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パチパチと何かが弾ける音がする。天幕で感じていた肌寒さを感じない。心地よい暖かさが、体を包む。
セシルは、帝都より南に位置するアモルエで生まれ育った。旅の間、帝都に向かい北上し、天幕で寝起きしてきた。マヒロが、寒さを気遣ってはくれたが、晩春とはいえ忍びよる朝晩の冷えは、疲労に加え更にセシルの体力を削って行った。
ふ~っと息を吐き、静かに瞼を開けると、すぐそばにマヒロがいた。
「殿下、殿下、大丈夫ですか。殿下は、あれから二日間、ずっとお休みになられて……」
「……すみま……ゲホゲホ……」
「殿下、こちらのお水を」
マヒロは、セシルに水を飲ませたあと、「失礼します」と、今度は、額に手を当て笑みを浮かべた。
「熱もすっかり下がりましたね。顔色も良くなりました。……はぁ、よかった」
「……マヒロさん、ご迷惑かけました」
「何をおっしゃっているんですか。私は、殿下の従者ですから。……汗もかいたようなので、肌着を取り替えましょう。体もお拭きしますね」
「……あ、はい。ありがとうございます」
マヒロは、盥に湯を汲んでくると、セシルの寝間着を脱がした。いつものように二箇所だけ触らずに。
セシルの左腕と右の足首の上には、革紐が、三重にまかれている。
初めの頃、セシルは、服を脱ぐ事さえ躊躇していた。その内、少しずつ気を許し、マヒロが革紐の事を触れないとわかると、ためらいながらも肌を見せるようになった。
マヒロには、セシルの世話をする意外にもう一つ重大な任務が与えられていた。それが、この革紐の下にあるべきものが、有るのか無いのか。それを確認することだ。この任務は、騎士団隊長ゲンセイも与り知るところではない。いや、鋭いゲンセイのことだ。何か、感じてはいるかもしれないが。
体もさっぱりした後、軽く食事をとり落ち着くと、外から水音と共に子供たちの楽しそうな声や人々の談笑する声が聞こえてきた。
「殿下、ここの湖の湯は、体にとてもいいそうですよ。みなさん、裸になって湯に浸っています。あ、もちろん男性は腰布を巻いて、ご婦人は、薄着をきていますが。体調が良くなったら殿下もいかがですか」
穏やかに話すマヒロに反し、セシルは、困惑した。
……忘れてた。温泉って裸で入るって。
裸ってことは、服脱ぐわけで……。あたりまえだけど……。
水に浸かるから革紐もはずさなきゃないんだ。
押し黙ったセシルの気持ちを慮ってか、マヒロは付け足した。
「人の来ない隠れ湯もあるそうですよ」
「……そうですか」
セシルは、マヒロに気遣いに、ぎこちないながらも笑みを返した。
昼になると、ゲンセイとズシーヨが顔を出した。ゲンセイは、顔色のよくなったセシルに安堵し大きくうなずいた。ズシーヨは、相変わらず「庶民の……」と不満を漏らしていたが、思いのほか居心地がいいらしく口ほど不満ではないらしい。
普通、皇族や貴族は、それぞれ別荘を持っている。また、主な保養地には、一族や繋がりのある貴族の別荘が多くあるのでそこを利用する。
どの別荘も、贅を競い合っているので、庶民の為の保養所とは、趣が違う。
次の日、ゆっくりと休んだセシルの体調は、だいぶ回復していた。ベッドを離れ、寝室の大きな窓から外を見ると、数日前に馬車の小さな窓から覗いた景色が、一面に広がっていた。
湖が、日の光を受けきらきらと輝いている。風が水面を優しくなでると、波が静かに漂う。
セシルの心にアモルエの森が浮かんだ。森の湖が浮かんだ。その湖は、『精霊の湖』と呼ばれていた。
そこに、自分は、いた。どこか遠い昔に思える。
陽が西の空に傾き始めると、日帰りの客はいなくなり、もともと少ない泊り客は、セシルの一行だけになった。
窓の外をみつめているセシルにマヒロが声を掛けた。
「殿下、少し岸辺を歩いてみませんか」
「え、いいんですか」
「もちろんです。湖の近くに行ってみたかったんですよね。顔に書いてありますよ」
「えっ」
驚いたセシルを見て、マヒロがくすくす笑った。
セシルは、マヒロが言うとおり、この湖を一目見たときから、そばに寄ってみたかった。でも、それが許されるとは思っていなかった。言葉にすれば、優しいマヒロの事だ、何とか苦心するだろうが、これ以上迷惑を掛けたくはなかった。
外用の上着をマヒロが用意し、一応、ベージュのショールをかぶり、ゲンセイとマヒロを伴い、セシルは湖のほとりに立った。
夕暮れの湖は、穏やかなオレンジ色に染まっていた。吹く風は、温泉の上を渡って来るとはいえ、この時期は、まだ冷たさを感じさる。それでも、逆にそれが心地いい。
マヒロも風を感じてかセシルを気遣う。
「殿下、寒くありませんか」
セシルは、頷き、穏やかな笑みをうかべた。
湖の岸辺は、小さな丸い砂利で覆われていた。踏みしめるたびにジャリジャリと音がする。緑に囲まれていた森の湖とはちがうなぁと、ぼうっと歩みを進めていると保養所の方から、護衛の騎士が、足早に近づいてきた。
とっくに気付いていたゲンセイは、騎士の方へ向かい、言葉を交わした後、セシルたちの方へ戻ってきた。
「殿下、申し訳ございません。少し面倒な客が来るらしく、恐れ入りますが、保養所に戻っていただいてもよろしいでしょうか」
「はい。わかりました」
セシルが了承すると、来る時とは違う緊張感を加え、保養所へ引き返した。
三人が、保養所のロビーにつくと、そこにはゲンセイが〝 面倒な〟と称したと思われる客がいた。どうやら、客の方が先に着いたらしい。
「おい、一番いい部屋が使えないとはどういう了見だ」
「この方を、何方だと思っている」
貴族と思われる若い男三人が受け付けの老夫婦に詰め寄り、老夫婦が、「申し訳ございません」と、頭を下げている。この方と呼ばれていたもう一人の男は、ただ腕を組みうつむき、近くの柱に背を預けていた。
一番いい部屋って、もしかして俺の使ってる部屋のこと……だよな、とセシルが考えていると、セシルを隠すように並んで歩いていたマヒロが、今のうちにと無言で促して来る。幸い男達は、こちらに背を向けている。
ふと視線を感じ、何気なく振り向くと腕を組んでいた男が、顔をあげセシルを見つめていた。
―― 華麗 ―― たしか、そう言うんだ。
昔、母が、大輪の真っ赤なバラを称賛し言っていた。
その言葉を添える事が出来る人間を、セシルは初めて目にした。
肩まで伸ばされた艶やかな黒髪。瞳は、夜空に星が輝くごとく煌めく。どれ一つとっても最高級品と言え、形作る全てが、華やかさを持っている。
ズシーヨではないが、庶民とは明らかに違う。ここには、似つかわしくない。
その男が、セシルに向かい、薄く笑みを浮かべた。
その笑みに堂目し、足を止めてしまったセシルを、マヒロが再度促す。
「まぁ、部屋など、どこでもよいではないか。せっかく忍びで来たんだ」
セシルが、ロビーを通り過ぎるころ、そう声が聞こえた。




