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「召喚獣イズミマヒロ、やるじゃないか。それじゃ、帰してやるよ」
そんな軽い言葉を投げつけられ、瞬きした時にはもう自分の部屋にいた。眩しすぎて瞬きを何度かする。
実感が沸くのは、いつも物事が終わってしまった後だ。
ゴト、という音とともに手から離れた剣が落ちた。剣は血がべっとりとついていて、切っ先には白だか灰色だかの小さな肉塊が付着している。畳に血がジワリと滲みはじめた。
鉄の匂いが部屋に立ち込めた。お気に入りだったパジャマは血を吸ってわたしの肌に張り付いている。耐えきれなくて、見るも無残なそれを脱ぎ捨てる。嘔吐感が迫り上がって、下着のままトイレに駆け込んだ。
「うえぇ」
今日の夕食をすべて吐き出しても、まだ収まらない。口の中が灼ける。胃液まであらかた出して、わたしは床に座り込んだ。口を濯がなきゃと思う。でも身体に力が入らない。
「殺した……」
人を殺した。今更ながらに身体が慄える。あの時は夢中だったから何も思わなかった。あのローブ男への憎しみで、すべてがどうでもよくなっていた。だけど、今、脳裏に浮かぶのはあの若い男だ。わたしが自分の意志で殺した。別に同情はしない。後悔はしない。生かしておくべきだったとも思わない。それでも。
越えてはいけない境界線を跨いだ気分だった。人を殺してはいけません、それは昔から無意識のうちに刷り込まれている人間としてあるべき倫理観だった。守るべきだったんだ。
「うっ」
ぽろぽろと涙が零れてくる。
肉が食い込む感触とか、切り裂く手応えとか。血の熱さとか。
「最低だ」
あのローブ男も、襲ってきた男たちも。わたしも。
みんな最低だった。
夕からもらったシャープペンシルがなくなった。予備に持っていた100円の安っぽいシャープペンシルを代わりに走らせる。もうすぐ梅雨入りだというのに相変わらず晴れやかな青空を眺める。昨日はあんなことがあって、パジャマにもわたしの頬にもしっかりと血がついて、あの世界の血塗れた剣がわたしの部屋にあって、それなのにこうして平穏な日々があるのが不思議だった。
「泉さん。ちゃんと聞いているのですか? この問題に答えてみてください」
佐藤先生は黒板をバンバンと叩いた。これは前授業を休んだ報復も入っているんだろうな。
大嫌いな現国の、さらに嫌いな小説の授業だ。佐藤先生はまだ20代の若い女性教師で、まだ教育に熱意を持っているようだった。だから、わたしみたいな生徒が目につくのだろう。
「はい。建太は驚いた気持ちでした」
「その根拠は?」
「34行目の会話文で、『え』の後の小さい「つ」がカタカナになっています。作者は強い口調を持たせたくて『えッ、』と表現しました」
「……よろしい」
悔しそうに顔を歪める佐藤先生。
特進クラスは普通クラスよりもずっと先を進んでいて、この問題の解答も夕の端正な字で書かれてあった。
だけど、本当かなぁって思う。建太が驚いた、とか。「ッ」はそれを表しているんだとか。少なくともわたしには読み取れない。「えッ、」て表現だけで驚きの気持ちを読み取れなんて無茶すぎる。せめて「驚愕」とかそういう文言がないと無理だ。
下らない。どうでもいいことを学びに来ている。本当に必要なことは、多分、自分で見つけていくしかないんだ。愛とか、人を殺すことについてとか、どうやったらあのローブ男から開放されるのか、とか。
現国のノートを返した時、夕に少し心配された。腫れぼったい目も朝には普通に戻ってると思ったのにな。それともわたしの態度がどこかおかしかったのだろうか。目の隈だけは消えない。
「大丈夫だよ」
わたしはその言葉でやり過ごす。
そう、だってこの世界は何も変わらないし。わたしも傷つくわけじゃないし。
大丈夫なんだ。そうやってやり過ごす方法しか、わたしは知らない。
今日も呼ばれるだろうって予感はしていた。だから、もうボロボロのTシャツに、近所の子から頂いた、わたしの趣味じゃない紫色のパンツを着ている。
空は見事な夕焼けに赤く燃えていた。わたしの世界もこの世界も、時間の同期はとれているみたいだ。
「こいつらしつこいんだよな。イズミマヒロ、頼んだ」
ローブ男が顎で杓った先に、三人の男がいる。警戒していて剣はすでに抜かれていた。月明かりに見た、昨日と同じ制服だ。年も似たり寄ったりで若そうだった。
「今日もこいつらを倒さないと帰してくれないってこと?」
「物分かりがいいのは好きだ」
ぎりっと奥歯を噛んだ。こいつは。こいつだけは。その声を聞く度に、姿を見る度に腹に灼熱の塊を抱えたような気分になる。胸が押しつぶされるような感覚に陥り、息苦しくなる。やりようのない怒りをわたしは手のひらに握り締めた。
「……わかった。それならせめて武器をちょうだいよ。素手ならすごく時間かかるかもよ」
ローブ男が袖からナイフを抜いてわたしへ放り投げる。地面に突き刺さったそれを、わたしはゆっくりと引き抜いた。
理不尽だ。世の中は理不尽で溢れかえっている。それに気づくのは、同じような境遇に晒された者だけだ。
襲いかかる男たちへナイフを振り上げた。でも届かない。昨日の再現のように、腹を深く刺される。
「うう」
痛みのあまりうめき声が漏れる。だが、男たちはそんなわたしに息を飲んだ。当然だろうな。こんな人間みたいな恰好をしているのに、血が出てない。
倒れたついでに男の右足を掴んで、ナイフを思いっきり内腿へ突き刺した。カチンという感触で、骨に当たったのだとわかる。瞬間、鮮血が吹いた。
腹から剣が抜かれて、痛みもなくなる。わたしはゆっくりと立ち上がった。倒れこんで血飛沫をあげる男を見ると、顔が青白く、恐怖に染まっている。おぼろげな記憶にあった大動脈を狙ったんだ。ちゃんと当たったみたいだった。それなら後二分もかからずに死ぬだろう。
一人殺しちゃったら、後は何人殺ろうと同じだな。わたしは剣を構える男を見据えた。
「来るなッ!」
「おい、俺が行く」
男が駆けた。三人の中でも一番屈強そうな奴だ。剣が恐ろしい速さで繰り出される。どうせ避けることもできないだろうからそのまま受けた。だが、わたしが行動を起こす前にまた切られる。
「ったい」
ナイフを振りかざしても、相手には届かない。
「おい、こいつ弱いぞ。こうやってたらいつか死ぬんじゃないか」
「本当かよ」
攻撃が増えた。もう耐えることなんてできなくて、わたしはナイフを抱えて蹲る。何度も剣を背中にさされて、服がずたずただ。痛い。思考が痛覚に則られる。どうやったら、どうやったらこの痛みから逃れられるんだろう。あんなに赤に染まっていた世界も今は宵闇だ。
二本の剣が抜かれ、わたしは男を見上げた。また剣が目の前に迫ってくる。それを呆っと目で追った。
一段深く胸に剣が刺さる。心臓が悲鳴をあげて、全身痙攣が走りそうになるが、わたしは痛みを無視した。抜き出される前に、左手で剣を抑える。一層身体に食い込むように押さえつけた。
「何」
これなら届く。驚きで動きの止まった男の胸に、とん、とナイフを突き刺した。
何となく戦い方ってのがわかってきた。よくよく思い返せば、昨日もそうやって倒したんだった。要は、わざと攻撃を受けて、武器を抑えこんじゃえばいい。そうして出来た隙に、殺す。
残った男はめちゃくちゃだった。軽く錯乱したのか、我武者羅に剣を振り回す。腰に入った剣を抑え込むと、薄笑いを浮かべた。その喉元をナイフで切り裂いた。喉がパックリと割けて、隙間からヒューヒューと空気の漏れる音がする。切り目からどす黒い塊が流れでた。
最後の男が空気を漏らしながら窒息死するのをわたしは眺めていた。もうすっかり闇に包まれている。三人の死骸の中心に立って、やっとローブ男へ身体を向けた。
「ねぇ、終わったよ」
ナイフの血を服で拭い、男に差し出す。
そんなわたしに、ローブ男は浮かべていた薄笑いを引っ込めた。
「それで、なんで泣いているんだよ。イズミマヒロ。これから帰れるっていう嬉し涙か?」
召喚獣は傷つかないなんて、嘘だ。だって、こんなにも痛い。
痛い、痛い。心が。




