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この野営上で二日目の朝を迎えた。
マヒロは、スープの載った盆をベッド脇の卓の上に置いた。
「殿下、こちらは、消化のいいスープです。少しでも口にして頂ければ……」
そう言うと、セシルの背に手を当て体を起こした。
それから、マヒロは器を手にし、スープを一口すくうと、にっこり微笑み、「どうぞ」とセシルの口元に持っていった。
「……マヒロさん、俺、子供じゃないし、自分で食べられます」
「わかっていますよ。少し時間を置けば、ですよね。起きたばかりの今は、力が入らないでしょう」
「え?……どうしてそれを?」
「十日あまり、お世話させて頂いていますからね。今日は、この後、薬を飲んで出立しなければなりません。ですから、待てません。熱が、上がっています。さあ、口を開けてください」
さすがのセシルも「はい」と素直に言い難い。相手は、従者といえども十も年下の青年だ。それ以上に、この年で恥ずかしすぎる。
セシルは、口を結んだが、マヒロも匙を引っ込めるつもりはないらしい。
しかたなく根負けしたセシルが、口を開いた。ズシーヨの姿が見えないことが、救いだった。
マヒロは、すでにセシルの体調も把握できるようになっていた。
セシルは、朝に弱い。
起きてすぐは、体に力がはいらず辛いようだ。特に体調がすぐれないときは、それが顕著にあらわれる。少し時間がたてば、普通に動けるが、時間の限られたこの旅では難しく、これまでは他の者に合わせ、無理をしていたと思われる。
森に一人いるときは、おそらく自分の体の調子に添って暮らしていたのだろう。しかし、これからは、ひとりで生きて行くのではない。セシルは、我慢強く慎み深い。それは、確かに美徳だが、ひとの手を借りること、自分の気持ちを伝える事を学ばなければならない。それは、ゲンセイも同じように考え危惧していた。
きのう、初めて我がままと言える自身の気持ちを発露させた。しかし、それ以降、その心苦しさからか、ますます遠慮している。だから、あえて刺激してみた。
今、仕えている者が、一緒にいられるのは、皇宮に入る前までだ。その中にマヒロも含まれる。皇宮には、自分より優れた従者がいるとは思うが、楽園ではない事をマヒロは知っている。
ただ、ゲンセイもマヒロも、気づいていない。その心遣いが、殿下を皇宮まで運ぶという与えられた任務の範囲をとっくに超えている事に。
旅程は、昨日のうちにゲンセイが変更した。
このまま、帝都に向かえば、後五日ほどでたどり着く。しかし、この調子で進めば、セシルの体調は、更に悪化する。医者は、嫌だという。結果、近くの保養所で様子を見ることにした。
天幕の中、マヒロの試練のような朝食が終わると、出立の準備が始まり、ズシーヨも戻ってきた。
「殿下、これから向かう保養所は、隠れた穴場なんですよ」
「すみません。俺のせいで」
「まったくだ。帝都が、私を待っているというのに。おまけにそんな庶民の場に、この私が行かねばならんとは」
「ズシーヨ様、嫌ならお一人だけ馬車で寝泊まりしていただいて結構です。殿下、そこは、岩場に囲まれた湖があるのですが、その水は、なんと温泉なんです」
セシルは、迷惑を掛けすまない気持ちでいっぱいだったが、マヒロの湖という言葉に惹かれた。生まれてからずっと、目の前には静かな湖があった。
その懐かしさから、留意すべき温泉の意味することを失念していた。
準備が整うと、馬車は、ズシーヨの苦情を無視し保養所へ向かった。
ゲンセイは、旅程の変更に当たり、昨日の内に騎士に命じ下見をさせていた。マヒロの言うように穴場と言うだけあり、客も少なく、その客もほとんどが庶民だった。名目上主人のズシーヨは貴族だが、それが問題ないのが、ズシーヨゆえんである。
今日も、念のため、騎士の二人を先駆けに出している。
馬車が、街道から外れ、林の中を進んでいくと、木々の間にゴツゴツとした岩が目につくようになった。ゲンセイによるとこのあたりは、火山地帯で流れ出た溶岩の跡が、洞窟や穴になりそこに温泉が湧き出ているそうだ。
しばらく進むと、ぽっかりと開けた先に湖が広がっていた。
馬車の窓から見える眺めは、セシルが馴染んだ森に囲まれた湖とは様相が違っていた。だが、豊かな水を湛えた静謐な空間を周りの武骨な岩々が守っているかのような情景は、平穏から遠ざかってしまったセシルの心にしみた。
保養所は、その湖のほとりにやはり岩に囲まれ建っていた。二階建ての白壁にオレンジ色の瓦屋根が、映えている。
馬車が、保養所につくと、マヒロは、またどこからかベージュ色のショールを取りだした。
「殿下、恐れ入りますが、こちらのショールをかぶっていただいてもよろしいですか」
顔には、不本意ですと書かれている。セシルは、気にすることはないという意味を込め笑顔で頷いた。というよりありがたかった。これまで、野営場に入った時は、他の人と接することはなかった。しかし、ここでは、そうはいかないだろう。生まれてから出会った人間が、両手両足の指で足りるセシルにとって、知らない場所に入るのは勇気がいる。
セシルが、ショールをかぶり馬車から降りると、ふらつく体をゲンセイとマヒロが支えてくれた。
保養所の中に入ると、けっして豪華とは言えないが、木のぬくもりを感じさせる素朴な佇まは、どこか人を安心させる。広いロビーは、吹き抜けになっており、その開放感のもと何人かの客がソファーでくつろいでいたが、幸いにもセシルたち一行を気にかけるそぶりもなかった。
老夫婦が座るフロントの前を通り、セシルは、なんとか二階の一番奥にある部屋にたどり着いた。しかし、そこで意識はぷっつりと切れた。




