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確か皇宮の廊下は広いはずだったが、ここ最近、金で縁取られた白い壁と壁の合間を、紫紺の絨毯が敷かれた床の上を、使用人たちが忙しくぬうように行き交っている。その廊下をひときわ前のめりにせかせか歩いているのは、マヒロ・アコウ・ロウダンゲンだった。
皇子セシリエスの国内外への正式な公布が、後十日余りに迫っていた。
公布に伴い、当日は、お披露目の祝宴が開かれ、多くの皇族貴族が集まる。また、前日は、午前中に皇族入りの儀式。夜には、『皇族の丘』に住む皇族だけで内輪とも言える晩餐の席が設けられていた。
マヒロは、目的の部屋の前に立ち、扉を叩いた。
迎えてくれたのは、こちらも猫の手も借りたい家令ボウヘイだった。
「近侍頭、ご苦労さま」
「家令様、セシリエス殿下の衣裳が、全て揃いました」
「それはよかった。他の準備も、頼みましたよ」
「かしこまりました」
半月前、マヒロは、セシルの近侍頭に任命された。それに伴い、祝典のセシル側の責任者にもなった。
マヒロにとって頭だろうが尻尾だろうが、そんなことは、どうでもいい。セシルのために働けさえすればいいのだ。
とはいえ、近侍頭になるには、マヒロはまだ若い。今年やっと二十歳になる。近侍の経験も浅い。本来なら、マヒロより十以上も年上で三十三歳のワンヘイが、近侍頭になるはずだったが、寺院に長く務め皇族貴族に疎いことを理由に辞退した。
ワンヘイは、ここに来るまで、聖職者として上級僧官の補佐をし、文書や業務の管理、接遇を担っていた。
寺院は、上位の貴族が蔓延る宮殿とは違い、爵位もそして財力も関係ない。努力を惜しまず徳を積み、能力さえあれば、それに見合った地位を得ることができる。
男爵の爵位しかないワンヘイでも重要な職に着くことができるのだ。
またそれは、ワンヘイが、見た目の暢気な様子とは違い、仁徳ならびに能力に優れている事を表している。
セシルは、そのワンヘイと共に出来たばかりの畑を初めて訪れた。
「……こ、こんなにしてもらって……」
セシルは、目を瞠った。
十坪ばかりの小ぢんまりとした畑に黒々とした肥沃な土が満たされ陽に照らされている。おまけに、直ぐにでも苗を植えられるように幾つもの筋が描かれ畝立てされていた。
それだけではない。畑は、切り揃えられた垣根に囲まれ、セシルは、中に入るのに深紅の薔薇のアーチをくぐって入った。その時に多少違和感はあった。
入ってみれば、立派な畑の四方は、赤や白や緑のモザイク模様の石畳が敷かれ、周りには芝生が張られ、四隅には、綺麗な花々が寄せ植えされていた。そして、花の真ん中には、なぜか裸の女性が水瓶を持った石像が立っていた。
更に視線を廻せば、白亜の柱に赤い瓦屋根の東屋もあった。その下では、白大理石のベンチが置かれ彫られた獅子が口を開けていた。
もはや、植える物さえ野菜でなければ、どこぞの庭園かといった風情だ。
セシルは、正直に言えば、戸惑っていた。
確かに、弟グランに
畑を作りたいんだけど――と言った。
当初は反対されたが、無理を言って望みを叶えてもらった。
……しかし……。
セシルが思い描いていた望みは、ささやかなものだった。庭の片隅でどんなに小さくても、どんなに荒れていても土さえあればよかった。後は、自分で鍬一つで耕すつもりだった。
……しかし……。
セシルは、後ろを振り返った。そこには、ワンヘイの他に、この優美な畑を作ったと思われる皇宮お抱え庭師や下働きの者がいた。
「……あの、すみません。……俺が、我がまま言ったばっかりに皆さんの手を煩わせてしまって……。俺、土さえあれば、自分で耕して畑を作ろうと思ってて。皆さんにここまでさせてしまって、本当にごめんなさい」
セシルは、頭を下げた。
頭を下げる皇子に、今度は使用人たちが戸惑った。その中の一人、ワンヘイが、前に出た。
「セシリエス殿下、我々は、殿下に仕えるものです。殿下に頭を下げさせる為に畑を作ったのではございません。陛下の指示のもと、殿下に喜んでいただくために作ったのです」
その言葉に他の使用人もうんうんと頷いた。
『白の民』セシルを、皇帝であるグランが自ら抱きかかえ皇宮に迎えてから二か月になろうとしている。その間は、使用人にとっても激動の日々だった。
当初、使用人は、皇帝の生活の場である二階への出入りを制限され、誰がいるのか、何が起きているのかもわからなかった。
やがて、『白の民』が皇帝の兄であるとわかると、今度は家令ムロトが、突然辞職し、新しくボウヘイが家令になった。
近侍エカシーの事件もあった。何が何やらさっぱりである。
しかし、それらが落ち着いてくると、皇宮に風が吹き始めた。爽やかな風だった。
これまで、皇宮など見向きもせず足さえも向けなかった皇帝が、勇んで返って来るようになった。
主がいる家は、違う。
先ず、出迎える門番が、背筋を伸ばした。掃除をする下働きの腕に力が入った。賄い方は、兄弟が並んで楽しそうに食事する様子を近侍から聞き、奮起した。
そして、主は、昼食の後、大切な兄と庭園を散歩した。
皇宮の庭は、広大な敷地に四季折々の草花が咲き乱れ、ち密に計算され形作られた垣根、池や噴水、色とりどりの石畳などが作られ緑の芸術作品ともいえた。
だが、これまでは、どんなに手を尽くし世話をし見事な花を咲かせても見る者も愛でる者もいなかった。ただ、そこにあるだけだった。
飾りでしかなかった庭を、森から来たと言う兄は歩き、たとえ小さな花でも見つけ歓喜した。また、草花に詳しく、それは嬉しそうに主に説明するのだ。話を聞く主は、兄以上に嬉しそうだった。
庭師たちの胸が、充実感と誇りでいっぱいになった。
その兄であるセシリエスが、畑を作りたいと言う。庭師たちが張り切ったのは言うまでもない。野菜を植える畑は、芸術家とも言われる皇宮お抱え庭師の仕事からちょっとだけ外れるが、構うものか。土を扱うのに変わりはない。庭師たちは、とにかく張り切った。……張り切りすぎた感は否めないが。
全ての成り行きを知っているワンヘイが続けた。
「殿下、若干趣は異なりますが、皆で作った畑です」
セシルは、静かに畑に近づき膝をつき土をすくった。さらさらとよく耕されている。
「……ふかふかのいい土だ」
久しぶりに手にした土の感触を楽しみ、臭いをかいだ。立ち上がり、セシルの口から出た言葉は、感謝の言葉だった。
「みなさん、ありがとうございます」
その言葉に、使用人たちは、胸に手を当て頭を下げた。
「セシリエス殿下。実は、陛下も忙しい中、何度もこちらに足を運ばれまして」
「グランが?」
「はい。陛下は、仰っていました。広さも本当はいくらでも広くできるそうですが、殿下の体調も顧慮し無理なく管理できる広さにと」
「そうだったんだ」
グランの優しさが、胸に染みる。
畑が出来てからは、午前中畑に出るのがセシルの日課になった。
皇族入りの公布が一週間後に迫ってはいたが、セシルのすることはあまりない。むしろ重圧を感じ体調を崩されるより、好きなことをしてこのまま過ごしてほしいと周りの者たちは思っていた。
今日は、いよいよ苗を植える予定だ。ワンヘイが、市場から取り寄せた数種類の苗と種が用意されている。
「ワンヘイさん、俺、南瓜大好きなんです。さつま芋も好きです。あ、この苗いい苗ですね」
セシルは、いつになくおしゃべりだ。
それにつられ、庭師たちも「殿下、殿下」と声をかけ、野菜談議に花が咲いていた。
苗を植えるには、畝に穴を掘り、水を入れる。苗を植えたら、また上から水をかける。たちまち水はなくなり、使用人たちが少し離れた井戸に汲みに行った。――さすがに畑用の井戸は、短い期間では用意できなかったのだ。
その内、警備のために同行していた親衛隊も力仕事は任せろとばかりに水汲みを手伝い始めた。
皇宮庭師が、頭を下げた。
「セシリエス殿下、申し訳ございません。ご不便をお掛けまして」
「大丈夫ですよ。みんなでやればいいんです。俺も水を汲んできますね」
と言い、セシルはバケツを手にとった。
「そのような事をさせる訳には……」
皇子にバケツを持たせるわけにはいかず、ましてや水汲みなどあり得ず、庭師は止めたが、
「俺だって男ですから」
セシルは見当違いの返事をし、そのまま駆けだした。
慌てたのは、親衛隊班長オルゲムントだ。追いかけて止めようとしたが、あまりにも楽しそうなのでやめた。
今日のセシルは、いつもと違っていた。久しぶりの畑仕事に子どものようにはしゃいでいる。こんなセシルを見たのは、初めてかもしれない。
かわり、同行した親衛隊髭面ボウスに警備を強めるように言った。
セシルが、何度か畑と井戸を往復した時だった。
「殿下、お待ちください」
オルゲムントの声に振り向くと、少し先の垣根の側にいた親衛隊が、剣に手をかけた。
気が付けば、セシルはオルゲムントの腕の中に囲われ、手にしていたバケツは転がり、一人の男が垣根から引きずり出され芝生に抑えつけられていた。




