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 想像していた痛みは襲ってこなかった。

「よし、イズミマヒロ。上出来だな。次はあの女だ」

 何かに遮られているかのように、化け物の足は止まった。ガンガン、と見えない壁に顔をぶつけ滑稽に喘ぐ。わたしの背後にはローブ男が立っていて、にんまりと唇を釣り上げていた。やはりあの透明な壁がローブ男の言う檻か。

「何息抜きしてるんだよ。さっさと行けよ」

 ローブ男の言葉に、わたしはよろよろと立ち上がった。こいつには何を言っても無駄、口に出るのは命令ばかりだ。眼鏡を正して歩きはじめたわたしの背後で、化け物が悔しそうに遠吠えした。

 次の標的との距離は十メートルほどだった。

 女は狂ったように言葉を発する。あまりの早口にうまく聞き取れないが、何かの呪文だろう。すぐに火の玉や光の矢がわたしに向って飛んでくる。一歩ずつ魔法の痛みをやりすごしながら近づく。

 女は黒髪のおかっぱで、ブラジャーっぽいものにスリットの入った細長いスカート姿だった。それが魔術師としてなのか、女としての恰好なのかわたしには判別がつかないしどうでもいい。ただどこを狙おうか、と女の身体を見回した。

 一段と大きな氷が頭上に降る。わたしは地に伏したが、頭を振って起き上がった。普通の人間だったなら間違いなく即死だっただろう。傷なんて一つもつかないのに、痛みだけは生じるんだ。攻撃の証に外見だけは汚れてゆくのにな。

 けろりとしたわたしの様子に、やっと気づいたようだった。

「お前、召喚獣か!」

 腰をくねらせ一歩後退する。逃すもんか。

 わたしは走り出した。女はまた必死に口を動かし、両手を前に突き出す。女との距離約二メートル、透明な壁に突き当たった。

 こんこん、とナイフを突き刺して確かめる。

「ねぇ、ローブ男」

 これどうしたらいい? そう訊くために振り返ろうとして、何かがひび割れる音を耳に拾った。

「消えた」

 壁がなくなった。この世界は召喚やら魔法やら、わたしの常識を覆すことばかりだ。気にしたら負けなのだと思う。地を蹴って女へ飛び込む。ナイフを振りかざした。

「そんな、対魔術の……」

 女はナイフを認めて眼を見開いた。防御らしい光の壁を目の前につくるが、刃が触れた途端に消える。もうわたしと女の間に距離はなかった。女が身を翻すのと、ナイフを突き刺すのは同時だった。心臓を狙っていたのに、入ったのは右肩だ。わたしと女は倒れて縺れ合う。

「どけっ」

 女の長い爪が頬を引っ掻く。一段とナイフに力を込めるが致命傷ではない。女の肘が顎にあたって、弾みで柄から手が離れた。

 もう逃げることしか頭にないようだった。滑稽に足掻く女に馬乗りになって、わたしは女を抑えつけた。武器は女の肩だが、暴れるからとても引き抜けそうにない。両手を女の細い首へ伸ばした。

「うっ」

 人を殺す方法なんていくらでもあるんだ。武器なんてなくったて、こうやったら死ぬんだって知っている。

 渾身の力を込めた。足をバタつかせながら、女はわたしの手首を握り締めて離そうとする。だけど、こいつはわたしと同じように女で力は強くない。爪が皮膚に食い込んでも手は離さなかった。こんな痛みなど、化け物に噛まれた時に比べたらあってないようなものだ。

 遠目からでは分からなかったが、女の目尻には小さな皺があった。ほうれい線もある。母より少し若い30代後半ぐらいだ。首は骨ばっていて、鎖骨が浮き出ていた。さらに指に力を込めると、うぐ、と呻く。気道を塞ぐように親指で抑え込む。

 わたしは死にゆく女を凝視していた。婀娜っぽい赤色に塗られた唇の隙間から泡が吹き出し垂れる。白目を向いていて、今では幽鬼のような形相だ。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。がくん、とわたしの腕をつかむ女の手が落ちた。

 女の首から手を離してはじめて自分が息をつめていたのを知る。

「はぁ、はぁ」

 息苦しい。人を殺すのは力作業だ。眼鏡を上げて、目元を拭った。ぐてんとした女の肩からナイフを引き抜く。血はあまり出てこなかった。首元にはしっかりとわたしの手形がついていた。

 さっきから化け物の暴れる音が聞こえない。ローブ男はどうなった。

 わたしは振り返った。 


 何度もきっかけはあったんだ。ただ、わたしはそれに気づいていないだけだった。

 爬虫類の化け物は女を見下ろした。表情など分かるはずがないのに、どことなく物悲しい。そして、ゆっくりと口を開けようとして、消えた。初めからそこに存在しなかったかのように、一瞬でこの世界からいなくなった。

「なんだ」

 そういうことだったんだ。思い返してみると、何度もそういう体験をしてきた。わたしってなんて間抜けなんだろう。

「イズミマヒロ。よくやった」

 ローブ男がこちらに向かって駆けてくる。

「うん」

 まったくね、よく耐えてきたよ。こんな傍若無人男に律儀に従ってきたりさ。どれくらいの怒りを覚えただろう。どんなに殺意を覚えただろう。痛みはすべて怒りへと変換されるんだ。そして憎しみへと。人を憎むってのは結構しんどいことだったよ。胸に澱が溜まっていくように、憎しみで心が圧し潰される。憎しみってのは、どうしようもないものだった。無性に壁を殴ったり物を壊したくなるけど、それが無意味な行為だと知っているから歯を食いしばるしかない。熱い塊をいつも腹に抱えているようなものだった。

 ローブ男を前に、自然とナイフの柄に力がこもった。

「イズミマヒロ、ほら、ナイフだ」

 手を差し出すローブ男に、刃を薙った。

「なっ」

 首元を狙ったのに躱された。すぐに胸元へナイフを突き刺す。金属と金属の擦れ合う音、ローブの下は鎖帷子だった。

「いきなりどうした」

 ローブ男は後退して距離をとった。わたしを探るような口調だ。

 今のわたしはきっと笑っているんだろう。憑き物のように張り付いていた憎しみが力へと変わる。

「気づいたんだよ」

 一歩、ローブ男へ近づいた。

「あんたを殺せば解放されるって」

 なぜ唐突にわたしが元の世界へ帰る時があったか、なぜあの女が死んだ途端爬虫類系化け物が消えたか、答えは簡単に出た。むしろどうして今まで気づかなかったのか不思議なくらいだ。

 ナイフを切りつけた。意外と敏捷なのか、ローブ男はわたしの攻撃を易々避ける。舌打ちして、何度もわたしはナイフを繰り出した。今までの怒り、憎しみをぶつけるようにわたしは攻撃する。

「まて、落ち着け」

 早く死ねよ。

「イズミマヒロ。話せばわかる」

 気にくわないならいつものようにすぐに還してしまえばいい。できないのはそれが正解だからだろう? お前が死ねばわたしがもうこの世界にくることはなくなるってさ。こんな説得口調なのもこの場をどうにかできなかったら、もうわたしが召喚獣としての役目を果たさないって知ってるからだろう。本当に最低な男だ。

 怒りに任せてナイフを振るった。透明な壁もナイフで切りつければすぐに消える。息はもう上がっていた。だけど、わたしは傷つかない。時間さえあるのなら、こいつを殺れる。

 ローブはパックリ割けて、胸元の鎖帷子が剥き出しになっていた。腕も一筋血が流れている。

「はぁ、はぁ」

 荒い息を吐きながら、わたしは垂れ下がる汗を拭った。改めてナイフを持ち直して、ローブ男に突き出す。



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