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グランが、『皇帝の間』でセシルと至福の時を過ごしているころ、『黒耀の間』には、いつもの二人の姿があった。
愛用の肘掛椅子におさまった親衛隊長ドモンの手には、今日の騒動を自ら労うようにグラスが握られていた。
「宰相さんよ、ただの傀儡じゃなかったな、セシリエス殿下」
「ええ。今回は、というところでしょうか。……ですが、家令やら監視の為の親衛隊まで巻き添えにして……。〝飴玉隊〟っていいましたか。まったく、あっという間に抱き込まれて……」
「まあな。……『同類相求む』って言うだろ」
「セシリエス殿下と飴玉隊が、同類だと。……では、同類項は、なんです?」
「一口で言やぁ、下賤ってとこか……。『同類相憐れむ』って、言葉もあるなぁ。見下げて言う奴もいるが、同じ立場の者は、同じ辛さがわかる。逆に言えば、同じ立場にならなければ、その辛さがわからんってこった」
「私には、さっぱりわかりませんが」
「だろうな」
ドモンは、残りの酒をぐいっと飲みほし、肘かけに頬杖をついた。そして、更に噛みしめるように呟いた。
「でもよ、そんでもよ、下賤と卑下されても、あの殿下は、胸に灯を持ってんだよなぁ。そんで、その灯りで闇を抱えた奴を照らすんだ。照らされた奴は、いちころだ」
「いちころにされたのが、飴玉隊というわけですか。……もう一人、重症の方がいらっしゃいますが。
……しかし、親衛隊長殿、あなたが、そのような殊勝なことを仰るとは思いませんでした」
「おめえ、俺をなんだと思ってんだ」
「親衛隊長ですが。……そう言えば、あのオルゲムントが、あの顔で、ソフィーレ・フルールの名を持っているとは思いませんでした。フルール一族と言えば、芸術家の名門ですからね」
「まあ、そういうこった」
「……それにしても、もう少し巧いやり方があったはずです。こんな騒ぎを起こして……。正規軍から、抗議の文書が届いているんです。面倒なことになる前に手を打たないと」
宰相イオリは、そう言い眼鏡を外し眉間を揉んだ。
騒動の翌朝、セシルは、『皇帝の間』の寝室で目を覚ました。皇帝であるグランは、すでに政務の為宮殿に登殿していた。
いつものように、家令ムロトが顔を出し、身支度を整え『樹冠の間』で遅めの朝食をとった。
膳を下げるムロトに、セシルは、改まったように名を呼んだ。
「ムロトさん」
「はい。何でございましょう」
セシルは、椅子の脇に立ちあがり、頭を下げた。
「ムロトさん、……昨日は、本当にありがとうございました。……それから、ご迷惑を掛けました」
「殿下、頭をおあげ下さい。礼を申し上げるのは、私の方です。家令の仕事は、預かる宮を守り、仕える主人と使用人の間を取り持つのが仕事でございます。殿下のおかげで賄い方が、戻って来る事ができます」
「俺の力ではありません。ムロトさんとみんなのおかげです」
「いえいえ、殿下の功があればこそ。……つきましては、お礼と言っては何ですが、受け取って頂きたいものがございます」
そう言うと、ムロトは、奥の方から細長い箱を持ち出してきた。長卓の上に置かれたその箱を促されて開けてみると、中には燦爛たる透明な水晶のペンが入っていた。恐る恐る手に取り、光にかざしてみれば、繊細な細工が光を反射し煌めく。
「……こ、こんな高価なもの、……俺なんか使えません」
「いいえ、殿下。
我が領地は、古くから貴重な水晶の産地でございます。この品も、領地の特産品でございます。
殿下は、これから陛下の兄君として国内外に広く布告され、皇族の一人としてご活躍されることとなりましょう。その際に、お使いいただければ、この老輩には、何事にも変えらぬ喜びでございます」
「……でも」
「殿下、このペンに色はございません。しかし、全ての色を受け入れことができます。また、ペンは、文字に息吹を与える事ができます。……どうか、受け取っていただきませんか」
「……ムロトさん。……ありがとうございます。俺大切にします」
そう言い、セシルは、今度は、感謝の意を込め頭を下げた。ムロトも、今度は頭を下げるセシルを止めることなく受け入れた。
セシルを見つめるムロトの目には、深い慈しみがあった。
同じ頃、『黒耀の間』では、グランが、腕組みをし、長椅子に座していた。視線の先には、一つの封書があった。昨夜、グランが、家令のムロトから手渡された物だ。
親衛隊長ドモンが、封書を手に取る。
「『辞職届』ねぇ。ムロトのじいさん、はなっから辞める覚悟だったってことか」
問われたグランが答える。
「そのようだ。明後日にでも職を辞すると。それまでに、出来る限り、自分が去った後の体制を整え、主な業務を引き継ぐと言っている」
「じいさん、今回の騒動の責任を全部一人でかぶるつもりか」
親衛隊長ドモンの言葉に、宰相イオリが眼鏡を押し上げる。
「ですが、言いかえれば、一人が、責任をかぶることで済むのなら、なによりです」
「イオリ、おめぇは……」
グランの頭の中にあるのは、兄セシルのことだ。
セシルは、家令ムロトを信頼し心を開いている。そのムロトが、皇宮を去れば、自分のせいだと責め、悲しむのは目に見えている。ムロトは、セシルには黙って姿を消すと言っていたが……。
また、グランも、ムロトなら大切な兄を任せられた。
ムロトは、グランが生まれたときから皇宮にいた。父である先代皇帝ダヴィーグが、常に皇宮を留守にし、母アーリャがグランを省みず、周りの使用人もそれに倣ったときも、ムロトは、淡々と自分のすべき務めを果たし、変わらずグランに接した。
やがて、グランが、皇帝に即位し、ほとんどほったらかしにしていた皇宮を堅持してきたのも、ムロトだ。
家令ムロトの辞任は、グランにとっても皇宮にとっても痛手なのは間違いない。
しかし、有力な皇族貴族の子弟が席を置く正規軍を無視することは出来ない。まして、今回は、セシルも関わっている。宰相イオリではないが、今は、他の手立てがない。
夜を迎え、鎧戸が閉められ、すでに隣の執務の間の文官たちはみな帰り、セシルが床に入る時間になっても、グランは、宮殿を離れる事は出来なかった。昼食さえもこの『黒耀の間』で慌ただしく摂った。
昨日、騒動の後、政務を投げ出しセシルを抱えそそくさと皇宮に帰ったせいで残った仕事と、なにより正規軍の対応に追われ身動きが取れなかったのだ。
脇を固める宰相と親衛隊長も、それぞれ奔走し出払ったままだ。
グランは、一人でペンを握る。その心は、少しでも早く皇宮に戻らねばとはやる。
今回の件は、ムロトが一人で背負い皇宮を去ることで片をつけることになる。やりきれないことだが、そうとばかりは言ってはいられない。ムロトの辞任までの猶予は、明後日までの二日間。有能なムロトのことだ。短い期間でも責務を全うすることだろう。しかし、ムロトが去った後の兄セシルが気掛かりだ。
ふとその時、グランの脳裏に昨夜の光景がよみがえった。
昨夜、初めてセシルに口づけした。
一度目は、余りの愛おしさにセシルの唇をそっとかすめた。二度目は、セシルが寝入るのを待って、ゆっくりと唇味わった。
やわらかかった。
その後は、朝まで腕の中に兄を抱き込み眠った。
女を貪り抱いていた頃は、用が済めば放り出していた。誰かのぬくもりを感じながら眠るなど初めてだった。
自分を覆っている強張りが溶かされ、穏やかに癒されていく。
心地よさに癖になりそうだ。
カリカリとペンが走る音だけが響いていた部屋に、廊下を急ぐ足音が届いた。扉を開けたのは、眉間に皺を寄せた宰相イオリだった。
「陛下、影から連絡が入りました。正規軍が、明日にでも家令殿を捕らえ、査問委員会にかけるつもりだと。どうやら、セシリエス殿下の情報を得て、家令殿が、殿下を利用し政権転覆を謀ったとの筋書きを作ったらしく……」
「馬鹿な。……ムロトはどうしている?」
「はい。すぐに皇宮から退去し、領地へ帰るようにと命じました」
「それでいい。とりあえず、首謀者がいなくなれば、疑いも裏付けも付けようがない。……皇宮に戻る」
『新緑の間』の前に立っていたのは、飴玉隊の一人、髭面ボウスだった。飴玉隊は、そのままセシル付きの監視役から警護役となった。
「兄は?」
「はい。すでにお休みになられました」
グランは、まっすぐ寝室まで入り、ベッドの天蓋の幕を開けた。ぐっすり眠っているセシルを起こすのは忍びなかったが、声を掛けた。
「兄上、兄上、起きて頂けませんか」
「……ん?……グラン?……どうしたの?」
グランの声に、セシルは、なんとか目を覚まし、グランの手を借り体を起こした。
まだ目をこするセシルに、グランは、単刀直入に事実を伝えた。
「兄上、ムロトが皇宮を去りました」
「……えっ。……ムロトさんが。……う、うそ……だよね?」
その事実にセシルは、動揺を隠せない。
「本当です。残念ながら、引きとめる事は出来ません」
「……俺の、……俺のせい……なんだね」
こんなときだけ鋭いセシルの勘を忌々しく思いながらもグランは、続けた。
「今から急げば別れの言葉ぐらいは……。追いかけますか?」
「……うん。行く」
グランは、宮殿から皇宮まで戻る道すがら迷った。このままムロトを去らせていいのか。
そうなれば、優しい兄は、この先ずっと自責の念にさいなまれるのだ。幼い頃、カイトが火傷を負ったときのように自分のせいだと……。
これ以上、兄の負担を増やしたくない。
セシルが、ムロトをちゃんと自分の言葉で送り出せれば、兄の心の荷が少しでも軽くなるのではないか、そう考えた。
「兄上、急ぎましょう」
「うん」
セシルは、馴染みの聖職者のローブを身に付け、当然のように窓際に立った。グランもセシルに倣い、用意していたローブを身に付け兄の隣に立った。
そのグランをセシルが見上げた。
「兄上、何か?」
「……グラン、木登り、できる?大丈夫?」
「大丈夫です。兄上ほどではないでしょうが」
グランにとって、この木を降りるなど造作ないことだが、自分を心配する兄の気持ちが嬉しい。
また、いまや普通にこの窓を出入り口がわりにする兄に、異論はない。兄が、木登りが得意だということは、ムロトから聞いていた。
それに、今夜は、正面玄関から出る事はできない。使用人の中には、正規軍と繋がっている者もいる。
用心のために、先にグランが木を降りた。下から見上げていると、暗闇の中でも、セシルは苦もなくするすると降りて来た。その様子に感心する一方で、閉じ込める時は、木のそばは避けなければと物騒な事も考えた。
セシルが、地面に足をつけたのを確認し、グランが手を伸ばす。
「兄上」
セシルもグランに向かい手を差し出す。グランは、その手をしっかりと掴み歩みを進めた。
幸い今夜は、月も星もない。グランは、熟知した皇宮の裏庭を迷いなく進む。とはいえ、セシルにとっては、見知らぬ場所で心もとなく、弟の手を握る手に力が入る。何度か躓きそうにもなり、そのたび、グランが、立ち止り手を引いてくれた。
もう少しで、裏庭を抜けると言う時、グランが、セシルを腕の中に囲い木の陰に身を寄せた。
「……こんな夜更けに、怪しいものがいないか見回ってこいだなんて、……」
「……まったくだ。こんなのは、親衛隊の仕事だろ……」
使用人らしき二人が、こちらに向かい歩いてくる。セシルの鼓動が速くなる。
「おう、おまえら御苦労さんだな」
愚痴をこぼす男たちの前に現れたのは、親衛隊長ドモンだった。
「親衛隊が、しっかりしていないから私たちまで、夜回りなどさせられるのだ」
「そりゃぁ、申し訳なかったな。ここは、俺に任せてもらおう」
男たちは、親衛隊の登場で、役目は終わったとばかりに引き返していった。
グランは、ドモンにその場を任せ、セシルの手をひき垣根を超え裏庭を抜けた。
そこには、飴玉隊のオルグと二頭の馬がいた。
その内の一頭にグランが跨り、自身の前にセシルを引き上げた。
もうすぐ夏が訪れるはずだが、北に位置する帝都の夜は、まだ肌寒い。グランは、自分のローブのボタンを外し、セシルを包んだ。
オルグを先頭に、二頭の馬が駆ける。
皇族の丘を下り、街道を進んでいくと一台の馬車それに従う騎馬が見えた。更に加速すると、馬車もこちらに気付いたのか、脇に停まった。
親衛隊オルグが、馬を降り、馬車の戸を叩けば、中から顔を出したのは家令のムロトだった。
「家令殿、よろしいか」
ムロトは、すぐに察しセシルたちを馬車の中に入れた。馬車の中は、鍵の描かれた家令専用の馬車には、程遠いほど質素だった。身につけている服も、いつもの洗練されたものとは違い、うらぶれている。
セシルは、頭を下げた。
「……ムロトさん、……ごめんなさい。……ごめんなさい。俺のせいで、ごめんなさい」
謝りながら、セシルの瞳から涙があふれる。しかし、そのセシルの頭の上に掛けられた声は、いつもの穏やかなムロトの声ではなく厳しさを纏った声だった。
「殿下、顔をお上げ下さい」
「……えっ」
厳しい口調に戸惑いながらもセシルは、顔を上げた。ムロトの表情は、口調と同じく厳しい。
「セシリエス殿下、昼間は、受け入れましたが、一国の皇子たる者、そうやすやすと臣下に頭を下げるものではございません」
「……ムロトさん」
「あなたは、陛下の兄君です。これからは、ロウダン帝国を担う陛下を支えていかねばなりません」
「……ムロトさん。……でも、俺、……何もできない」
セシルの瞳から、また大粒の涙がこぼれた。グランは、ただ、黙って見ている。
ムロトが、セシルの手を握った。
「殿下、あなたは、お強い」
「……俺、強くなんかない。……弱い」
「殿下、強い、弱いと言うのは、力の事ではありません。誰かの為に全てを受け入れ、誰かの為に身を挺する。それは、その誰かより想いが強く深くなければ、出来ません。
殿下の人を深く想う心が、周りの者を癒し暗闇に希望の灯りをともすのです」
「……俺、……そんなに立派じゃない」
項垂れ頭を振り否定を示すセシルに、ムロトは、諭すように語った。
「殿下、私は、皇宮や宮は、家だとお伝えしました。しかし、これまでは、陛下に
とって本当の意味での家ではありませんでした。私の力が、足りなかったのです」
「そんなことない。ムロトさんがいなかったら皇宮は……。そのムロトさんが、いなくなるのは、俺のせいで……。」
「殿下、私は、もう役目を終えました。だから、退くのです。殿下のせいでは、ありません。そして、その役目を継ぐのは、セシリエス殿下、あなた様です」
「……俺、……皇宮のこと何も知らない」
「殿下、家は、自分が帰る場所です。拠り所です。大切なのは、知識ではない。心です。これからは、セシリエス殿下が、陛下の帰る場所となるのです」
「…………」
「……兄上」
これまで、黙っていたグランが、口を開いた。
「兄上の不安な気持ちは、わかる。だが、私たちは、もう一人と一人ではない。兄上が、私たちの家に明かりを灯すならば、私は、家を守る盾となりましょう。どんなに真っ暗な道を歩いていても、兄上、あなたの灯りをよすがにあなたの元に帰る。そして、あなたの灯りに包まれ共にあれば、それだけで幸せだ」
「……グラン」
「ムロトの言うとおり、これからは、兄上が、私の居場所だ。いや、そうなって欲しい。そして、わたしも兄上にとってそういう存在でありたい。
……何も望まない。ただ、傍にいてくれるだけでいい。……駄目だろうか」
「……グラン、ありがとう。……ムロトさん、ありがとう」
後は、言葉にならなかった。
馬車が、街道を進んでいく。
セシルは、グランと二人馬に跨り馬車を見送った。その真珠の目に、涙はもうない。
グランが、後ろからセシルの頬に口づけした。
「……グ、グラン。」
「兄上、帰りましょう。私たちの家に」
もうすぐ、東の空が、明るくなり始める。
二人は、新たな日に向かい進み始めた。
今年一年、こんな駄文につき合っていただきありがとうございました。
どうか、よい年をお迎えください。




