6
ロウダン帝国は、黒の大地にある中小の国々を統治し、その頂点に立っていた。
帝国の紋章は、肥沃な大地の豊穣を表す金の麦穂に縁どられ、中に栗毛の二頭の馬が前脚をあげ交差している。
その重厚な扉に浮彫りされた紋には、帝国の紋章に描かれた馬の背後に、更に雫型の黒耀石が加えられている。皇帝だけが許された皇帝の紋である。
紋が示す通り、この部屋は皇帝の執務の間だ。扉の両脇には、二人の皇帝付親衛隊が控えている。
3人の男たちは、躊躇していた。皇帝の紋が施された扉の前で躊躇していた。
皇帝の執務室に呼び出されたのは、先刻。本当に呼び出されたのは、彼らの上司である某伯爵だが、体調不良を理由に姿を消した。
代わりに出向くのに、一人では無理だと、二人でも心細く、3人で出向いた。
はっきり言って、この部屋は胃に悪い。
ぐずぐずと扉の前を3人でいったり来たりする。
警備の親衛隊は、慣れているのか不審がる様子はない。が、さっさと入れと目で促してくる。
以前は、皇帝に拝謁する場合は、謁見の間を使用していた。しかし、現皇帝が、効率性を理由に直接執務の間に呼びだすようになったのだ。
そもそも、皇帝が、多少の位があるとはいえ、臣下と直接会うことは、あまりないはずだ。
しかし、ここロウダン帝国では、それが慣例となりつつある。
腹を決め、伺いを立てると中から扉が開かれた。
皇帝の執務室は、広い。
入った正面では、いつものように文官達が眉間に皺をよせ膨大な書類と格闘していた。
この文官達は、学術に精通しているのは当然のこと、武芸にも秀でた者ばかりだ。万が一、この部屋に侵入者が押し入った場合、皇帝の盾にもなりえる、言わば文武両道のエリートだ。
男たちは、文官に従いさらに奥に進んだ。
「お、お呼びにより参上いたしました」
男たちは、最高礼を示した後、恐る恐る頭をあげた。本黒檀の重厚な机の向こうに座する皇帝と目が合い、びくりと体を震わし、すぐさま、また頭を垂れ視線を避けた。
漆黒の髪と瞳を持ち『鋼の皇帝』と呼ばれるロウダン帝国皇帝グランジウス。
一言で表せば、精悍というのだろう。眼光鋭い切れ長の目、意志の強さを示す筋の通った鼻梁と引き締まった唇。肩まである髪は、たてがみのように後ろに靡かせ面貌を際立たせている。
広い肩幅が、父親譲りの長身の体躯を更に大きく見せていた。
そして、その体から繰り出される剣も帝国随一と誇られている。先の敗戦の後、内戦が起き、その際、砦一つをたった一人で落としたという逸話があるが、誰もそれを偽りとは思わないだろう。
「陛下は、灌漑事業の責任者を呼んだはずですが」
口を開いたのは、皇帝の脇に立っていた宰相イオリだった。
3人の男たちの胃が、チリチリし始めた。
宰相イオリは、三十歳という帝国一若く宰相の地位につき、皇帝の頭脳と言われている男だ。
細身の体に、頭の良さを表わす広い額をさらし、背中までの黒髪を一つに結っている。
見た目だけなら、侍女たちが、その容姿に浮かれるのもわかる。
しかし、男たち下役にしてみれば、するどい追及と完璧なデータで逃げ道を奪い、的確に相手を追い詰める、できれば会いたくない相手だ。
宰相イオリが、すらりと伸びた中指でレンズとレンズの繋ぎ目をすっと押し上げた。
こんな、どうということもない仕草でも、宰相イオリが為すと侍女たちは喜ぶ。
今、そのレンズの奥の瞳は、鋭さを増している。
「体調不良という連絡は、受けましたが。そのような者に重責を担わせるのは酷というものですね。代わりにあなた方が役につき責任を取りますか?」
「そ、そんな」「と、とんでもございません」「無理です」
イオリが、男たちを追及している間、皇帝グランジウスは、口を閉ざしている。
通り名である『鋼』は、強靭さだけを表すのではない。
端然たる容貌は、堅い鋼のように表情を変えることは少なく、笑顔を乗せることはまずない。加えて、凍てつくような視線と放たれる威圧感が、人を慄かせ寄せ付けなくさせるには十分だった。
それは治世にも及んだ。
若干十八歳で皇帝につき五年が経つが、敗戦後の復興をさらに押し上げた妥協を許さないその姿勢も鋼になぞられた。
『鋼』の治世者の声が、低く響いた。
「灌漑事業が遅れている理由を申せ」
感情のない低い声は、脅す言葉がなくとも人をおびえさせた。
男たちが、やっと解放され扉の外に出て来たときには、すっかり身も心も萎んでいた。
その様も、親衛隊にとっては見慣れたものだった。