ぼくと契約して召喚獣になってよ
皮膚が一枚切れただけのようだった。血の止まりは早いし、幸い土日は休みだった。2日間は念のため包帯を巻いていたけど、月曜日には外した。手のひらを広げると皮膚が引き攣るけど、痛みはない。
六月になって、朝なのに湿気を帯びた空気に鬱陶しさを感じる。公立秋星高等学校はエアコンを入れ始めるのが7月からだから、まだ1ヶ月もこの不快感に耐えないといけない。「今の子はいいよね。私の代には『暑さに勝つ者だけが受験を制する』なんて根性論で、エアコンなんてなかったんだから」とは母の弁だ。でもね、母よ。今はある科学者達曰く、温暖化の真っ最中なのだと。母が学生だった大昔と比べられても困るのだよ。
さて、と。身支度を終えたわたしは、畳に似つかわしくない子供机の、端に置いていた物を手にとった。不良から失敬したバタフライナイフだ。留め具を外して開いたり閉じたりする。休みの日も、手持ち無沙汰な時はこうして遊んでいた。刃の軌跡は綺麗だ。ただの棒切れなのに、一瞬で凶器へと変貌する。安物なんだろうけど、わたしの手に馴染んだ。なんとなく、バタフライナイフをスカートのポケットに仕舞い込む。時計を見れば、もう家を出る時間だった。
別段春宮君に挨拶をする必要性を感じないわたしは、朝のショートホームルーム開始の五分前ぐらいに登校する。
「おはよう」
教室に入ってみればご覧のとおり、春宮君の周りには見事なハーレムが出来上がっている。わたしはそれを視界の端に認めて席に座る。テスト期間中と違って、彼との距離も遠い。
「?」
今日はわずかな違和感を覚えて顔をあげた。
「綾香、おはよう。どうしたのこんなところに来て」
春宮ハーレムの筆頭に立っているはずの綾香はなぜか顔を歪めてわたしの席の前にいた。愛らしい唇が重苦しく開く。
「まひろちゃん」
はい? ぞわっときた。
「何その呼び名」
思ったことが口に出ていた。少し小馬鹿にしたような「泉」でなくて、さらに「ちゃん」付け。わたし、もう高校2年なんだけど。
「まひろちゃん、あのね」
「うん」
改まって何だよ。
「き、金曜日ごめんね。春宮君から無事だっていうのは聞いたけど、怪我してたよね」
「まぁ、かすり傷だよ」
わたしは綾香から目を逸らす。非常に居心地が悪いのだけど。そう、いつもの綾香の太々しさというか、毒々しさというか、普段は綾香の一部となっているオーラが消えている。それに、わたしは単純に吃驚していた。メールを送った後も何の音沙汰もなかったから、不良事件はなかったことにするのだと思っていた。むしろ、「泉だけ助けられてずるーい」程度のことは言うものだと予想していたくらいだ。
「ずっと謝らなきゃ思ってたんだ、金曜日のこと。だけど、あたし。実は内心まひろちゃんダサいなぁとか、いい引き立て役だよなぁとか、いい道具として見てなかった。それ、あの不良に見透かされたみたいで」
いや、わたし最初から分かってたから。「みたい」じゃなくて、確実に思惑がすけすけだったから。
「まひろちゃん、怒ってたよね。不良から文句言われて。握り締められた手に力が篭もったから、ああ、まひろちゃんもそう思ったんだ、あたしのこと嫌いになるんだって」
うん、そうだね。性格悪いって現在進行形で思っている。ちょっとだけ揺らいでるけど。
「だから、不良がナイフを出した時、あたしを置いて逃げるんだって思った」
そのわりにはしっかりわたしを盾にしていたじゃないか。逃げられる状況ではあったけど。
だけど、あの時わたしはそんな選択肢なんて思い浮かばなかった。戦うことを強制された数日間のうちに、そんな思考ができなくなっていただけだった。別に助けるつもりなんてなかったんだよ。
だんだん綾香の瞳が潤みはじめた。
「あたし、こんな、実は性格悪いし、まひろちゃんのこと影で嗤ってたし、まさか、庇われるなんて想像もしてなかった」
涙を堪えるように、一度ぎゅっと奥歯を噛む。両手を握り締めて、わたしをまっすぐに見た。
「なんかね、色々ごめんね。金曜日もごめんね。こんなあたしで良かったら、改めてまひろちゃんと友達になりたい」
「あのさ、綾香」
わたしの平坦な口調に、綾香のツインテールが揺れた。
「誰かを助けた時、言われるのはお詫びじゃなくてお礼のほうがうれしいな」
いいよ、もう。わたしだって利用されているのを承知していて側にいたわけだし。わたしが綾香を利用している面もあった。
「ほら、握手」
「まひろちゃぁん。ありがと。ありがとお」
手の甲に熱い雫が落ちてくる。金曜日と違って、綾香の手はあたたかかった。
「でも、引き立て役には、するからね」
ぎゅうっと握力を込められる。男なら失神してしまいそうな泣き顔の隙間で、黒いオーラが滲み始めた。若干微笑んでいたわたしの唇がひくっと引き攣った。
綾香らしい。
ホームルームの開始を知らせるチャイムがなって、やっと周りはわたしたちのことに気づき始めた。
「うわぁ、泉が西城さんを虐めてるぞ」
「酷いやつだな。大方嫉妬して暴言でも吐いたんだろ」
「ひくわぁ」
そんな外野にわたしが引くわ。
中間試験の結果が返ってきても、一喜一憂している暇はない。そう自分に言い聞かせる。化学と現国は壊滅的だった。他はまだ救われているけど。春宮君は相変わらず首位で、夕は現国1位だった。綾香や、頭が弱そうに見える千早までわたしより成績がいいとは。
でも、そんなことに構ってられない。中の上だと自負していた成績が、中の中としか表現できなくなる嘆きなど、忘れてしまえるくらいに進学校はハードスケジュールだ。6月の半ばに球技大会、終わったらすぐに実力テスト、7月になるとすぐに全国模試、二週間後に期末試験。全部が全部わたしの嫌いなイベントでうんざりする。球技大会だけは楽しみにしている生徒も多いようだけど、わたしは全力拒否したい。身体を動かしたくない、それだけなんだよ。この蒸し暑い日々はとくにそうだ。
「まひろちゃん仏頂面」
「綾香にやけ顔」
千早も、菜月もだ。
梅雨はまだあけていないというのに、雨は降らなかった。もし降ったとしても、行事が先延ばしになるだけだけど。しかし、炎天下である。
ジャージに身を包んで、わたしは脚に顔を埋めた。
「何で、今年はソフトテニス?」
一年生が羨ましい。バレーボールなんて、屋内かつ、一人くらい動かなくても良い競技だ。
「仕方ないよ」
なんて口先だけで、菜月は楽しそうにストレッチをしている。陸上部だもんね。身体動かすの好きそうだもんね。
「それにさ。春宮くんはバスケだよ、バスケ! 中学の頃は部活で国体まで行ったっていうぐらいだし、とってもかっこいいよ」
「絶対応援に行こう」
「楽しみだよね」
何故むさ苦しい男共を見にいかないといけないんだろ。わたしは嫌だ。屋内といっても女子とのそれとは違い、男の汗臭さい空気が充満するに違いないのに。木陰で本を読んでいる方がずっといい。
「出番いつだっけ?」
「後15分後ぐらいだよ。それが終わったら男子のバスケだからダッシュしないとね」
「……」
どこにもわたしの味方はいなかった。いつもは想望の対象たるおとなしい橘グループさえ、どこか浮き立っている。そんなに見たいものかな。春宮君のバスケ姿。どうせこのバスケっていうのも陰謀で決められたんだ。一年の時も男子はバスケだったからね。
わたしは幽霊のように力なく立ち上がった。
「ジュース、買ってくる」
「五分前には戻ってくるんだよ」
等閑に片手をあげて、わたしは静まり返った校舎へ向かった。
「はぁ〜」
口を開けばため息しか出てこない。暗澹たる気分だ。大好きなイチゴ・オレも売り切れ。何にしようかな、とひとまずお金を入れた。
「イズミマヒロ!」
振り向けば高原だった。あったはずの自動販売器も消えている。
「ローブ男」
派手に手から炎を出しながらローブ男はわたしに向かって駆けてくる。
「何よ」
わたしも思わず走りだした。いつぞやの再現みたいだ。
「もう、呼ばないんじゃ、なかったの」
「試験とやらが終わるのを待っていただけだ」
もうローブ男に並ばれている。男女の差か、体力差か。すばやくローブ男がわたしの手元を確認しているのがわかった。学生は平日の昼間に小麦粉なんて持ったりはしない。
「召喚獣イズミマヒロ。あそこの魔術師を倒せ」
振り向くと、人の背ほどのドラゴンみたいな爬虫類系化け物、後ろに人間がいた。若い女がわたしたちの方を指差しながら口をパクパク開けている。
「あれ、は?」
爬虫類系化け物は尻尾を地面に叩きつけながら威嚇をしていた。
「あの女が出した召喚獣だ。だから攻撃は効かない。オレはあいつを抑えるから、その隙に魔術師を殺せ」
「武器」
男は袖からいつもの短剣を差し出す。わたしはそれをジッと見た。
結局、何も変わらないのだ。見せかけだけの平穏の日々だった。綾香や千早、菜月とのぬるい友情だとか、いやいやだけど、それでも最後には楽しかったって思えただろう球技大会だとか。そんなささやかな日常が簡単に消える。
今、わたしは人殺しになる。




