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セシルは、篭を抱えていた腕に思わず力を込めた。篭に入っているのは洗濯物で、耳に届いたのは人の足音だ。平穏な森にはありえない、いくつもの硬い足音だ。
こんな森の深くまで人が入ってくることは、滅多にない。足を運ぶべきめぼしいものも何もなく、あると言えば、家の前にたたずむ「精霊の涙」と伝わる静かな湖くらいだ。
それでも以前は、月に一度、森の外れに住むバナルが訪ねて来てくれた。だが、年々足が悪くなり、近頃はだいぶ遠のいた。
人里離れたこの場所へ、訳もなく紛れ込む者などいるはずがないのだ。
足音がどんどん近づく。
ーー逃げろ。隠れろ。
味わった過去が、そう叫ぶ。
セシルは、動揺する自分を叱咤し、震える足を踏み出した。だがその瞬間、新緑を割って男たちが飛び出し、四方を塞がれた。
黒目黒髪の巨漢の男が五人。小柄なセシルから見れば、それは聳え立つ黒い壁だ。腰に下げられた剣が、鈍く光る。セシルの頭も体も、春の陽光の中で真っ白に凍り付いた。
壁の一人が一歩前に進み出ると、声をあげた。
「お迎えにあがりました。殿下」
男は跪き、頭を垂れた。他の男たちも一斉にそれに倣う。
「……、へっ?」
男の言葉の意味を飲みこむまで時間がかかった。どうやら男たちの目的は、自分ではなさそうだ。自分は、どう間違えても「殿下」などと呼ばれる身分ではない。
では、後ろに誰かいるのかと振り返ったが、そこには、あちこちにガタのきている愛着のある我が家と、森の緑が深く続いているだけだ。
しかし、男の言う殿下らしき人の姿はない。セシルは、ゆっくりと前を向き、首を傾げた。
頭を垂れたままの男たちは、危害を加えてくる気配はなさそうだ。皆、揃いの深緑色の上下衣に、皮靴を身につけている。どれも上質の物だ。森からほとんど出たことのないセシルでわかる。
……これは、いったい?
さっきまでは、まぎれもない洗濯日和だった。
窓から差し込む陽ざしは柔らかく、上機嫌で洗い場へ向かっていたのだ。こんな陽ざしのもと洗濯物を干せば、母が好きだった『お日様のにおい』がふんわりとする。なにより天気のせいか、体の調子もよかった。
その平穏が、今、無惨に崩れ去ろうとしている。
「……あ、あのぅ」
セシルは、恐る恐る声を絞り出した。
先ほどの男が、顔をあげた。男たちの頭役だろう。厳つい顔つきに、鋭い眼光、歳は四十代半ばくらいか。男が、再度口を開く。
「私は、『黒の大地』ロウダン帝国第七騎士団隊長ゲンセイにございます」
―― 『黒の大地』 ――
その言葉が、セシルの胸を突いた。
ああ、そうか。やっぱり。
目の前の男達は、その容姿が示す通り黒の民だ。肥沃な土と同じ色を身体に宿した「黒の民」。セシルが持ち合わせていない色を持つ者たち。
ここが、『黒の大地』だから当たり前か。
男は続ける。
「あなた様は、ロウダン帝国皇子、セシリエス殿下に相違ございません。皇帝グランジウス様の命により、帝都にお迎えに参りました」
「……、へ?」
またも間抜けな声だけが漏れ、どさりと腕から篭が滑り落ちた。
セシルの色を持たない白い髪を春の風が揺らした。
視界の端っこに、久しぶりに見るバナルの姿があった。




