佐伯源之助――
「プロデューサー?」
「わしはロックバンドのプロデュース業をしていてるんだ。彼らもわしの大切な子供達には変わりないよ」
ゲンさんは具体的にプロデュースをしているバンド数組の名称を言ったが、全て横文字で小難しい名前だったので、吉秋は聞き流した。
「そうなんですか」
「それじゃあわしはこれで」
ゲンさんはそう言うと踵を返して、店の外へと出ていった。
しばらくすると、織原が休憩から戻ってくる。それと同時に二人の見知らぬスタッフが出勤してきたので、吉秋が不思議そうにしていると、織原が彼らの紹介を始めるのだった。
花岡智樹〔22歳〕
一年前から働いている大学生。イケメンで女性客の受けが良い。得意な客層は学生の息子を連れた主婦層。
北野忠助〔21歳〕
吉秋と同時に入った新人スタッフ。しかし前職はアパレル販売員。「Metamorphose」の競合店 「sea sound」 の元派遣社員で立場は副店長。
二人の紹介が終わると、織原の指示で吉秋は休憩に入った。店の裏口から出た吉秋は少し肌寒い廊下を二分ほど歩き、従業員専用の休憩所に入る。
休憩所は平日のせいか随分と空いていた。
吉秋は隅っこの席に座ると、ただ黙々と買ってきたコンビニ弁当を食べ始めた。
〔2〕
土曜日の昼下がり。
二月に入り、冬服の需要があまりないのか、休日にも関わらずコンコースを歩く人だかりの群れは少なかった。入店客数も少なく、店の中をぐるりと一周してそのまま出ていく客も多い。
この時間帯に出勤しているのは、吉秋と北野、桐原の三名だった。
とは言っても桐原は何やら事務仕事が溜まっているらしく、バックルームに籠りっきりでほとんど店には顔を出さなかった。
吉秋と北野が暇そうにしていると、中学生ぐらいの息子を引き連れた母親が入店してきて、何やらキョロキョロと辺りを見渡している。
吉秋は咄嗟に声をかけに行った。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
「え? ――あ、いえちょっと見てるだけですから、大丈夫です」
「は、はい。ごゆっくりどうぞ」
吉秋に声を掛けられたのが、嫌だったのだろうか。その後、母親はそそくさと息子を引き連れ店の外へと出ていった。
吉秋は、不思議そうに親子の後姿を見ていると、北野が彼に声を投げる。
「ヨシさん。アプローチが早すぎるっすよ」
ヨシさんというのは吉秋のニックネームである。無論このあだ名は北野がつけたものだが、吉秋はこの呼ばれ方を決して気に入ってはなかった。それにしても北野は奇抜な衣装を身にまとっている。オパール加工の掛った黒のロングカーディガンに、ドレープネックのシャツ。ダメージ加工の入ったボトムパンツに、レッドウィングのブーツ。まるでヴィジュアル系バンドマンが好みそうな服装をしているが、北野はそれらの類に一切の興味は無かった。以前吉秋が北野に好きな音楽は何かと訊ねた事があったが、彼はダンスミュージックや洋楽しか聴かないようだ。ヴィジュアル系バンドを寵愛している織原は北野の服装を大層気に入っているという。
北野が言ったアプローチというのは、いわゆる客に対する声かけの事だ。アプローチには様々な種類があり、ファーストアプローチ、セカンドアプローチ、サードアプローチと別れている。アプローチには、挨拶、商品説明、セールストークなどが含まれていおり、この声掛けのタイミングが悪いと客は容赦なく店員から逃げていくのだ。
北野は 「sea sound」 で一年ほど働いたベテランなので、その事を熟知していた。
「タイミング間違えたかな」
「あれはまだお客さん自身も何が欲しいか分かってないツラしてたっす。あのタイミングで声掛けたって、店員に商品を売りつけられると思ってお客さん恐がっちゃうっすよ」
「だって売るのがこの仕事なんだし」
「それは分かってるっすけど、まずはじっくりお客さんの事観察するのが先っすよ。お客さんが手に触れた商品を覚えて、さりげなくその人の服の好みとか探ってから、声掛けた方がフラれないっすよ」
フラれる――というのは客に無視されたり、逃げられたりする事である。
吉秋は、アプローチのタイミングが下手で、客に逃げられる確率が店で一番高かった。逃げられる=店の売上がゼロという事なので、大損害である。
吉秋は自らの人と接する力の無さを情けなく思うのだった。
「フラれないようにする為には、どうしたらいいんだよ?」
「お客さんとしっかり会話してコミュニケーションとるしかないっすよ」
「会話しようにも第一声でお客さんが逃げちゃうんだよ。どうしようもない」
「そんなことないっすよ。タイミングさえ間違えなければフラれる回数は減っていく筈っす。タブーなのはいきなり服の話をする事っす。お客さんは服を探しに来ているだけであって、店員のつまらない服の話を聞きに来てるわけじゃないっすからね。まずは仲よくなるのが先決っすよ」
「だから、タイミング分らないんだってば」
吉秋が苛立たしげに言う。
「タイミングは自分自身で掴むしかないっすからね。何回もフラれて、初めて修得できる技っす。――でもヨシさんの場合はタイミングよりもまずはその顔っすよ」
北野はそう言って、吉秋の顔を指差した。
「顔?」
「そう、顔っす」
「顔……ぶ、不細工?」
「いや、不細工とかじゃないから大丈夫っす。ヨシさんは不細工じゃないから安心して欲しいっす」
北野は弁解の言葉を並べた。
「じゃあ顔の何が悪いのさ」
「顔の何がとかじゃなくて、表情っすよ。ひょうじょう」
「表情?」
「そうっす。なんかヨシさん、お客さんと接する時、緊張してるのかいつも表情が硬いんっすよね」
「仕方ないじゃないか。ある程度の緊張感は持った方がいいでしょ」
「それも大事っすけど、コンビニじゃないんすから、あんまりロボットみたいな接客スタイルはこの業界じゃあ通用しないっすよ。もっと笑顔で、親しみを込めた接客の方がお客さんも楽しいと思うっす」
「そうなのか?」
「そうっすよ。多分」
北野が へへへ と 愛想笑いをしたので、吉秋は北野の目をじっと見つめ、彼の本心を探った。
北野に言われて思い出したが、吉秋はここ最近ずっと笑っていなかった。だいたい小説を書くときは全くというほど無表情だ。表情筋を使う機会の少ない吉秋にとって自然に客に笑いかけるという行為は、魚が逆立ちするぐらいに難しい事だった。
北野の無邪気で少年の様な自然な微笑みを吉秋は大層羨ましく思った。
「笑顔の練習から始めた方がいいのか」
「練習なんかしなくても、もっと仕事を楽しもうとしていたら、自然と笑えますよ。ヨシさんも」
「そんなものなのかな……でも楽しむって?」
「お客さんに、この服を気に入って欲しい。こんな服を着たらきっと似合うに違いない。そんな事を考えながらセールストークしてたら、自然と笑ってますって。ほら、あんな風に」
北野は試着室の前にいる桐原を指差した。
「あ、いつの間に」
吉秋の視線の先。
そこには楽しそうに客を盛り上げている桐原の姿があった。桐原の接客している相手は恋人同士の客らしい。年齢は二十代ぐらいだろうか。
桐原は、彼氏に自ら考えたコーディネートを試着させ、彼女に感想を伺いながら、セールストークをしている。桐原の表情、物腰は柔らかく、話口調も丁寧で、まるで面接の時、吉秋が対面していた彼とは別人のようだった。
「リードセールスって知ってるっすか?」
そんな桐原を見つめながら北野は吉秋に問いかけた。
「何それ?」
「お客さんが着たいと思う服だけを売ってレジ打ちするだけ。それじゃあ、ただの店員っす。――何も考えないで、フラッと店に入ってきたお客さんとしっかりコミュニケーションを取って、そのお客さんに着てほしいと思うコーディネートを提案、推奨、そして購入まで導く――そういうのがリードセールス、販売員の仕事っす。まぁ、理論上はそうなんっすけど、これがいざやってみるとなかなか難しいっすけどね。以外と店員の話に興味持ってくれるお客さんって少ないっすから」
「リードセールス……か」
吉秋の視線の向こう側には接客を終えた桐原の姿があった。
レジの上には服が山積みになっている。Tシャツ、ブルゾン、パンツ、ベルト、帽子、バッグ、総額三万円相当の商品があった。
店頭で客に大きな紙袋を渡した桐原は、その後ろ姿が消えるその時まで深く頭を下げていた。客を見送った桐原は再びバックルームへと戻っていく。
「ヨシさん。あれがリードセールスっす」
「あれが?」
「あの彼氏彼女、多分元々買う気があってこの店に入って来たんじゃないっすよ」
「どういう事?」
「多分何も考えなくて、ただ服を見てただけなんっす。でも桐原店長が絶妙なタイミングでアプローチして、何気なく世間話しながら、二人のテンションを最高にまで高めて、上手いぐあいにコーディネート提案したから、あの二人、急に服が欲しくなったんっすよ。ほんで知らん間に桐原店長の術にハマっているとも気付かずに買っちゃったんすよ。でもただ売るだけじゃ、何の接客にもならない。服を買って貰ったお客さんを最後の最後までお見送りする――あれがリードセールスっていう一流販売員がよく使う手っす」
吉秋には北野の言っている意味がよく分からなかったが、とにもかくにも桐原が一流の販売力を身に付けている事だけは十分に理解できた。
「凄いな」
「感心してる場合じゃないっすよ」
「へ?」
「ヨシさんは社員を目指してるんっすよね。だったら、あぁ言うセールス術を身に付けていいかないと駄目なんっすよ。分かってるんすか?」
「わ、分かってるよ。分かってる」
吉秋はふてくされたようにそっぽを向いた。
「俺は社員になりたいなんて思ってないっすから適当でいいんすけど、ヨシさんは桐原店長の後姿をきっちりと目に焼き付け無くっちゃいけないっすよ」
「分かってるってば」
吉秋は年下に忠告されたのを恥ずかしく思い、北野から距離を置いた。
しばらくすると、男性二人組の客が入店してきたので、すかさず、吉秋はアプローチタイミングを逃してはならないと思い、じっと、男性客二人を睨むように見据えた。
吉秋は客と幾度となく目が合ったが、タイミングを待っている間に、二人はそそくさと店の外へと出ていった。
すると、北野は呆れた様に、溜息をつき、吉秋にすかさず忠告する。
「ヨシさん、お客さんの事見過ぎっすよ。あれじゃあ、店員に睨まれているようで恐いっす。お客さんの様子を伺うのは大事っすけど、何か作業して、チラッと様子をうかがいながらタイミングを計るのがベストっすよ。掃除しながらだったり、商品を整理しながらだったり」
吉秋は落胆した。
「そんな器用な真似できないよ」
「まぁ、最初は皆ゼロっすから、少しずつできるようになっていったらいいと思うっすよ。ヨシさんが今意識するのは、売上よりも、お客さんと仲良くすることっすね」
「――人と接するの苦手な僕には高いハードルだ」
「苦手なんすか?」
「苦手というか、人嫌いというか、人と接する時間が少なかったというか」
「何でっす?」
吉秋は自らの過去を打ち明けた。
「――てなわけで、人と接するのが苦手なんだよ」
「へぇ、小説書けるんすね? 凄い」
北野が感心したように言うと、吉秋は不思議な生き物とでも遭遇したかのような表情になる。吉秋の話を聞いて、「凄い」 と言う人間は類希だからだった。
「凄くなんてないよ。ただ馬鹿だっただけ、新人賞とれなきゃ何の意味もない事なんだし。親だって、僕の夢には反対だった。やるんなら二十代前半までって忠告されてたし。だから、こうやってこの仕事を定職にしようとしてるんだ」
「ヨシさんは、その過去をネガティブに考えてるっすけど、俺からしたら、凄いと思うっすよ。二十代で作家活動してる人間と出会ったの、ヨシさんが初めてっす。だから、そういう面白い話をお客さんに話してみたらいいんじゃないっすか?」
「小説家志望だったこと?」
「そうっす。――きっといきなり商品説明するより、お客さんの反応ももっと良いはずっすから。だって今、俺ヨシさんの話聞いて関心したっすよ。この人凄い頑張ってたんだなーって思ったっす」
吉秋は猿のように顔を赤らめた。
「忠助は、お世辞が上手いな」
吉秋は北野の事をこうして呼び捨てにしている。年下の彼にはどことなく気さくさがあったので、いつの間にか彼は北野の事をこう呼ぶ様になった。
「これはお世辞じゃないっす。だからヨシさんはもっとポジティブに、そして我武者羅にお客さんに接した方がいいっすよ」
「なんだかなぁ――」
吉秋は照れ臭そうに後ろ髪を掻いた。
「っすか?」
「違う」
冗談っす。と北野は言葉を付け足す。それにしても北野というスタッフは暇な時間帯によくこうして吉秋に絡んでくる。これが最早、日常になっていた。
人にアドバイスするのが、好きなのだろうか。
吉秋と北野は同期に入った者同士だから、何の気を使う必要も無かったのもあるが、吉秋にとっては北野はどことなく、アパレル業界の先輩のようで頼りになる存在ではあった。
夕方になると、桐原が休憩のために一時間ほど店を開ける事になった。
店には吉秋と北野の二人だけになる。
少しずつ館内を歩く客も多くなり、おのずと店に入ってくる人も増えていった。
北野は持ち前の明るくて元気な声の接客スタイルで、幾人かの客に服を提案した成果か、売上が伸びていた。対する吉秋は、相変わらず客に逃げられたせいか、売上はゼロのままだった。
「ヨシさん。ちょっとこれ見て欲しいっす」
北野が吉秋をカウンターに呼び付け、ポスレジ横にあるパソコンを開いた。
「なに?」
「先月――一月度の担当者別売上日報っすよ。これにはこの店にいるスタッフの月々の売上記録が保存されてるっす」
「売上記録?」
「どの担当者がどれだけの売上を作ったのかが分かる日報っすよ」
パソコンのディスプレイには、――担当者別点検〔対象期間2014年1月1日~2014年1月31日〕と表記されている。そこには担当者別コードと、店のスタッフの名前、売上数量、金額が事細かく記録されていた。
担当者別に店舗への貢献度が数字で示されている記録帳簿だ。
担当者 売上数量 売上金額
961××1 桐原 司 650 ¥5,648,738
471××2 織原 綾 24 ¥1,286,534
472××5 花岡 智樹 242 ¥982,143
473××4 御影 吉秋 32 ¥163,684
474××8 北野 忠助 310 ¥1,265,634
「うわっ、何だこれ……?」
吉秋は目をまん丸に見開いて呟いた。
「これが桐原店長の実力っす。如何にお客さんとしっかりコミュニケーションが取れてるかが、数字になって表れてるんすよ」
「僕だけ、全然売れてない。皆と一桁違う」
吉秋は愕然とした。
「桐原店長の月々の出勤日数は約二十五日。俺達の出勤日数は約二〇日として、両者の日数差は五日しかないっす。それなのに、この数字の差……桐原店長は前に大阪かどこかの店舗から異動して二年ぐらい経つから顔見知りのお客さんも多いと思うけど、それにしてもこの数字は素直に凄いと思うっすよ」
「確かにそうだ」
「きっと、桐原店長にはファン、いわゆる顧客が多いと思うんすよ。でないと、こんなに桁違いな売上取れないと思うんす。この業界はわりと水商売に似てるっすからね。自分の力で顧客を増やしていく。その顧客がリピーターになって自らの売上に返ってくる。この仕組みはホストや、キャバ嬢と何等変わりないっすよ」
北野の説明には何となく納得できる吉秋だった。
「す、凄いな。桐原店長……」
「ヨシさんが目指す場所は、ここなんすよ。俺や、花くん。織原代行に負けてるようじゃまだまだっす」
北野の言った一言が、吉秋の脳内に刻まれたある言葉をさせた。
――売れるんですか?
面接の日に言われた桐原の重厚な言葉。
「無理だよ。どうしたら、こんな数字が取れるって言うんだ……」
「大丈夫っすよ。俺達も協力するっすから。因みに最初は誰だって、売れないところから始まるんすよ。皆、売れない現実に悩んで、悩んで、悩み抜いて、その果てに自分の接客販売スタイルを磨いて売れるようになっていくんだと思うっすよ。俺も「sea sound」で働き始めた頃は全然売れなかったっすから」
これほどよく喋る北野が? と吉秋は半信半疑だった。
「忠助は元々交友関係も広いし、人づきあいが得意なんだろ? 僕は、人が嫌いなんだ」
「それとこれとは別問題の様な気がするっす。第一、あの桐原店長ですら、入社した当初は全く売れなかったって言ってたっすよ」
「ま、マジで?」
吉秋は驚愕した。
「マジっす。それに、まだ店長になって間もない頃、店舗の売上を全然達成できなくて悩み過ぎて欝病になったって言ってたっす。それほど追い込まれて初めて販売力ってのは身につくんじゃないっすかね。人間、誰しも努力っすよ。努力――」
吉秋は、北野が年下なのに、しっかした事を言う男だと思った。
だが、吉秋にとって、努力という言葉ほど虚しいものはない。努力の果てに結果がついてくるとは必ずしも限らないのだ。
彼はその事を過去の経験から承知しているので、北野の言った事に賛成はできないが、かと言って否定する理由も無かった。
小説家になれなかったのも、まだまだ努力が足りなかっただけかもしれないのだ。だがなれなかったとしても、自分は病むほどのものでは無かった。本当に病むほど苦しんでも、結果に向って努力できる人間というのは桐原のような男を言うのかもしれない。
「欝病になってまで、桐原店長は、頑張って来たんだ」
独り言のように吉秋が呟くと、
「そうっす。病気を乗り越えて、桐原店長は今も闘ってるんす。ヨシさんは黙って、あの人の背中を追いかけるしかないっす」 と、どこか悟っているかのように言った。
「そうだね」
「二月は冬服のニーズがあまり無いから暇っすけど、この時期だからこそ、お客さんとじっくり話して仲良くなるチャンスなんっす」
「この時期にお客さんと仲良くなれれば、春服が出始めた頃に、顔見知りも増えて、売上がとれるってわけか」
「わかってるんじゃないっすか」
言って、北野は吉秋の肩を叩いた。
北野は手加減というのを知らないようで、肩を叩かれた吉秋は思わず、
「痛っ!」
と叫んだ。
北野というスタッフが学生時代、野球をしていたと、吉秋が知ったのは後になってからだ。
Х Х
午後六時。桐原と北野が退勤すると、花岡直樹という学生スタッフが出勤してきた。吉秋は挨拶すると、彼はにっこりと微笑み、爽やかな挨拶を返す。
「久し振りに二人体制ですね。とは言ってもラストは僕一人ですけど」
「よろしくね」
花岡は、ここ最近大学の卒業論文を書くのが忙しいらしく、いつも出勤時間が遅かった。平日はほとんどシフトに入っておらず、週末だけの出勤も当たり前になってきている。かつての花岡はメインシフトで入っている織原の売上を抜いた事もあり、かなりの実力者であった。彼のルックスは、一言でいえば、端整なイケメンだ。二重瞼に、整った卵型の顔立ち。うっすらと茶色がかったウルフヘア。御洒落にも勿論気を使っているらしく、テーラードジャケットに清潔感のあるシャツ。ベージュのコーデュロイパンツといった綺麗目スタイルは彼のお気に入りのコーディネートだ。彼の親はアパレル産業の社長をしているので、センスは親譲りと言える。俗に言うサラブレットらしい。――とは言ってもアパレル業界でずっとやっていくつもりはサラサラないというのは、吉秋も知っている。彼はファッションよりも車に興味があるらしく、桐原がいない暇な時間によくこっそり、車の雑誌をカウンターでこっそり読んだりしていたのだった。サボるのが好きな花岡であったが、客が来ると気持ちを切り替えて販売員の顔になる。
月に一五〇万もの売上げを記録した時もあった。
二人がしばらく世間話をしていると、二人の息子を引き連れた主婦らしき女が入店してきた。何やら三人はにこにこと柔和に微笑みながら、御洒落にコーディネートされたマネキンを指差して談笑している。
「んじゃ、ちょっと行ってきますね」
「え? あ、うん」
少年の様な屈託ない笑顔で花岡がカウンターから出ていくと、彼はすぐさま女に声を掛けた。吉秋は楽しげに話をしている四人を遠目に見つめていた。
一体何を話しているのだろうか?
先ほど、主婦層の客にアプローチを掛けて逃げられた吉秋とって、花岡が楽しげに会話をしている光景はとても不思議だった。
試着室に向かった三人。
吉秋は、こっそりと近くで商品を畳むふりをしながら、三人の会話を聞いていたのだった。
試着室は二つ。
二人の息子はそれぞれ別々の部屋に入って着替えている。二人の着替えを待つように女は試着室前に置いてあるゲストテーブルの前で座っていた。
「二人は息子さんですか?」 花岡が柔和に微笑みながら女に問いかけた。
「ええ、そうなの」
「中学生ですか? それとも高校生?」
「二人とも高校生よ。一つ違いの兄弟なの」
「そうなんですか。二人も息子さんが居たら、服代も馬鹿にならないんじゃないですか?」
女は目を見開き、
「そう、そう、ほんとそうなのよ! 大変だわ」 と言った。
「じゃあ、僕が安くてカッコいい服、いっぱい紹介しますよ」
「あら、本当!? 助かるわ!」
他愛の無い会話が終わった頃、二人の息子たちが同時に試着室のカーテンを開いた。どうやらパンツを試着してたらしい。
「サイズは大丈夫?」
母親が訊ねると、息子たちはコクリと返事をした。
「じゃあ、僕がこの服にめっちゃ合うコーディネート探して来るんでお母さんはここでしばらく待ってて下さい!」
「あ、は、はい」
花岡の無邪気な提案に、母親は頷いた。
花岡は急ぎ足で店内を駆け巡り、二人の息子に似合いそうなアイテムを探した。ものの五分もしないうちに花岡は試着室前に戻り、彼らに持ってきたアイテムを着て貰うよう頼んだ。
ジャケット、Tシャツ、ベルト、鞄、シューズ。コーディネートを身にまとった彼らはカーテンを開けた後、鏡の前の自分を見つめて、半ば驚いたような表情をした。
「お兄さんのコーディネート、気に入った?」 花岡が問いかけると彼らは少し照れくさそうにほくそ笑んだ。
「ごめんなさいね。この子ら人見知りだから。あんまりしゃべんないのよ。でもとても似合ってるから、これ全部貰っていくわ。お兄さんありがとうね」
「全部買ってくれるんですね。嬉しいです」
花岡は三人をレジカウンターへと案内する。カウンター前で楽しそうに話をしている三人を見て吉秋はただただ感動するばかりであった。
花岡が提案した商品総額は、五万円以上である。
なかなか一度の販売でこれだけカジュアル服が売れる事はない。ましてや新人の吉秋にとっては見たことも無いような客単価だった。
丁寧に三人を見送ると、花岡は急ぎ足でバックルームへと駆け込んで、ガッツポーズを決め込んだ。
「よっしゃ! 見ましたか? 吉秋さん?」
素直にいいと思う商品を、素直に客に紹介する。何の先入観も無い無垢な少年の様な彼の客への接し方は、誰にでも出来ることではない。知らぬ間に彼のペースに巻き込まれた客は、あっという間に購入を決意し、クロージングに至った。
これと同じ事を自分がやっても、同じ結果にはなっていないだろうと、吉秋は思った。花岡だから、できたのだ。
人はそれぞれ持って生まれた素質がある。
人の数だけ販売スタイルは存在する。
「凄いね、花くんは」
花岡の事を花岡とそのまま呼ぶ者はこの店には桐原を除いては一人もいない。皆親しみを込めて花くんと呼ぶ暗黙のルールがあったからだ。
織原も、北野も吉秋と同じように、彼の事を花くんと呼んでいた。
「まぁ、販売には自信ありますから」
「凄いよ。僕なんてまだまだだ」
「これからじゃないですか! 僕も最初は全然売れなかったけど、三か月もしたら、バンバン売れますよ」
「そんなもんかな――そういえば、花くんはゲンさんって御客さん知ってるの?」
「勿論知ってますよ。仲いいですし」
「この前ゲンさんが気になる事言ってたんだけど……」
「気になること?」
「織原さんが、昔と少し変わったって言ってたけど、何かあったの?」
「え、綾さんがですか? どうして?」
「昔はもっと接客してくれたのに、最近は全然してくれなくなったってゲンさんが寂しそうに言ってたけど、僕、彼女の昔の事なんて何も知らないから」
「あぁ――」
花岡は何か思い当たるような素振りを見せた。
「なんかあったの?」
「いや、まぁ、大丈夫じゃないですか? きっとまた桐原店長と何かあったんでしょう」
「店長と?」
「仲悪いんですよ。あの二人」
そう言ったっきり花岡はバックルームへと歩を進め、椅子に座って車の雑誌を読み始めた。
「もうサボり?」
「はい。もう五万も売ったんで今日の仕事は終わりです。吉秋さんももう売上とったんでしょ?一緒にサボりましょうよ」
「あ、僕は……」
「今売上、いくらですか?」
吉秋は、自分の今日の売り上げを振り返ってみる。それは決して同じスタッフに言えるような数字ではなく、見るも無残な売上だった。
御影吉秋――本日の売上、三千五百円。
「この給料泥棒」
花岡が言うと、吉秋は返す言葉を浮かばず、肩で笑った。
〔3〕
「――こちらのボトムでしたら、細見でストライプ柄が入っていて綺麗目系なので、このジャケットと白シャツで合すと、モノトーンな雰囲気が出て御洒落ですよ」
吉秋は、コーディネートテーブルに、商品を拡げて客に見せる。彼が接客しているのは、男性客で、年は二〇代前半と思わしき男である。
御洒落には滅法、無頓着な男らしく、服の知識が全くないので、吉秋にコーディネートして欲しいと頼んできた、店員の立場からしたら受動的でありがたい客だ。初めから店員に接客してもらおうと決めて着ている客なので、吉秋の無骨なセールストークにも素直に耳を傾けているのだから、正しく仏のような客なのである。
「うーん、なんかちょっと違うな」
だが、吉秋のコーディネート提案は男性客の好みに合っていないらしく、男はただ首を傾げるばかりであった。
「どのような服が宜しいですか?」
「うーん、あんまり考えてきてないんだけど、もうちょっとカジュアルな感じの方がいいかな」
吉秋は男が望んでいるテイストの服でまたアイテムを探す。
カジュアルテイストのコーディネートを見せると、男はツボに嵌ったらしく、低い声でオウ――と何かを納得した様な声を出した。
「ちょっと、これ一式試着していいかな?」
「え? は、はい! 是非試着してみてください」
試着室で吉秋のコーディネートを試着し終えた男は鏡をじっと見据えたまま五分ほど沈黙した。鏡の中に居る自分と何かを相談するかのように、男の目は真剣そのものだ。
「うーん……」
「如何ですか?」
「よし、これ一式貰っていくよ」
「え? あ、あ、ありがとうございます」
吉秋は目をまん丸にして、男に頭を下げた。男の服の趣味は未だに掴めてはいないが、何気なしに持っていたコーディネートが彼の購買意欲に火を点けたらしい。ジャケット。シャツ。パンツ。ベルとにシューズ。
それらの総額――二万五千円を超えた。
レジカウンターにて商品を渡した吉秋は何となくうれしく思い、男の後姿が消えるまで、ずっと頭を下げていた。
「やったじゃん! 御影さん」
織原が吉秋に向って声を放った。
「いや、あれはお客さんの方からコーディネートしてくれって頼んできたから、僕の力じゃないよ」
「何言ってるんよ。御影さんじゃなかったら、あんな客単価取れなかったかもしれんじゃん。何でもポジティブに捉えなきゃ、この仕事は続かないよ」
織原の忠告に吉秋はコクリと頷く。確かに彼女の言うとおりかもしれない。フラれるのが当たり前のこの業界で、売れない度にいちいち落ち込んでいては、精神に支障をきたすに違いない。吉秋のメンタルはそこまで成熟してはいない事は、彼自身一番理解していた。
「織原さん……あのさ……」
吉秋はゲンさんと花岡が言っていた言葉が気がかりだった。今この店には彼と織原の二人しかいない。例の話をするには持って来いの時間だと睨んだ吉秋は、思わず彼女に話題を持ちかけた。
「何?」
「あ、あのさ、桐原店長と上手くいってないの?」
吉秋が訊ねた瞬間、織原は表情を濁らせる。彼女はキョロキョロと辺りを見回して、客がいない事を確認すると、吉秋の腕を掴み、バックルームへと入った。バックル―ムの床には裾上げの際に使用した糸の切れ端が無茶苦茶に散乱していた。どうやらここしばらく誰もバックル―ムの掃除をしていないようだ。
「――花くんに訊いたんやろ、アイツ、ほんま口軽いわ」
「いや、まぁ、そうだけど、ゲンさんも織原さんの事心配しているみたいだったし」
「ゲンさんが?」
「前にね。織原さんが最近元気ないって、昔はもっと進んで接客してくれたのに、最近は全然してくれなくなったから、寂しいって言ってたよ」
「ゲンさんが……そうなんや……やっぱり私、プロとして失格やな。お客さんの前で、ほんとはこの仕事してるんが辛い事を表情や態度に出してしまうなんて」
「辛い?。それは――もしかして桐原店長と」
「あの男は最低や。アイツのせいで、祥ちゃんは病んでしまってんや……」
祥ちゃんという名前を、吉秋は、この時初めて聞いた。
「祥ちゃんって?」
「一緒に働いてた女の子や。元店長代行をしてた子。私はその子の紹介もあって、ここに来てんけど。そして桐原店長が人事異動でここに来たんは、約二年ほど前――あの男が来てから祥ちゃんは変わってしまってんよ」
桐原と織原。そして祥ちゃんという女に一体何があったのか?
吉秋はこれほど暗い表情を作っている彼女を見るのは初めてだった。
「何があったの?」
「桐原店長は、売上の事しか考えてない。あの男は、祥ちゃんをリストカッターに陥れた張本人やんねん。桐原店長が来るまでは私も祥ちゃんも、楽しく接客してて、あんまり売上とか気にしてなかったけど、アイツが来てから店の方針はすっかり変わってしもうて、祥ちゃんは元々売れっ子販売員やったけど、桐原店長には全然勝てなくて、調子が悪くて売上が取れないときは、よう桐原店長に怒られとった。――何故売れないのか? 何故、お客さんにフラれるのか? そんな事をアイツに問い詰められる度に彼女よう落ち込んどってん」
「それで、リストカットを?」
「そや、ある日、桐原店長が居ない時にちらっと私に手頸見せてきてな、うっすらと赤い傷跡が残っとった。祥ちゃん、よっぽど辛かったんやろな。副店長って立場もあるやろうけど、そこまで追いつめてる事に気付けない店長なんて最低やわ」
「それで祥ちゃんはどうなったの」
「辞めたわ。桐原店長がここ来て少し経ってな。ここに入る時の祥ちゃんの顔と、この店を去る時の祥ちゃんの顔はまるで別人のようやった。目の下に隈なんか作って、欝病の患者みたいな顔しとったわ。でも彼女にとっては辞めて正解やったかもな。あのままおったら、ほんまに精神異常起こしておかしなっとたに違いないわ。祥ちゃん、売上取れない自分の事嫌いになっとったみたいやし」
「そんな事が……」
「それで、祥ちゃんの代わりに私が代行になったってわけやけど、多分私も、あの時の祥ちゃんみたいな顔してるんかな。接客が全然楽しくないし、売上取れへんだら、裏で桐原店長に尋問されるから」
「織原さん……」
「販売っていうのは甘くない世界やってのは分かる。――けど、誰にでも調子のいい日と悪い日がある。それをアイツは分かってないねん。確かに桐原店長は滅茶苦茶売る人には違いないけど、もう少し下の子の気持ちも考えて欲しいねん。ミーティングの時だって、私はアイツに一方的に 『もっと売れ』 って指示されるばっかりで泣かされる始末や……だから、だから……」
織原は我慢の糸が切れたように眼球を赤くした。
「織原さん、あのさ、祥ちゃんって人は今はもう大丈夫なの?」
「この前で久しぶりに連絡取ったけど、今はなんや将来看護婦になりたい言うて学校行ってるみたい。大丈夫やと思うで」
「そっか……桐原店長がそんな人だなんて知らなかったよ。一緒に仕事してるときもほとんどしゃべらないから」
「御影さんはまだ新人やから何も言われへんけど、花くんとかは結構裏で言われてるみたいよ。でも花くんは学生やし、ここで真剣に働くつもりも無いから、適当に話し聞き流しているらしいけど」
サボる時はサボって、売る時は売る。
桐原の話を聞き流せるのもそんな花岡の性格だからできるのだろう。吉秋はそう思わずにはいられなかった。
「僕ももっと頑張らなきゃ、桐原店長に何言われるか分んないな」
吉秋は追憶する。
吉秋が店に入って間もなく二カ月が過ぎようとしていた。何か変わっただろうか。
販売知識――ない。
セールストーク――下手くそ。
客とのコミュニケーション不足。
人間嫌い。
課題は山済みで吉秋はこの二カ月の間で自分が何も変わっていない事に気づいた。出来る事と言えば、服を畳む事や、パンツの裾上げ。ガラス拭きや埃落としなどの店の掃除といった小学生でも出来そうな作業しかできないのだ。
売上は相変わらず伸びていない。
吉秋は、この二カ月間何をしていたのかと、自らを情けなく思った。このままでは自分もいつか桐原に潰されてしまうのではないか。
織原がバックルームから出て、再び接客に入った頃、桐原が出勤してきた。
桐原は接客を終えた織原を呼び出す。彼は織原と少し話しをした後、吉秋を呼んだ。
「吉秋、織原とミーティングして来るからしばらく店頼んだ」
「は、はい」
裏口に向かう二人。
ドアが閉まる前、一度だけ織原が吉秋を見返った。
その時の彼女の顔は、どこか寂しげで彼に助けを求めているような顔だった。
ドアがガチャン――と音を立てて閉まった後も、吉秋は黙々とその白いドアを見続けていた。
店に客が居るというにも関わらず、吉秋がしばらく茫然としていると、花岡と北野が出勤してきた。マネキンのようにドアを見つめる吉秋を見て最初に声を掛けたのは花岡だった。
「吉秋さん? あの――仕事しましょうよ」
X X
吉秋と北野は共に従業員休憩室にいた。室内は別のテナントで働いている従業員達の声音で賑わっている。吉秋と北野は部屋の奥のソファーの上でくつろぎ姿勢のまま、缶ジュースを飲んでいた。
「祥ちゃん? あぁ、知ってるっすよ」
「何で、僕と同期の忠助が祥ちゃんを知ってるんだ?」
「だって俺、もともと、この店のお客さんだったっすもん」
北野が「Metamorphose」の商品知識について詳しかった理由を吉秋は理解した。元々常連客なら、この店にどんな服が置いてあって、どんな商品が売れるのか知っていて当然だった。更に前職が競合店「sea sound」の従業員。素材知識や販売スキルも何もかもが吉秋の遥か上にいた。
「その時に祥ちゃんと出会ったわけか」
「そうっす。結構可愛かったっすよ。何回か接客して貰ったこともあるっすし。商品についても詳しかったんで、よく服の話で盛り上がったっす。『Metamorphose』 って英単語の意味を教えてくれたのも彼女だったっす」
「意味?」
「――変身――って意味らしいっすよ」
直訳ではないか。と吉秋は思った。
「お客さんを華麗に変身させるってニュアンスなのかな」
「さぁ――でも多分そんな感じっすよ。現にお客さんを御洒落にするのが俺らの仕事なわけっすから」
「あのブランドロゴにはそんな意味が込められてたのか」
「綺麗事っすけどね。この業界は数字っすよ。桐原店長は、少なくともお客さんと仲良くするのは上辺だけで、結局は数字の事しか考えてないと思うっす」
「忠助もそう思うのか?」
「忠助も?」
「いや、織原さんが――」
桐原を軽蔑している――と言おうとしたが、吉秋は、はっとして口籠った。新人の北野にこの事を話せば、職場環境に良くない。自分も織原の話を聞いて、良い感情は抱かなかったからだ。
「織原代行がどうかしたんすか?」
「いや、何でもない」
「そうっすか、ところで、最近調子はどうなんすか?」
「あ、あぁ、全然、僕この仕事向いてないかも」
吉秋は先ほどパソコンで見た二月度の売上実績の事を思い出していた。
担当者 売上数量 売上金額
961××1 桐原 司 450 ¥3,656,584
471××2 織原 綾 150 ¥989,952
472××5 花岡 智樹 72 ¥659,865
473××4 御影 吉秋 40 ¥256,508
474××8 北野 忠助 126 ¥865,867
「全然伸びてないよ。忠助達に比べたら売上数量も全く劣っている。接客も相変わらず下手だし、本当に課題は山済みだ」
忠助は吉秋が言った月末締めの実績を聞いて、なるほどね――としばらく掛ける言葉も見つからないのか、黙っていた。
「その数字じゃ、まだまだ先は長いっすね」
「そうなんだよ」
「――でも改善策は絶対あるはずっすよ」
「どんな?」
「ヨシさんはいつも自分の接客の悪い点を克服しようと考えてるっすよね?」
「あぁ、何かが悪いからお客さんが逃げていくんだろ?」
「違うっす」
北野は断言した。
「何が違うのさ」
「よく考えてくださいっす。接客に模範解答なんかあると思うっすか? ヨシさんはいつも自分の悪い点を洗い出して、接客をもっとより良くする為に色々変えようとしているっすけど、それは間違いだと思うっす。ヨシさんにはヨシさんにしかできない接客があるから、無理して変わらなくても、ありのままの自分を受け入れて、そのままの自分でお客さんにぶつかっていった方がいいと思うっす」
「確かにそれもそうだが、ありのままの自分をどう表現していいのか分からないから困っているんだ。商品知識だって、販売スキルだって、素材の知識だって、まだまだ勉強不足だし、分からない事だらけなんだよ」
「だったら、服の事全然知らないなら、知らないなりに、素直に他の事でコミュニケーションとったらいいじゃないっすか」
「それが出来ないから悩んでるんだよ。元々持って生まれた素質が違うんだ。――やっぱり僕、この業界でやっていくの、無理だよ」
「辞めるんっすか?」
「いや、そう簡単には……」
「また辞めるんすか? 小説家って言う大きな夢も辞めて、新しい仕事も辞めて――ずっと、ずっと、そうやって逃げるんすか?」
北野の言うとおりではないのか。
吉秋はそう感じた。
確かに彼は夢を捨てた。恋人である咲奈との将来を考えての決断だった。人は先が見えないという事に恐怖を覚える。吉秋もまた人の心理に従って、恐怖から目を背け現実と直視する事によって未来を見据えようとしたのだ。だがいざ現実と向き合ってどうだ? 今まで散々夢を理由にして安定した職にも就いていなかった。それでいいとずっと思っていた。だが、彼が夢を見ている間に現実社会は刻々と時を刻んでいき、彼は知らぬ間に社会に置き去りにされていたのだ。
北野の方が余程、現実を理解していると思った。
しかし、それをありのまま受け入れてしまうのは、なんだか北野に負けたように思えて、吉秋は彼の真摯な視線から目を逸らすことで、敗北から逃げる事にした。
「逃げるわけじゃない。向いてないから、辞める――ただそれだけの事だと思うんだ。先の事を考えて今の仕事から別の仕事に変える。それだけだ」
「次の仕事も向いてなかったらどうすんっすか?――また……また変えるんっすか?」
詰問だった。
吉秋は困惑の色を浮かべる。
「そ、それは……」
「今の課題を克服しないと、次はやってこないと思うっす」
「今の課題……」
「ヨシさんは何がしたいんすか? この仕事をしたいんすか? それともまだ小説に未練があるんすか? ヨシさんが手に入れたいものって一体何なんすか?」
「僕が手に入れたいもの……」
吉秋は目を伏せた。
答えが出ない。
真っ直ぐな北野の視線を受け止める勇気が彼にはなかった。
「ヨシさんは何が欲しいんすか?」
小説家という夢はもう捨てた。
現実に仕事に就く道を選んだはずだった。仕事なら何でもいいと考え、たまたま面接にうかったのがこの店だっただけだ。
だが、結局吉秋は再び社員になりたいという希望を見失っている。
「僕は、ただ彼女と幸せになれる道を選びたかっただけだ」
「彼女――いるんすか?」
「いる」
「じゃあ、その彼女さんの為にも、弱音なんて吐いてちゃ駄目っすよ。ちゃんとした職に就いて幸せになったらいいじゃないっすか」
「そうだな」
「ヨシさん。誰が言っていたかは忘れてしまったっすけど、こんな言葉があるっす。『結果っていうのは行動の果てにしか生まれないもの。行動もせずに結果を求める事を愚か者の法則』って言うらしいっす」
誰が言ったかも分らない言葉をよく覚えているものだと吉秋は思った。
しかし、とても心理をついた言葉ではある。
「僕が直視しないといけないのは、結果じゃなくて、行動ってことか……」
「そうっす。数字の事を気にする前にもっと行動するべきっすよ。商品知識が無いなら、色んな他所の店に行くなり、雑誌や本で勉強するなり――何事も行動っすよ。行動」
「確かに」
吉秋が腕時計の指針に目をやると、休憩時間が過ぎている事に気がついた。
「忠助……もう休憩時間とっくに過ぎてる。戻ろう。花くんに迷惑だ」
「そうっすね」
〔4〕
春を迎えても、まだ気温は低く、肌寒い天気が続いていた。三月になると、館内のコンコースを歩く人だかりも多くなり、おのずと来店客も増えてくる。三月は卒業シーズンというのもあり、学生を引き連れた主婦層の客が多かった。コンコースの広場には、巨大な桜の木のレプリカ模型が飾られていて、春の訪れを物語っている。
この頃になると、四月から一人暮らしをする息子の為に洋服を一式そろえたいというニーズを持った客層が増えるせいか、吉秋は次第にコーディネート販売に慣れてきたのだった。
三月後半に差し掛かったある日の午前11時。
「いらっしゃいませ。良かったらお伺いしますが」
吉秋は一人の女性客に声を掛ける。
女性は、彼氏へのプレゼントを探しているのだという。あまり高くなくて、彼氏が喜びそうなもの――というニーズを持った客である。
吉秋は店内から何点かの商品を見せて、女性客に見せる。売れ残りの安いパーカーや、半額になったパンツ。低プライス商品で、なかなかプレゼントにはとっておきの商品に違い無かったが、女性客の反応はいまいちで、ただ首を左右に振るばかりだった。
「お兄さん――センスない。私、違う店で探すわ」
女性客はそう言い残し、店内を去っていた。
少しずつではあるが接客に慣れていく吉秋ではあったが、フラれるのは毎度の事である。一向にアプローチタイミングがつかめないのだ。
店を開けてから、まだ売り上げは立っていない。
こんなことでは、午後から出勤してくる桐原に何を言われるか分からなかった。
午後になると、桐原が険しい顔をして出勤してきた。バックルームに入った桐原は羽織っている薄手のミリタリージャケットをハンガーに掛けると、吉秋を手招きして呼んだ。
「――少し話がある」
桐原は神妙に言う。
「何ですか?」
「貴方には、四月から代行になって貰う。いいな?」
二人の間に軽い沈黙が流れた。
「どうしてですか? 代行は織原さんじゃ?」
「織原は辞めた」
「え?」
吉秋は絶句した。
桐原はそれから訥々と話を始める。話の要約はこんな事だった。
二月末に織原は突如として桐原に退職届を出したのだという。桐原が辞める理由を訊ねると、彼女は店長の考え方についていけないというものだった。客とただ仲良くしたいと思いながら、接客するのがポリシーである織原と、販売とは駆け引き――多少強引になっても客に提案を持ち掛けるのが仕事という考え方を持った桐原が衝突するのは必然であったのかもしれないが、織原はついに我慢の糸が切れたのか、先日の桐原とのミーティングで「辞める」という三文字を口にしたのだった。
桐原は引きとめたという。
一番のベテランに辞められては店の売上が立たない。
ゲンさんのように彼女を懇意にしているファン層の客も多かったのだ。彼女が消えるという事は、彼女を訊ねてくる客層を失うという事だ。
「俺が織原に厳しくしていたのは、彼女に良い販売員になって欲しかったからだ。――なのに、アイツときたら、勝手なこと言いだして……」
桐原が壁をドンっと音を立てて殴った。
「桐原店長……」
「アイツ、何で落ち込んでることを俺に話さなかったんだ? 祥子の事だって俺は知らなかった。アイツの事を俺がそんなに追い込んでるなんて考えたことも無かった。――祥子がリストカットしてたなんて、全く知らなかった。だから、アイツ……祥子――何も言わず店を辞めたのか……」
桐原は眉間に深い皺を寄せて、険しい表情を作った。
祥子とは、織原が言っていた祥ちゃんという女なのだろう。
織原は、桐原に退職を申し出る際に、きっと祥子の事を彼に打ち明けたのだ。桐原のこの様子を見ていると、彼は本当に自分が祥子を追いこんでいた事に気づかなかったのだろう。
「桐原店長――あの、販売って何ですか?」
吉秋は馬鹿な質問をした。
接客販売の「せ」の字も知らない自分がこんなことを聞いて何になる? と彼は心の奥底で考えたが、それでも今の桐原の姿を見ていると聞かずにはいられなかったのだ。
「販売――それは俺にも分らん」
以外な答えだった。
「何故です? あれほど売ってて……」
「俺なんか、ただキャリアが長いだけだ。貴方達の先輩ってだけ。貴方達の延長線上にいるだけで、販売っつのが、どういうものなのか、今の俺にも分らん。大体、販売業に天井なんてものはないんだよ。自分で天井を決めたら、そこまでの販売力しか身につかないからな――ただこれだけ長いキャリアを重ねていると、お客さんと仲良くする事だけが、販売とはどうしても思えん。少しばかり腹黒い方がこの業界には向いてると俺は考えている。だから、俺は決して下の連中を甘やかしたりはしなかった」
「そうですか……」
「俺は決してあの二人が憎くて、貶していたわけじゃない――まだあの二人には販売員としての伸び白があると確信していた。だから『もっと売れ』と背中を押していたんだ」
そういう理由があったのか。
要するに桐原は祥子と織原という販売員を教育したかったということだった。しかし、二人はそんな桐原を憎らしく思い、店を辞める経由に至ったわけだ。
吉秋はなんだか三人を不憫に思った。
「織原さんの代わりに僕が……」
吉秋は自信無さげに呟く。
「吉秋――貴方は社員を目指していると言った。正直最初は織原が辞めたら代行という立場を北野に任せようと考えていた。しかし、アイツはその立場を貴方に譲ると言っていた」
「忠助が? どうして?」
「――貴方が社員を目指していることを知っていたからだ。そして、俺も敢えてここで貴方にプレッシャーを与えようと考えた」
「プレッシャー?」
「要するに貴方は四月から副店長――他の誰よりも売り上げを取らないといけない立場になるってことだ。北野、花岡に売上で負けてるようじゃ、代行って立場は務まらない。店の二番手が率先して販売することによって店の指揮があがる――吉秋、できるか?」
吉秋は顔を蒼くした。
「で、で、できるわけないじゃないですか」
あたふたしている吉秋を見て、桐原は彼の脆弱な目を制するように睨めつける。
「何故だ?」
吉秋は必死に説明した。
自分が如何に未熟であるかを。
二月度の売上実績を見て、吉秋はすっかり自信を失っていたのである。北野や花岡に大きな差を付けられているというのに、自分が代行という立場で二人をリードするなんて無茶な話だ。
吉秋は桐原の鋭い双眼を睨み返した。
「僕にはできません。接客も下手だし、お客さんにフラれてばっかりだし」
言い訳など後108個は言えそうだった。
「出来ない……俺の一番嫌いな言葉だ。いいか、吉秋。人間の能力に限界はないんだ。人は動物と違って高度な生き物だからな。だから、俺は貴方を代行に指名したい。社員になりたいのなら、その立場を利用してのし上がって来い」
「無理です――だって僕」
吉秋は言葉を切った。
「なんだ?」
「僕――まだ恐いんです。初対面の人に話しかけるのが」
「何を恐れる? 子供じゃないんだから」
桐原は呆れたように言った。
しかし、吉秋にとっては、大問題だった。
「人と接するのが苦手な僕が忠助や花くんに勝てるはずがないんですよ」
「貴方って人は……吉秋、そういえば、まだ聞いてなかったな。何故人と接するのが苦手なのかを?」
「そ、それは、単純に人と接してきた時間が少なかったからだと思います。だって文章ばっかりと見つめ合ってきたわけだし、友達だって少なかったし」
「――なら簡単な話だ」
桐原は不適な笑みを浮かべて、人差し指を立てた。
よく見ると、桐原の長い指の爪先は丁寧に磨かれていて、つやつやしている。
「何が簡単なんですか。僕にとっては大問題なのに」
「吉秋――貴方、面接の時になんて言った? 忍耐力には自信があるって言いませんでしたか?」
桐原の敬語を聞き、吉秋はビクついた。
「い、言いましたけど」
「なら、その忍耐力で、人間嫌いを治してみてよ。貴方はずっと作家という夢に向って一人で闘ってきた強い人――そうじゃないのか?」
そうなのだろうか?
吉秋は自分でもよく分からなかった。
強いと言われたのは、初めての事だ。
今まで、そんな事を言った人間は数少ない。咲奈以外の人間達はいつも彼の夢を否定していた。今時夢を追うなど馬鹿げていると罵られた事もあった。コンビニで働いている時も周りのフリーター仲間に、「仕事したくなくて、夢に逃げてるだけだろ?」 とからかわれたこともあった。
逃げているのは夢もろくにないのにフリーターやってるお前たちだと言い返してやりたかったが、気の弱い彼は当然言えなかった。
「ぼ、僕は確かに本気で夢を追いかけていました。本気で作家になりたくて、毎日執筆して、新人賞に応募して――でもデビューできなくて、家で一人で泣いたりしたこともあって、ただ我武者羅に、頑張ってきた。だから努力にはなんの意味はないって分かったんです」
「吉秋……努力は確かにこの業界では意味がない。販売業は数字が全てだ。数字さえ出していたら会社は評価してくれる。例え、どんな腐った考え方を持っている販売員でもな。だが、数字を出す為には、ある程度の勉強、努力もいるんだ。分かるな?」
「はい……」
「吉秋、貴方はきっと今まで苦労してきたんだろう。周りの人に色んな事で馬鹿にされてたかもしれない。今の時代、夢を追おうなんてしてるヤツは珍しいからな。人は自分に出来ないことを他人にやられると腹が立つものだ。ましてや前向きに夢を追おうなんてかっこいい奴を見たらムカつくに決まってる。かっこつけやがって――ってな。きっと、現実から逃げたいだけなんだろ?って馬鹿にされたこともあるんじゃないのか?」
桐原の問いかけに吉秋はコクリと頷いた。
「はい、何回も言われたことがあります」
「だが違うんだろ? 面接の時、初めて貴方を見た時、最初はなんて頼りない男だって馬鹿にしてた自分がいた。だけど、貴方の眼を見て違うって分かった」
「眼……ですか?」
「吉秋、馬鹿にするなよ。俺は今まで何万という人間を接客してきたんだ。人間の能力なんてそいつの眼を見ただけである程度把握できる。吉秋、貴方の眼は、逃げてきた人間の眼じゃない。貴方の眼は――必死に戦ってきた人間の眼――だ」
「戦って来た……眼?」
「貴方はどうしたいんだ? これから? 戦うのか? 戦わないのか?」
吉秋は即答できなかった。
桐原の言うように、彼は今まで現実から逃げたくて作家業に勤しんできたわけではない。誰もが成しえないことをして偉大になりたかったわけでもなかった。
ただ、物語を作りたかっただけだ。
自分の書いた物語で人を楽しませたかっただけだ。
「ぼ、僕は逃げたいなんて思った事は一度もありません。だから夢を無くしたからって、何もしていないわけでもない。しっかり働いて、社員になって彼女と幸せになりたいだけなんです。夢が無くても僕は前を向いて歩きたい」
「吉秋、今度は貴方自身の物語を現実にしてみろ。貴方の思い描いた世界を、小説にするんじゃなく、現実にするんだ」
「小説じゃなくて、現実に……」
「貴方は、この物語の主人公なんだよ。メンズカジュアルショップ「Metamorphose」で働いている主人公、御影吉秋の物語――貴方はこの世界で輝くんだ」
「僕が主人公――?」
「貴方なら出来る。孤独を生き抜いてきた人は強いと俺は信じてる。吉秋、『みにくいアヒルの子』という物語を知っているか?」
吉秋は無論知っている。
題名の通り、醜いアヒルが最後の最後で白鳥に化けるというありふれた話だ。
「それがどうしたんですか?」
「貴方はまだアヒルなんだ。この先、もっと辛い出来事に遭遇するかもしれない。けれど、最後の最後にはきっと、必ず――」
桐原の真っ直ぐな目から吉秋は視線をずらした。
「僕、アヒルなんかじゃないですよ」
「そう、貴方は貴方。アヒルはあくまでも例えだ。そして貴方が目指す場所は、俺でもない。吉秋、貴方も男なら、俺なんて小さな目標を追ってないで、もっと上を目指すんだ」
「もっと上ってどういうことですか?」
「上には上がいるんだよ。――たとえば、み……」
ここで桐原は言葉を切った。
桐原よりすごい売上を作る人間がいるということか?
「み?」
「いや、何でもない」
桐原は視線を伏せた。
桐原はここで話題を変えて、吉秋にある提案を持ち掛ける。それは吉秋の性格をどうにかこうにか好転させる為の対処法と言うべきものであった。
「吉秋、今から言う事は店長からの業務命令だ。よく聞け」
「はい」
「これから貴方に二週間の休みをやる。勿論、貴方はアルバイトだから時給制。その間の給料は俺が払ってやる。いいな?」
意味が分からない。
吉秋は堪らず訊き返す。
「に、二週間も休み貰って、給料が出る? 一体、何の冗談です?」
「接客の苦手な貴方にある課題を与えるって言ってるんだ。そんなに自信が無いなら街に出て接客を受けてきなさい」
桐原の命令はこう言うものだった。
接客の下手くそな吉秋に二週間の休日を与え、その間に大阪のファッションビル街や商店街に行って、様々な店員の接客を実際に受けさせるといったものだ。
一人の客として、プロの接客というものを味わい、それを自らの接客に取り入れるといった魂胆である。
梅田や、堀江、難波、心斎橋――大阪には様々な若者ファンション街が存在している。
吉秋は無論、今までそんな御洒落な街に進んで行った事は無かった。
「マ、マジですか?」
「マジだ」
吉秋の長い休日は始まった。
X X
――一つ忠告しておくが、休日といっても、貴方には課題を与えている。きちんとどこに行ったかを俺に引き継ぐように。lineのIDを教えておくから、行った場所と学んだ事を随時報告するするんだ。
地下鉄御堂筋線――心斎橋。
桐原からの指示で、吉秋は大阪に出向いた。
空には一面の蒼が拡がっていた。雲ひとつなく快晴である。
心斎橋筋商店街を抜け、吉秋はあるところへ向かっていた。それは若者の街、アメリカ村だ。
奇抜なファッションをした若者たちが街に活気を与えている。三角公園には幾人かの若者グループが屯し、談笑に耽っていた。甲賀流という看板を携えた出店からは、たこ焼きのおいしそうな香りが漂っていた。
周りにはいくつもの服屋が軒を連ねている。
様々なブランド店が建ち並んでいたが、吉秋はそのブランドが有名なのか、無名なのか、さっぱりわからなかった。
「とりあえず、ブラブラして、気になったところから入ってみるか」
吉秋は独り言を言って、アメリカ村の賑わう通りを歩き始めた。
「ヘイ!マイブラザー!」
唐突に声がしたので、吉秋が立ち止まり、周りを見渡していると身長一八〇センチほどの巨大な黒人の男がにっこりと白い歯を覗かせて、近づいてきた。
B系ファッションというのは、この黒人がしている服装の事をいうのだろうか。淡いオレンジのTシャツはその男のサイズとあきらかに一致してはいない。丈が長く、なんとなくだらしない雰囲気で、彼が履いているズボンも、4Lぐらいはありそうな随分とダボッとしているものだった。
「うわっ 何するんだ」
B系の黒人は、突然吉秋に抱きついた。男からは強い香水の香りがする。
「ちょっといい服あるから見ていってよ」
黒人は意外にも日本語が上手く、英語がさっぱりわからない吉秋もすんなりと彼と話が出来た。
「いきなり何するんだよ? 放して」
「何だよ? ブラザーは冷たいね」
黒人は吉秋から離れ、なんだか酷く寂しそうな面をした。
「僕はブラザーなんかじゃない」
流石に吉秋も黒人の馴れ馴れしさを不愉快に思った。黒人というのはこういう人種なのかと自問するが、それにしても余りにも初対面の人に接する態度としては無礼ではないか。そう思った吉秋は黒人の可愛らしい大きな目を睨みつけ、文句を言った。
「冷たいね。ブラザーは」
「だから、僕はアンタの兄弟じゃない」
「人類は皆、友達。兄弟ね。お兄さん、御洒落に興味あるでしょ? 良かったらうちの店見ていくね」
「アンタ服屋の店員なのか?」
「そうね」
黒人は自分の名前をボビーと名乗り、吉秋の手を握って、無理やり彼を自分が働いている服屋へと連れて行った。嫌がる吉秋の気持ちなど差し置いて、ボビーは真っ白な歯を見せながら急ぎ足で三角公園の北東にあるショップへと向かう。
ボビーが働いているショップには、やはり彼が着ている様なB系の服が置かれていた。店内に飾られた派手目のTシャツ。ヴィヴィッドカラーが今年のトレンドなのだろうか。鮮やかに彩られた店内を見てると眼がチカチカする。
「さぁ、気に入った服どんどん試着するね。きっとブラザーに似合うから」
なんという強引な店員だ。
吉秋はボビーの余りの強引さに半ば呆れ、思わずため息を零した。果たして、これは接客と呼べるものなのだろうか。
第一、ボビーが言うように、人類が皆兄弟なら世界に戦争など起こらないだろう。ボビーの頭の中にはきっと綺麗なお花畑が拡がっているに違いない。
そんな吉秋の感情とは裏腹にボビーは相変わらずにやにやとしている。
「あのさ、ボビーみたいな接客ってありなの?」
吉秋は堪らず、訊ねた。
「どういう意味ね?」 ボビーは訝しげに質問返しした。
「一応僕、ボビーの同業者なんだけど」
ワオッ!
ボビーは少し女の叫び声にも似ている甲高い声を上げた。
「ブラザーは服屋の店員だったの? これは素晴らしい。 この出会いは素敵。やっぱりお兄さんは私の兄弟、家族ね!」
吉秋はボビーの発想についていけず躊躇い、しばらく呆気にとられた。一体この男からどうやって逃げようか。
「あのさ、僕、時間無いからそろそろ帰るよ」
「待つね。まだ服見てないね。帰るのはまだ駄目ね」
ボビーはどうしても吉秋を帰らしたくないようだった。
踵を返す吉秋の手を無理やり掴み、不適な笑みを浮かべている。
「あ、あのさ、これって接客じゃなくて、押し売りって言うんじゃないの? 僕、ここで服買うつもりないから」
吉秋は堪忍袋の緒が切れそうだった。
「じゃあ、どこで買うの?」
「いや、どこって別に決めてきたわけじゃないけど」
「それじゃあ、ここでもいいじゃない?」
吉秋は困惑する。
吉秋はアメリカ村に服を買いに来たわけでもない。現に彼の財布の中には、ここまでの交通費を踏まえた一万円ほどしか入っていなかった。これでは服を買えたとしてもTシャツぐらいだろう。ただ接客を受けて、勉強になる事があれば、自分に取り入れるだけの事。服を買う事など予測していない。
こんな面倒に巻き込まれるとは考えてもいなかった。
「良くないよ。ほんとしつこいな! ボビーは! こんな強引に接客して、店長に怒られないの?」
「怒られる? どうして? このアメリカ村は戦場ね。 どこの店の店員も客を取る為に必死に呼び込みしてるねん。私も、頑張ってお客さん捕まえてるだけね」
「――にしてもとにかく、腕を離してよ」
ボビーは不思議そうな顔をして、吉秋の手を離した。
「ほんと無茶苦茶だ。第一、ボビーはまだ僕が何を欲しいか訊ねてもないし、ニーズがあるのかないのか確認もしていない。そんなの接客じゃなくてただの押し売りだと思うよ」
「お兄さん、酷い。私、こんなに頑張ってるのに」
「いや、それは、そうだけど、まずはお客さんの話も聞かないと駄目だ」
これほど強引な接客を受けた事が無い吉秋にとって、ボビーの客に対するもてなし方は新鮮であったが、受け入れることは出来なかった。
国籍が違うといえども、ボビーの接客は、桐原の様なスマートなものではなかった。
もし吉秋がボビーと同じ様に、店の客にいきなり抱きつけば、間違いなく、桐原の逆鱗に触れるだろう。 とりあえず吉秋はボビーとの口論を無意味に思い、彼の店を見て回る事にした。別に欲しいものがあったわけではないのだが。
小一時間ほど経過すると、吉秋は三角公園の隅で呆然と立ち尽くしていた。結局、吉秋は手持ちの金を使って、Tシャツを買ってしまったのだ。
無論、半分押し売りに近かったが。
ボビーの強引な接客に疲れた吉秋は、しばらく動く気にもなれず、ただぼんやりとしながら、賑やかな街を眺めていた。服屋の前で必死に客引きしている十代ぐらいの店員達。皆、大きな声を出している。それほど大きな声で声掛けしても、道行く人々は、彼らをめんどくさそうに無視している。無視されても尚、店員達は声を出し、客引きを続けている。
「無視されるのが、当たり前なんだ……」
吉秋は、踵を返して、ボビーが居る店へと戻った。
「ワオッ、どうしたね? ブラザー何か忘れもの?」
店に戻るとボビーは大きな目をぱちくりさせていた。
吉秋は忘れていた。
自分の名前を言ってなかったことに。
彼はバッグの中からカードケースを取り出し、驚いているボビーに店の連絡先と自分の名前が書かれた名刺を渡した。
「ミカゲ ヨシアキ? オゥ! ブラザーは吉秋って名前なのね! 素敵な名前!」
「僕もボビーの店で買い物したんだから、今度はボビーもうちの店来てよ。待ってるから」
「オゥ、勿論行くね! 吉秋はブラザー。ブラザーの為ならどこでも行くね!」
自己紹介を終えた吉秋はボビーと手を振り別れた。
店を出た吉秋は、たこ焼き屋のベンチで食事を済ませながら、スマートフォンで桐原に今回の一件を報告した。アメリカ村で新鮮――いや、斬新な接客を受けた彼はしばらく通りをぶらぶらした後、夜の闇に消えていった。
彼は翌日も、その翌日も街へと足を運び、様々な接客を受けたのは言うまでもない。
X X
(二週間の経由を簡潔ではありますが、報告します。)
三月四日―心斎橋アメリカ村にて黒人の接客を受ける。馴れ馴れしい接客で、無理やり服を買わされた。
三月五日―H○PFIVE―美人の女店員に接客を受け、コーディネート一式を買う。
三月六日―天神橋筋商店街―十代ぐらいのお喋りな男性店員に接客を受けるも購入には至らず。
三月七日―難波―○イ系ショップにて接客を受けるも、お金が無かったので、購入できなかった。しかし、終始にこやかなお兄さんが接客してくれたので、気持ちよく商品が見れた。
三月八日―堀江……
以下省略……




