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冷たいナイフの柄を手に取って、わたしは身を翻した。爬虫類の化け物がわたしを睨む。
「ローブ男、どうすればいい?」
あんな化け物が側にいたら、女を殺すどころか、ナイフすら掠りはしないだろう。窺い見ると、ローブ男は急に足を止めた。
「よし、イズミマヒロ、突撃だ」
わたしも走るのを止めた。
「はぁ?」
何言ってるんだこいつ。化け物はローブ男担当のはずだ。蔑んだ目をすると、男は首を振った。
「作戦だよ、作戦。イズミマヒロ、囮になって女から化け物を引き離せ。そうしたらオレが化け物を檻に閉じ込める」
檻とはあの透明な壁のことだろうか。
「自分がやれば?」
冷たく吐き捨てると、男は胸を張って宣言した。
「オレは、肉体派ではない。運動は嫌いだ」
死ね、本気で死ね。それはわたしも同じだし。
「それに、オレがあいつに攻撃されたら死ぬだろ。消去法でお前が行くしかない」
奥歯を噛んで短剣を握り締めた。こんな小さい剣で立ち向かえってか。胸に灼ける憎悪を抑えつけて、やっと口を開くことができた。
「……わかった」
わたしはゆっくりと化け物に足を向けた。ナイフを逆手に構える。
召喚獣はわたしよりも頭二つ分でかいぐらいだ。黒い光沢のある鱗を全身に纏っていた。尖った爪までも漆黒だ。目だけが赤くて、かなり不気味な外観をしていた。まだ距離があるからかだろう。襲ってはこないが、わたしを警戒するように窺いながら背後の女を庇うように聳え立っていた。
「イズミマヒロ、油断するな」
ローブ男の声と共に、わたしの足元へ光の矢が突き刺さる。
女だ。女がブツブツと何かを唱えている。二三歩後退すると、火の玉が飛んできた。
「っ」
ジャージの脇腹がチリっと焦げる。わたしは手を当てて慌てて火を消した。一瞬だけ手のひらが燃える。
生唾を飲んで覚悟を決めた。あの化け物は女から離れるつもりがない。だから、わたしから飛び込むしかない。地を蹴って化け物に肉薄した。ナイフを薙ぎ払うが、甲高い音がしただけだった。もう一撃、胸元にナイフを突き刺す。文字通り、「刃が」立たない。化け物の鱗は鋼鉄のように硬い。
驚きと焦りに化け物を見上げた。
内臓が破裂するような吐き気と鋭い痛みを覚え、気づいた時には地面に倒れていた。
「うう」
化け物の尻尾で吹っ飛ばされたのか。身体を起こそうとして、太股に熱が走った。とんとんとん、と光の矢がわたしを突き刺す。痛みとともに矢は消えた。
「そうか」
これがあいつらのスタイルだ。化け物は女に近づく者に攻撃する、女はそうして離れた敵を仕留める。互いに協力しつつ戦っていた。
一番最初に呼び出された日、ローブ男は言っていたではないか。召喚獣と術師は信頼関係にある、と。召喚獣は自ら術師の呼びかけに応じる。わたしのような一方的な関係とは違う、これがあるべき姿だった。
ローブ男の姿が遠くに写った。何故か、急に目頭が熱くなる。なんでだろう、でも今はそんなことに気を止めてる場合じゃないんだ。
唇を噛み締めて立ち上がった。もう一度化け物へ向かって走る。そんなわたしをせせら笑うかのように、化け物がわたしの背へ爪を振り下ろした。
「ったい」
痛い、痛い。顔を歪めるのと、化け物がわたしの左肩へ齧りつくのは同時だった。唾液がべっとりとわたしのジャージに染みてゆく。歯はやすやすと肉を食い込んだ。割れた舌が皮膚を撫でる。脳に光が走って、気を失いそうになる。化け物はわたしを咥えたまま首を擡げた。足が空を蹴る。
このまま投げ捨てられたくない。化け物と目が合った。尖った有鱗目。
力の入らない右手を無理矢理動かした。あまりの痛みで朦朧としていたから、無意識だ。握り締めたナイフは吸い込まれるように化け物の眼に入った。重力に任せるように抉る。
聞こえたのは、悲鳴のような咆哮だった。
地面に投げ出されたわたしはそれを見た。爬虫類系の化け物は憤るかのように尾を何度も叩きつけ、吼える。そして、ギラついた目でわたしを睨みつけた。背筋が凍るような殺気だ。化け物はこちらに向かって脚を上げた。
「駄目よ、ゴラド!」
女の制止は効かない。わたしは慌てて起き上がって駆ける。
「ひッ」
怖い。人間ならまだ平気だった。わたしと同じだから、与えられる痛みなんて想像がつく。だけど、あの化け物はただただ恐ろしい。恐怖に駈られて足が縺れそうになるが、必死に動かした。
そのくせ、冷静な考えが頭を過る。そしてあの怒りよう、今まで召喚獣として痛みなんて感じたことがなかったのかもしれない。鋼鉄の身体、痛覚などなかった、そんな召喚獣が暴れるなんて、女との信頼関係は解れて消え去ったかもしれない。
化け物は当然わたしよりも速かった。迫りくる恐怖に、とうとうわたしは足を絡ませて転けた。恰好悪いとか、そんなことすら思い浮かばなかった。わたしは呆けたように、化け物を見上げた。
もしあの爬虫類系化け物の気持ちを言うならば、浮かんでいたのは喜怒だ。わたしに対する怒りと、報復の喜び。二度ほど尻尾を振るい上げ、召喚獣は口を大きく開けた。唾液が地面へと滴る。化け物の顔が眼前に迫った。




