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昼過ぎにバナルの家を出発した二台の馬車は、アモルエ地方を抜け、北に向かい田舎道を進んでいた。
その先には、帝都がある。帝都までは、ここから二週間ほどの旅程だ。
護衛の騎士は三人増え、前後左右に二人ずつ馬車を囲んだ。その内の一台の馬車には、つぎはぎの洗濯物が棚引いていた。
ガタゴトと車輪の音が響く。
馬車の中は、セシルの向かいに従者のマヒロが座り、二人だけで乗るには勿体ないくらいゆったりしている。
「その鞄、長く愛用されているのでしょうね」
マヒロの言葉に、うつむいたままだったセシルは顔をあげ、腕の中にある鞄を見た。初めて大きな馬車に乗り、初めて村の外に出た。心もとなく馴染みの鞄を知らずに抱きしめていたらしい。
「……はい。この鞄、丈夫で大きいから買い出しに行くとき使っていたんです。月に一度、行商のおじさんが……」
ふと、ある場面が、浮かび上がった。
―― 今度の皇帝は、『鋼の皇帝』と呼ばれ、恐れられてるそうだ ――
世間話をする行商の男にバナルが何と返したか思い出せないが、『鋼の皇帝』という言葉は、頭に残っていた。
『鋼の皇帝』って……。
朝から、いろいろ驚きっぱなしで、頭が回らなかったが、今更ながら、自分を呼び出した皇帝なる人物が気になりだした。
たしか、前の皇帝が、俺の父親っていわれる人で……。継承権は、結構複雑で、女性にもあって……。
今の皇帝は、聞いた名前はよく覚えてないけど、男の人だったと思う。皇帝ってからには、割腹のいい、立派な髭を生やした年配の……。
『鋼』って、恐れられてるって……。……でも、俺、行くって決めし……。
「殿下、どうかしましたか?」
急に考えこんだセシルを案じたのか、マヒロが覗きこんでいる。
「……いいえ。……なんでもありません」
そういえば、未だに自分のことと思えないこの「殿下」という呼び名も、今日初めて言われたものだ。自分よりはるかに若い青年に心配をかけるのは申し訳なかったが、戸惑うことが多すぎた。
一行は、薄暮時に今夜野宿する場所にたどり着いた。周りは、木々に囲まれているが、一部が開け、程々の広さがある。
バタンッ ―― 隊列が止まったとたん、後ろの馬車から人が飛び出した。
「もう我慢できん。鼻がもげるっ」
ズシーヨが、勢いのまま藪に突っ込んでいく。それを見たセシルも慌てて馬車を降り追いかけた。
「待って、ズシーヨさん。急に藪に入ると危ないです」
この辺りは、帝都より南に位置し、帝都にはいない生き物も多く存在する。藪の中に乱暴に入っていけば、危険な生き物を招き寄せかねない。
「ぐあああっ」
ズシーヨの叫び声に、騎士たちがセシルの前に出た。ズシーヨが、藪に突っ込むのはかまわないが、セシルも向かったので追いかけてきたのだ。
「痛い、痛い。おい、早くこいつをひき離せっ」
騎士の一人が見れば、ズシーヨの太ももに手のひらほどの小さい蛇が咬みついていた。頭だけがやたらでかい、オタマジャクシのような形をしている。
「何をしている、早くなんとかしろ。このうすのろがっ」
喚き立てるズシーヨに、騎士が、冷めた視線を送りながら蛇に手を伸ばした。
「とってはダメです」
セシルが、騎士の手を抑えた。
「これ、小さいけど毒蛇のマオジャックです。古語で『苦痛を加える者』という意味です。無理やりとると、毒のある牙を相手に残すんです。その後、真っ赤に脹れあがり、猛烈なかゆみが襲って、ひどい場合は……」
「き、貴様ら、絶対にとるな。触るな。『色なし』、どうにか……ヒッ」
騎士団隊長ゲンセイの剣が、ズシーヨの首にあてがわれていた。
「ズシーヨ殿、前にも申しましたが、今度その言葉を口にしたら、この首がないと思っていただきたい。殿下、それでは、どのようにしたらよろしいですか?」
いつの間にか、セシルを庇うように立っていたゲンセイが、尋ねた。
「あ、はい。水と、それから『鼻もげ』を使ってもいいですか?」
セシルの『鼻もげ』をはじめとする薬草は、ゲンセイの預かりということになっている。
「許可しましょう」
「あ、あれを使うだと。私を殺す気かっ」
「『鼻もげ』の汁をマオジャックの顔にかけるとその臭いを嫌って自分から離れます」
ゲンセイの指示で、従者のマヒロが水と『鼻もげ』を持ってきた。
セシルが、『鼻もげ』を水に浸し揉み込みむと、辺りには異様な臭いがたちこめ、騎士たちも鼻を摘み、咳き込む者もあらわれた。
その汁を蛇の顔にかけるとさすがの『苦痛を加える者』も逃げ出した。その後、嫌がるズシーヨを騎士たちが抑え、『鼻もげ』の汁を傷口に塗り、煮出した茶も飲ませ手当を終えた。薬が効いたのか、傷は、大事に至らなかった。
騒ぎが収まると、騎士たちは、天幕を張った。天幕に入る前、ゲンセイが、粗末な天幕であること、下位の者が一緒であることを詫びた。慌てて否定したセシルだったが、何を謝られているのかわからなかった。
マヒロに導かれズシーヨと共に天幕に入った。中に用意されていた調度品は、森の家よりよほど上等なものだった。その後、夕飯の準備のためマヒロが出ていくと、セシルとズシーヨの二人だけになった。
二人は、卓を挟み、椅子に腰かけた。その椅子も、猫脚に上等の皮張りの椅子だ。
これまで木を打ちつけただけの椅子しか知らないセシルは、落ち着かなかった。立派すぎて尻がむずがゆい。
向かいのズシーヨが、椅子の背に反り返り、脚を組みなおした。
「おい、白」
セシルは、ズシーヨの言葉に犬でもいるのかと辺りを見回したが、何もいる気配はない。もしやと自分を指させば「そうだ」と頷かれた。
そういえば、先ほどゲンセイが、『色なし』の言葉を使えばズシーヨの首が大変なことになると言っていた。ああ、だから「白」か、納得である。
「白、安い芝居みたいにお決まりの展開になると思うなよ」
「あの、ごめんなさい。俺、芝居を見たことがないんです。お決まりの展開ってなんですか?」
「あー、だから田舎者は嫌いなんだ。お決まりのっていうのは、敵同士だったものが、情けをかけられ、仲間になるっていう筋書きだ」
「そうですか。わかりました」
「……」
「……まったく、こんなのが、あの陛下の兄だと」
短い沈黙の後、ズシーヨが言い捨てた。
「え?あの……」
「私は、お前が、皇帝陛下の兄君だとは、認めんと言ってるんだ」
「俺、……皇帝陛下の兄なんですか?」
「お前、そんなことも知らなかったのか。今、一応そういうことになっているだ」
セシルは、―― 兄 ―― という響きにとらわれ、その後のズシーヨの言葉など頭に入らなかった。
兄と言うことは、皇帝陛下と自分は兄弟ということである。兄弟ということは家族である。
母が亡くなり、セシルは、一人になった。十五の歳から十三年の年月を森の奥深く一人で暮らしてきた。
冬ともなれば、数か月、誰とも会わない日が続くのだ。
「おはよう」「おやすみ」の挨拶は、返してくれる人がいないから空に向かって言った。
美味しい木の実がいっぱいとれて、嬉しさを分けてあげたいけど誰もいないので、一人でスキップした。
熊に追いかけられて、やっとこ家に逃げ込み、縋りつく人がいないので自分を自分で抱きしめ泣いた。
「去年の今頃はさ……」と、同じ思い出を語る人がいないので去年の今頃の日記をめくった。
バナルやエンナは、セシルを本当の息子のように可愛がってくれ、一緒に暮らそうと言ってくれた。しかし、迷惑がかかるということもあったが、そこは、自分のいるべき場所ではないと思った。
そんな自分に兄弟がいた。家族がいた。
家族、それは、無条件で自分が居ていいと許される場所。
優れていようとも劣っていようとも、利害でもなく、共にいることを許された場所。
家族、それだけで愛おしく、優しくなれる、強くなれる。
絆で結ばれ、共に喜び、泣き、支えあう。
「……俺に弟がいたんだ」
皇帝とか、『鋼』とかは、どこかへ行ってしまった。不安や緊張で固まっていたセシルの胸が、暖かくなった。




