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ロウダン帝国宮殿の最上階にある『黒耀の間』に、今夜も、帝国の中枢を担う男たちの影があった。
数日前、先代皇帝ダヴィーグの忘れ形見、皇子セシリエスを皇宮へ迎えるため、使者が旅立った。これでとりあえず、一息ついた。
セシリエス発見の手掛かりになったのは、ある一人の人物だった。
バナル・アモウ ―― 先代皇帝ダヴィーグの過去と足跡を探っていくうちに、浮上してきた。
バナルの家は、爵位こそないが古い家柄だった。いつの時代の物かわからない覚書が、宮廷の書庫に保管されていた。そこには、皇帝との契約により、一族から優れた人材を代々宮廷に仕えさせる、と記されていた。
バナルも若かりしころ、その契約にのっとり、平民ながら宮廷騎士団に属していた。しかし、騎士団一の強さを誇る腕前を、貴族の子弟に妬まれ、無実の罪を着せられた。
その時、バナルを救ったのが、ダヴィーグだった。受けた恩に報いるため、バナルは騎士を辞し、ダヴィーグの忍び旅の従者となり仕えた。
そして、現在、宮廷に仕えているのが息子のカイト・アモウだった。
グランは、自分の定位置の長椅子に座った。
「イオリ、カイト・アモウについて、知りえた情報を申せ」
「はい。一言でいえば侮れない男です。国務省に属し中位事務官をしています。平民出身としては、一般的な地位です。ただ……」
「ただ、なんだ?」
グランが促す。
「はい。あえてその地位に甘んじている節があります。剣の方は、親衛隊長殿が」
話を渡された親衛隊長ドモン・ハリューは、肘掛椅子から体を起こし、「ああ。確かに爪を隠してる。文官にしておくのは惜しいな」と、にやりと笑った。
「奴は、普段は、すましてペンを握っているが、本当は、かなりの使い手だ。俺の部下にちょっかいを出させたが、かなり手こずったらしい。」
グランの視線が、鋭さを増す。
「カイト・アモウに監視をつけろ」
「すでに」
帝都の南に位置するアモルエには、『精霊の森』と呼ばれている森があった。森の入り口からほど近い所に、バナル・アモウの家は建っていた。
「この、おたんこなすーっ!!」
その声は、森から出てきたばかりの、セシルたちにも届いた。
バナルを先頭に家に駆け付けて見れば、家の前に二台の馬車と二人の男、それに腰に手を当て対峙するバナルの妻エンナ、加えて牛一頭がいた。男の一人は、身なりから若い貴族のようだ。もう一人は、もっと若い。貴族に仕える従者だろう。
「エンナ、どうした?」
「あんた、あんたが、セシルのところへ行った後、このおたんこなすがやって来てさっ」
怪訝な顔をするバナルに、エンナは腰の手はそのままに、貴族の男をあごで指した。
「女、二度までも私を愚弄しおって、聞き捨てならん。私を誰だと思っている。父は、ドウエン子爵。兄は、陛下に仕える宰相イオリだ」
「はぁ、馬鹿じゃないの。それって、あんたが偉いんじゃなくて、親父さんと兄さんが偉いってことでしょ!」
遠巻きに様子を見るゲンセイの部下たちも、頷きかけて、慌ててやめた。
「マヒロ、何があった」
「隊長、大した事ではありません」
ゲンセイにマヒロと呼ばれた若い従者は、大げさに肩をすくめた。「ズシーヨ様が、牛の糞に足を突っ込んだだけです。僕は、避けましたけど」
一同の視線が、ズシーヨの足元に注がれた。黄緑色と派手なピンクのツートンカラーにトンボの羽のような物が付いている。その芸術的な靴に臭いを放つ焦げ茶色が加わっていた。
「それでね、あたしに、この排泄物の生産者を連れて来いって騒ぐから、この子を連れてきたら、いきなり成敗するって言うんだよ!」
「あ、牛の名前はモモちゃんです。女の子です」
マヒロの言葉に、一同の視線は、今度は、牛のモモに注がれた。
「えーい。桃だろうと梨だろうと許さん。女も許さん」
「女、女って、うるさいね。可愛いあたしには、エンナって可愛い名前があるんだよ」
「戯言を。でっぷりの年増女が」
一同の視線がエンナに移り、そしりあいが続く中、ゲンセイは、従者に指示した。
「マヒロ、ズシーヨ殿に替わりの靴をお持ちしろ」
「はい」
「馬鹿な」
悪たれ口を叩いていても聞こえたらしい。ズシーヨは、体を反らし得意げに言い放った。「この靴に替わるものなどない。出入りの靴屋の息子が初めて作った一品物だ。私にこそ相応しいと持ってきたのだ」
ゲンセイは、ズシーヨの正面に立った。更に一歩間を詰め、厳つい顔の眉ひとつ動かさず言った。
「ズシーヨ殿、この靴があなた以上に似合う方を私は知らない」
「当然だ」
反らした体は、更に反りかえる。
「されど、あなたが、ここにいるのはなんの為か?」
「私は、陛下から重要な任務を賜ったのだ。その責任者だ」実際は、ゲンセイが指揮の権限を持ち、責任者なのだが。
ゲンセイが、続ける。
「重要な任務とは、牛と戯れることか?」
「な、なんだと。貴様こそ殿下をお連れしたのか」
ゲンセイは、後ろで呆然としている男に声をかけた。
「セシリエス殿下、こちらに」
促されて前に出たのは、痩せた小柄な男だった。
擦り切れた帽子を目深にかぶり、身につけているのは、色あせて継いだ跡のある上着と、履き古された靴。他は、推して知るべしである。
「ゲンセイ、こいつが殿下だと!! こんな薄汚い奴が、殿下であるはずがない」
礼節をわきまえる貴族のはずのズシーヨは、男を指さし、ゲンセイを非難した。その矛先は、当然、指をさされた男に向かう。
「おい、下郎。貴様、何者だ。顔を見せろ」
極めてみすぼらしい男は、慌てて帽子とスカーフをとった。
遮るもののない森の外には、陽の光があふれている。青空の下に、絹色に輝く髪が、生き物のように波打ち、広がった。
黒の民が住む、『黒の大地』に白い髪が、広がった。
ズシーヨは、驚きのあまり立ちつくした。瞳は、瞬きを忘れたように見開かれたままだ。あれほど騒がしかった口も、あんぐりと開いたまま声も出ない。
その後ろで、従者マヒロが、静かに跪いた。




