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そこはあの夢の世界でした。
わたしは阿呆みたいに両手を重ねて突っ立っている。例の湿原で、全身泥まみれのローブ男があの泥の化け物に追われていた。ローブの足回りは完全にドロが付着していて動くだけでも身体が重そうなのに、一応走ることはできているらしい。
「おい、イズミマヒロ、こいつを倒せ」
ローブ男は化け物を指差しながら、走る。わたしに向かって。
「はぁ?」
つかさずわたしも駆け出した。
「なんでわたしが」
「召喚獣だろう」
「意味がわからん」
二度ほど泥に足を捕らわれそうになるが踏ん張る。二回も白昼夢なんて、わたし一回病院に行った方がいいかもしれない。
「倒せよ! つーか逃げるな」
「いや、ムリムリムリムリ」
そこにべちょべちょと泥を垂れ流しながら走る例の化け物。
見渡す限りの湿原で、なぜか鬼ごっこが始まった。ぜぇぜぇなんて息を吐きながら慎重に足を繰り出す。たまに後ろを振り向くと、男は息絶え絶えで、顎に汗を伝らせながら、それでもフードは被ったままで走っている。
「召喚獣イズミマヒロ、人語を解すとは、やはり、高級召喚獣……。さ、ぁ。今が戦いの時だ」
「ちょっと近づいて来ないでよ、変態男」
「変態じゃない。た、お、せ」
「大体、何よ、あれ。夢、にしても、ひどすぎない? あ、んな、化け物に、追われる夢って、わたし、どこか病、ん、でる?」
心当たりなんてない。ごく普通に生活して、ごく普通に女子校生やってるだけだし。
とても息が苦しくなってきた。生憎わたしは体育会系ではない。体育なんて大嫌いだし、持久走だって後ろから二番目だったりするし。ぜぇぜぇなんて盛大な息切れでまともに声がでない。
「イズミマヒロが正常かどうかは、今問題ではない。重要なのはこのゴーレムを倒すことだ」
全面的にその台詞には同意するけど、
「お前がな」
これはいただけない。
ちらりと後ろを振り向けば、すぐそこにローブ男が迫っていた。ああ、わたしのスピードが落ちて追いつかれつつあるのだ。あの化け物は動きが鈍いからまだ大丈夫として、これって、わたしがあの化け物のターゲットになるってこと?
「えええええ」
悪夢すぎる。大体、さ。こういうときは男が女を守るものじゃないのか。自分をレディとまでは思わないけど、すでに息も絶え絶えのわたしよりもよっぽど適任じゃないのか、ローブ男くん。
「あ」
とうとうローブ男に抜かれて、わたしは一つ気づいた。ローブ男はしてやったりといったように唇を釣り上げたが、わたしには構っている余裕なんてない。重い足を動かしながら、後ろの化け物を凝視した。
やっぱりだ。なんとなくあの化け物、背が縮んでいるのではなかろうか。
わたしがはじめてあの化け物を見た当初、大体三メートルぐらいのでかさだった。今は距離が開いているけど、それほどでもない。せいぜい家の天井ぐらいの高さで。
化け物もわたしと同じように腕を振り上げながら足を繰り出している。身体もよく揺れていて、その分周りに泥が飛び散っていった。もしかして、これは、いけるんじゃないだろうか。わたしが一番大嫌いな、あの運動で。
「がんばれ〜」なんて巫山戯た声援はガンとして無視だ。多分この湿原を3キロほど走ったと思う。すでに膝が笑いそうな状態だし、セーラー服に張り付いた汗もすごいし。髪が汗で肌に張り付いている。だが、最初よりは大分マシだ。わたしの息も整いつつある。
化け物の体積は大分減った。小さくなるにつれ、歩幅も短くなるのか、鈍かったスピードが一層遅くなった。わたしの夢はちゃんとわたしのことを考えてくれるようだ。速歩き程度になっても、化け物が追いついてくることはない。むしろ、距離があいてゆく。
60センチ程度になった化け物は、もう怖くなんてなかった。
頃合い、、180度ターンをキメた。泥でバランスを崩したが、たたらを踏んで耐える。わたしは仁王立ちのような恰好で、化け物と対峙する。あいつは、べちゃべちゃとわたしに近づくたびに小さくなっていく。
「はぁ、はぁ。さぁ、かかってきなさいよ」
わたしの前に到着するころには、30センチほどの泥人形になっていた。化け物の足が止まって、わたしを見上げる。目なんてどこにあるか知らない。だけど、そこで化け物はやっと窮地を知ったようだ。化け物とわたしの立場は、もう完全に逆転していた。
わたしはゆっくりと足を上げ、重力のまま振り下ろした。
「よくやった」
ぐじゃりという音とともに化け物が潰えた。それを見下ろしていたわたしへの声だ。振り向くと側にローブ男が立っていた。
思わず、わたしは右拳を繰り出す。これは夢だし、一発入れても問題なかろう。しかし、わたしの拳があいつの頬に入ることはなかった。
「なにすんのよ」
「いや、当然の反応だろ」
拳を握りこまれて、思わず顔が歪む。ローブ男はわたしを嘗めるように見た。
「召喚獣、イズミマヒロ、な」
「お前はオレの呼び声に応じて来た」
「あんたの声なんて聞こえてないし。わたし、厨二病じゃないし。これ、夢だし」
手を振りほどいて、ローブ男を見据える。なぜか少し狼狽したようだ。
「本当に嫌な夢だよ。わたし運動が嫌いだし、一番苦痛な持久走なんかやらされるし、ここ、すごい湿度だし、汗だくだし、目の前の男頭どこかおかしいし。さいってい。この後現国だから、その憂鬱精神状態を反映しているのかな。まったく、クソみたいだ」
吐き捨てたわたしに、ローブ男はますます狼狽したようだった。
「あの、イズミマヒロ」
「何よ、もう話は終わったんだからいい加減目覚めてほしいんだけど。遅刻しちゃうじゃない」
ガシッと肩を両手で捕まれた。
「イズミマヒロ、見ろ、これは現実だ。お前はオレ、ウツキの召喚獣になったんだ」
ガクガクと身体を揺さぶられる。何よ。何よこれは。
「夢なら覚めろって言ってんの!」
夢だから何やってもへっちゃらだ。わたしは男の股間を蹴り上げた。ぐにゃっとしたはじめての感触はとても気色悪く、うええって気分になって。
瞬きすると、汗だらけのわたしが鏡に写っていた。急に泥まみれになった上履きと、完全に濡れてしまっている靴下が気持ち悪く感じた。




