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  作者: まころん
第1章
32/70

31

グランの言葉に頷いたセシルは、あふれた涙をぬぐい、今度は、その手を左腕にある革紐の留め具にあてた。一見ただの留め具にしか見えないが、それは精巧に巧妙に作られたものだった。型は、クレマチスの花を模し、その周りに蔓と葉が飾り付けられている。クレマチスは、ツルがとても硬く、鉄線のように強いため別名『鉄線蓮』とも呼ばれる。

革紐は、三重に巻かれ、腕の太さや革の縮み具合に合わせ調節できるようになっており、なおかつ、簡単に外すことが出来できない仕掛けも施されている。正確な手順を踏まず無理やり外そうとすれば、容赦なくセシルを傷つける。意識のないとき、外されるのを防ぐためだ。


セシルは、留め具の仕掛けに指を掛け、幼いころ苦労して覚えた通り指を動かす。しかし、なかなか留め具は外れない。もう一度手順を繰り返すが、やはり外れない。

皇宮に着いてから緊張の連続だった。その為、指が強張り、力が入らないのだ。

なんとか力を入れたその時、「……っつぅ」と、セシルは、腕を掴んだままうずくまった。

「兄上、大丈夫ですか」

グランが、セシルの肩に手をかけたその時、目に入ってきたものは、腕の内側から滴る一筋の赤い血だった。腕の内側は、人間の体の中でも皮膚が軟らかく、敏感な場所だ。そこを傷つけたのだ。

グランの胸にどうしようもない怒りがこみ上げる。この革紐は、セシルの母が、与えたものらしい。我が子に、ここまでするほど、兄は、厳しい状況に置かれていたのか。

「兄上、兄上、無理して外さなくてもよろしい。」

「……すみません。……指が動かなくて……」

「兄上、私が外しましょう。外し方を教えてください」

「……えっと……」

セシルは、躊躇した。グランを信頼していないのではない。母の教えが、口を閉ざさせた。

――誰にも革紐の秘密も、外し方も、教えてはいけない――

実際には、みなの目の前で留め具を外せば、仕掛けがばれる可能性が高いのだが、今は、そこまで気づいていない。ただ、革紐の外し方を口に出してはいけないという事だけが、頭にある。

石を見せてはいけないという教えも頭をよぎりはしたが、グランの誠意に答えたいと、また、兄弟の証を確信したいという気持ちが、その教えを消した。


ためらうセシルの瞳をグランが見つめる。

「兄上、これまでに留め具の秘密を教えた者はいないのですか」

「……はい、いません。……でも、カイト兄さんは、……」

カイトは、留め具の外し方を知っている。しかし、セシルが教えたわけではない。



革紐を嵌められたばかりの頃、母が薬草摘みに出掛けている間、セシルは、その痛みと怖さに耐えながら一人で扱い方を練習していた。すでに、顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。腕からは、血も出ている。だから、気付かなかった。

「わかった。セシー、俺が、外してやる」

その言葉に驚き顔を上げると、目の前に、恐ろしいほど真剣な顔をしたカイトがいた。カイトは、茫然としているセシルの腕に手を伸ばし、いとも簡単に留め具を外した。セシルが、母に教わりながらやっと覚えた手順を、カイトは、セシルの指の動きを見ただけで仕掛けを理解し外したのだ。

カイトは、何一つ聞いてこなかった。なぜ、こんなことをしているのか、この革紐は、そして黒い石は……。

ただ、同じ子どもの視点で、こうした方がいい、この方がやりやすいと助言をしてくれた。そのおかげで、セシルは、なんとか留め具を扱えるようになったのだ。

すでに、革紐を授けた母もこの世にいない。ということは、留め具の秘密を知るのは、今では……。



「ほう、兄上、それでは、カイト・アモウなる者だけが、兄上の革紐の秘密を知り、外すことが出来るという事ですね」

セシルの話を聞いた皇帝グランジウスの瞳が、剣呑な空気を帯びる。

「……は、はい」

セシルは、なぜ、グランがカイトの家名まで知っているのか不思議に思ったが、その疑問は、取り敢えず脇に置いて頷いた。

グランが、再度、セシルの真珠の瞳を見据える。

「兄上、兄上は知っておいでか。兄弟というものは、互いに秘密を持ってはならぬのです」

「……へっ……。そうなんですか」

「そうです。兄上は、長年御身一人暮らされてきたゆえ、ご存じないのもいたしかたない。兄弟の間に隠し事は許されぬのです」 

思いがけない皇帝の言葉に、黙って後ろに控えているドモンたちも顔を見合わせ、思わずつぶやく。

「何時からそうなったんだ」

「さあ。私は存じませんが」

後ろの冷ややかな空気を無視し、皇帝グランジウスは続けた。

「ですから、兄上。弟であるこの私には、私だけには、留め具の外し方を教えていただく。よろしいですね」

「……あ、はい。わかりました」

セシルは、唯一知るアモウ姉弟を思い浮かべ、どこか、腑に落ちない気もしたが、ロウダン帝国皇帝が言うのだから、そうなのだろうと思った。


セシルの了承を得たグランは、後ろを振り返る。

「お前たち、席を外せ」

「それはできません」

宰相イオリの否の言葉に親衛隊長ドモンも頷く。

ならばと、皇帝グランジウスは、セシルが体を預けるベッドに上がり込み、家令のムロトに視線を送る。呆気にとられるセシルをはじめ配下たちをよそに、ムロトは、皇帝の意に従い天蓋の幕を降ろした。この時期は、まだ冬用の幕が使われている。しっかりとした厚い生地は、多少音を遮る事も出来る。


幕の中は、周りから遮断され二人だけの世界になった。

何がいったいどうなったのか、ついていけないセシルは、狭い空間に弟だろうといえども皇帝と二人きりという状況にどうしていいかわからず戸惑っていた。

そのセシルを、グランは、ベッドの真ん中からそっと横にずらし、すぐ隣に自分の場所を確保した。

「では、兄上、留め具の外し方を教えてください」

「……あ、あの近すぎませんか」

確かに、ベッドは、かなり広く、ここまで、密着する必要はない。

「離れれば声が大きくなりましょう。話が、漏れてしまいます」

「……そうです、よねぇ」

セシルは、当惑しながらもグランの申し開きを受け止め、グランの耳元に顔を近づけた。グランも、小柄なセシルに合わせ、身をかがめる。


さらりと絹の髪が、グランの肩にかかった。極力声を抑え遠慮がちに囁かれる声が、息と共にグランの耳をくすぐった。ムロトが用意した袖なしのシルクの肌着の下からやわらかな香りがした。貴族の女たちの自分を誇示する毳々しい臭いではない。


グランは、いつまでも、この状況に浸りたかったが、そうはいってはいられない。カイトは、たった一度で正確に留め具を外したという。それも、まだ子どもの時分に。

自分も一度で外さなければならない。カイトへの対抗心もあるが、それ以上に、兄を決して傷つけたくはない。


グランは、説明を聞き終えると、セシルの細い腕をとった。その手に兄の流した赤い血が付く。

「あ、すみません。手が汚れて……」

「かまわない。兄上、そのままで。全て、私に任せて下さい」

その言葉に、セシルは、頷くと、目を瞑り、そして、グランは、クレマチスの花に指を掛けた。

『鉄線連』の名の通り、強く兄を守り、縛り付けていた枷を外す。

この枷が、セシルの腕に嵌められる事はもう二度とないだろう。嵌める必要もない。ここが、セシルのいるべき場所だから。

程なく、カチャッという音と共に、革紐がセシルの腕を離れた。

眼前に現れた黒耀石は、やはりというより当然、皇帝グランジウスの腕に収まる石と同じ石だった。


セシルは、まだ目を瞑っている。グランが「兄上」と声を掛けると、セシルは、静かに瞳を開いた。

グランが、言う。

「あなたは、私の兄だ」

「……」

セシルは、込み上げてくるものに言葉を返す代わりに大きく頷いた。やがて、抑えきれなくなると、肩を震わせ嗚咽を漏らした。

その肩をグランが、抱き寄せた。






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