EP5
あの日のことは、今でも昨日のことのように鮮明に紗月は覚えている。
「お母さん、早く仕事を終わらして帰ろう」
「そうね」
母は頭を撫でると、結界に向き合い始める。指で印を結び「覆い隠せ」と短い言葉を発すると、深い緑の霊力が不安定な箇所に流れ込んでいく。
青龍の青い結界に母の玄武の力が染み込み黒くなる。そして黒が徐々に元の青色に戻っていく。
「よし、ここはこれで完了ね。他はどうなっているのかしら」
「あの人達、お母さんと違って下手くそだから、まだ終わってないんじゃない?」
「そんな事を言わないの」
お母さんは、他の人たちが時間をかけてすることをあっという間に終わらせてしまう。それなのに誰も認めようとはしない。
紗月は声を大にして言いたかった。でも、そんなことを言えば母が罰せられる。背中の裂けた皮膚から流れる血を、忘れられない。何とか治癒の術を使って背中の傷を塞ぐことはできたけど、完璧にはできなかった。時間をかけて毎日少しずつ頑張って、母の背中の傷は薄くなり、やっと目立たないほどまでに回復している。
お母さんみたいに、直ぐに傷を治せるくらいになりたい。お母さんみたいな術者になりたい。そして絶対に本家の人間を見返してやると、紗月は手を握り込む。
「うわあぁぁーー!」
他の術者がいるはずの方角から、男たちの重なる悲鳴が聞こえてくる。
妖が出たんだ。緊張が二人の間に走る。
「――紗月、ここにいて」
「いや! 私も行く!」
「いいから、ここにいなさい!」
「いつもお母さんのことを馬鹿にする奴らなんだから放っておけばいいよ!」
次の瞬間、乾いた音が耳の近くでして頬がカッと熱くなる。
「お、かあ、さん」
「紗月、人を憎んでは駄目。助けを求めてる人を放って置くのも駄目よ! それにもし妖なら、ここで食い止めないと。紗月はここにいなさい! いいわね」
母は何度も何度も念を押しながら、隊服をはためかせながら叫び声が聞こえた場所に走り出して行く。待っていられない! 自分も行かないと! 紗月も母を追って走り出した。
追いついた紗月が目にしたのは、右手が無くなっているだけではない。腹からも血を出して倒れている母の姿だった。
「あ……ああ……お母さん!」
母に駆けより、上体を抱き起す。
「お母さん! お母さん!」
どうしてお母さんが怪我をしてるの? どうして――
「……き、げ、さい」
元々白かった母の肌が、真っ白になっている。吐いた血で口元が真っ赤に染まっていて、母の肌の色と血の色差に紗月は恐ろしさを感じていた。
「嫌! 死なないでお母さん! 誰か、誰か助けて」
顔を上げると、他の隊員たちが離れた場所からこちらの様子を伺っている。
「助けてください! お母さんが死んじゃう! 助けて!」
「ふざけるな! 上級の妖が出るなんて聞いてない! 俺たちの力ではどうにかできる訳がない! 撤退だ!」
「なら、お母さんを連れて行ってください! お願いします!」
子供の力では母を負ぶっていくことも引きずって行くこともできない。
「お母さん! 死なないで! お母さん」
母の肩口に顔を埋め、神様どうか母を私から取り上げないでくださいと、何度も何度も紗月は祈る。
「さ……つき……にげ、て……いき……て」
抱きかかえていた母の重みが増す。それでもまだ、弱々しく胸元が上下している。
まだ、まだ間に合う!
「撤退だ! お前も死にたくなかったらそんな母親なんて捨てておけ!」
絶望が紗月を襲っている中、母を置いて逃げた隊員たちの言葉に、体の中に何かが集まる。嫌だ嫌だ嫌だ! 誰か助けて! 体の中の熱が一カ所集中した感覚があった。そして、目の前が真っ白になるほどの光に包まれた気がした。そしてその時「落ち着け」と言う声を聞いた気がした。




