17
旅も半ばを迎えていた。
この間、一行が、宿を利用することはなかった。暗くなってから野営場に入り、次の日の夜明け前か、もしくは、他の旅人が立った後に出立していた。
セシルは、誰からも説明はされなかったが、どうしても目立つ自分の色から人の目を避ける為だと認識していた。
擦り切れてはいたが愛用の帽子を、と思ったが、この衣裳にかぶれば、悪目立ちするのは確かなので言うのをやめた。
雨が、昨日の夜からずっと続いている。
今日は、麓にある宿場町を抜け、峠を越えて次の野営場まで行くという。それなりに、きつい日程だ。だから、この雨は、なおさら邪魔雨といえる。
セシルは、まだ暗いうちに、なんとか目を覚ました。今日の日程を考えれば、出立は、早いに越したことはない。
寝床に縫い付けられているような体を無理やり引き剥がして起こすと、すーっと血の気が下がる感覚と共に視界が暗くなった。
「殿下っ」
上体を布団の上に倒れこませたセシルに、マヒロが駆け寄った。
「殿下、大丈夫ですか?」
マヒロが、セシルの顔を覗き込む。
「……大、丈夫、です」
どうにか起き上ったが、今度は体が動かない。
初めての旅で、慣れない環境、慣れない馬車に、1日の大半を揺られている。もともと決して丈夫と言えない体は、意に反して、弱音を吐き始めた。
結局、いつもよりもっとマヒロの手を借りて準備を終え、騎士たちに両脇を抱えられ、馬車に乗り込んだ。
「……迷惑をかけて、……ごめんなさい」
「まったくだ。この程度の旅で体調を崩すなど」
「ズシーヨ様っ」
マヒロはたしなめたが、ズシーヨの言う通りだとセシルも思う。しかし、疲労から来ているのは明らかで、さすがの『鼻もげ』も役に立たたず、どうすることもできない。落ち着いて体を休めるのが一番いいのだが……。
とりあえず、雨の中、馬車は出発した。
馬車の中、セシルは、マヒロが用意したクッションに身を預けた。眠りはすぐにやってきた。今は、体の要求に逆らわないことにした。
マヒロは、セシルの顔色の悪さに気付いていた。
まだ、出会って一週間ほどだ。だが、人としてセシルに囚われている。
ズシーヨが、藪に突っ込んだとき、自分を省みず助けようとした。慣れていると言っていたが、あの『鼻もげ』に躊躇なく手を浸した。
毒蛇に汁をかけるときは、騎士が危険だからと代わろうとしたが、逆に心配をかけまいと笑顔で「大丈夫です」と言って最後まで自分の手で行った。
あの笑顔に、あの少し垂れた真珠の瞳に、騎士たちがやられたのは言うまでもない。
しかしだ、セシルは、人に気遣いを見せるが、自身の不安、不満、不調は、いっさい口にしない。
マヒロは、ますますセシルに囚われ、目が離せなくなっていく。
眠ったままのセシルを乗せ、馬車は走る。
雨は、セシルたち一行の速度を遅らせ、麓の宿場町に入った時には、日がとっぷり暮れていた。待ち構えている峠の上り坂は、なかなか手強い。速度をさらに落とさせるが進むしかない。
なんとか、馬たちを騙し騙し、峠の頂きに着いた時は、夜中と言われる時間だった。
突然、馬車の戸が激しく叩かれた。
「襲撃だ」
マヒロは、馬車の扉に内側からカギを掛け、吊るされたランプの灯を消し、どこからか短剣を取り出した。なんでも取り出すマヒロに、セシルは、魔術師みたいだと思ったが、次の瞬間、そんな余裕もなくなった。
激しい馬のいななきとともに、馬車が大きく揺れ、剣のぶつかる音が響く。バシャ、バシャと雨を蹴散らす音の合間に怒号が飛ぶ。
「馬車を守れ」「殿下を守れ」、そして同時に「獲物を、皇子を捕まえろ」
馬車は、おののく馬車馬に引きずられ、横に縦にと揺さぶられる。
「ああぁ、私は、死にたくない。まだ、死にたくないぞ」
暗闇の中、ズシーヨは頭を抱え震えた。マヒロは、短剣を手にセシルを抱えている。
セシルは、手を握り締めた。
聞こえるのは、絶え間ない金属音、ズサッと何かを切りつける音、ぶつかり合う音、加えて断末魔の叫び。
今、外で戦っているのは、一緒に旅をしてきた騎士たちだ。初めは怖いと思ったが、皆とても良くしてくれた。
拳は更に強く握られ、爪が手のひらに食い込む。
過去が、呼び覚まされる。
セシルは、知っている。研ぎ澄まされた刃物の怖さを、痛みを、噴き出す赤い血を。
過去は、教えてくれた。
何よりつらいのは、大切な者の死。この世のどこを探しても、二度と会うことも、声を聞くことも、抱きしめることもできない。
騎士たち一人一人に家族がいる。恋人や想う人がいる。
自分のせいで、また誰かが傷つく……、誰かが悲しむ……。
今、自分が、できることは何か?
策を練ることもできない。ましてや剣を握ることもできない。
自分が、できることは……。
セシルは、マヒロを見つめた。マヒロもセシルの瞳を受け止めた。その瞳は、暗闇の中に埋没することなく、むしろ崇高な白い輝きを増していた。
セシルは、言う。
「マヒロさん、狙われているのは俺です。だったら、俺が……」
全てを語り終える前に、マヒロが、遮った。
「殿下、我々は、殿下をお守りする為にここにいるのです。我らの志を軽んじないでいただきたい」
マヒロは、これまでにない強い口調と眼差しをセシルに向けた。
「……俺、そんなつもりじゃ……」
「わかっていますよ」と、マヒロは、いつもの笑顔を見せ、付け加えた。「大丈夫です。彼らは、選りすぐれた騎士たちですから」
しばらくすると、喧騒が途絶え、馬車の戸が叩かれた。
「殿下、ご無事ですか?全て終わりました」
騎士団隊長ゲンセイの声だった。
その声にマヒロが中の鍵を開けた。とたんにセシルが、馬車の外に身を乗り出した。
「ゲンセイさん、みんなは、騎士のみなさんは無事ですか?」
まさか、セシルが飛び出して来るとは思わず、身をのけ反らしたゲンセイだったが、次の瞬間、誰も見た事もない笑顔を乗せ言った。
「はい、大丈夫です、殿下。多少の怪我人は、おりますが、みな命に別状はございません」
「……よ、よかったぁ。……俺、……ほんとに……ありが、とう、……ございます」
込み上げてくるものに唇が震え、言葉にならない。
ゲンセイが、黙って頷いた。
安堵に、馬車の戸口で動けなくなったセシルの肩を、マヒロが抱き寄せ、馬車の中へ引き入れた。
馬車の窓から外を見れば、雨は、小ぶりになっていた。もう少しで夜も開けるだろう。
騎士の数も増えていた。援軍だという。中には、衛生兵もいるらしく、手際よく怪我人を手当てしている。その後、騎士を交代し、馬車の馬も変え、セシルたちは、次の野営場へ向かった。
馬車を出発させる前、セシルは、マヒロにゲンセイへの伝言を頼んだ。自分が外に出れば、邪魔になると思ったからだ。
「もしよかったら、『鼻もげ』を持って行って下さい。傷口の化膿止めや、痛み止めによく効きます」
臭いも強烈だが『鼻もげ』の実力は、既に実証済みだ。騎士たちは、喜んで持ち帰って行った。
手当をしているとき『鼻もげ』を出さなかったのは、使い慣れない薬草を出して、衛生兵の手間を増やさないためだった。




