鶯谷で合掌は続く
これは最後の私小説作家である北町貫多の自称弟子の拓也の地獄私小説である、
二〇二二年二月五日、故・石原慎太郎の追悼文を北町貫多が新聞に寄稿していたので読もうと拓也が思っていた矢先、その北町貫多自身の訃報が飛び込んできた。「まさか…」とおおいに驚き、そのあまりにも早過ぎる死に戸惑い、動揺し、虚脱状態に陥ったが、その一方で拓也の心のどこかには、「やはり…」との想いもあった。
つくづくかの小説家は、不運の上にも不運な人生を送る宿命だったのだ。
拓也が初めて北町貫多作品を読んだのは十一年前の二〇一一年、芥川賞を受賞したばかりの作品「地獄列車」だった。彼は三十一歳になっていたが、全くの興味本位でもって、その受賞作を読んでみて驚いた。
かつて経験するところのなかった異様な興奮を覚えてしまったのだ。該作家の私小説は、これまでつまらないと思い込んでいた所謂私小説作品群とはまるで味わいが違っていた。滅法面白く、一気に読んだ。
叙してあることは、作者自身を模した主人公の不様で情けない行状を書き連ねているだけの、良くも悪くも分かりやすい話だ。特に物語の筋と云うのも見当たらない。が、それでいて断然に面白いのである。一読してすっかり北町文学に心酔し、それ以来、拓也は北町貫多を小説の師匠と仰ぎ、自らも私小説を書き始めたのだった。
北町貫多の小説を語る上で特筆すべきは、まず何よりもその独特の「文体」にある。エンタメ系小説の場合、作者は読者に文体を意識させないよう、無色透明な文体を心掛ける傾向がある。読者がストーリー展開に専念できるようにするためである。一方、所謂純文学の小説の場合、文体はストーリー以上に重要となってくる。場合によってはテーマ以上に重要な時もある。その文体に独自の個性と充分な魅力がなければ、純文学小説としては到底成り立たない。
北町貫多の文体は現存する他の小説家の誰にも似ていない全く独自の文体であり、それは久しく表舞台から姿を消していた大正期の「私小説的文体」でもある。
当然ながら北町貫多が若き日より愛読してきた私小説作家たちの影響を受けている訳だが、それらを自分なりに消化し、北町貫多オリジナルの文体を作り上げたのは、紛れもない貫多の才能と特別な資格によるものであろう。
そして北町文学には、ストーリーらしいストーリーはほとんどない。テーマも限定されている。著者の分身である主人公は正真正銘の駄目人間、劣等感の塊り、人間の屑である。中卒で定職を持たず、日雇い仕事にたまに出かけるだけなので、年中金策に苦しみ家賃を繰り返し滞納して追い出され、安宿を転々とする先の見えない日々。
性格が狷介なため友人も女もおらず、毎日のように孤独感に苛まれ、手に入ったお金は女体を買い酒を飲んですぐに浪費される。暇潰しは三冊百円の古本を読むことだけ。他人と近しい関係になっても最後は喧嘩になりすぐに孤立し、性犯罪者の倅である己の不遇を呪う。せっかく同棲してくれた唯一の女性へもDVを繰り返し、わずか一年で逃げられる、
と材料自体は同じものが何度も使用されているにもかかわらず、一作一作が個々に面白く仕上がっているのはお見事と言うしかない。その最大の要因が北町貫多独自の「文体」とそれを支える「身体性」にある。その「文体」の魅力を言葉にするのは非常に難しい。その文章には「深い味わいがある」「匂いがある」「粘りつくよう」であり、「不可思議なユーモアがある」「ほどよい自虐がある」「冷徹な作者の目もある」、まるでよく煮込まれた料理のようである。
特に「貫多は根が~にできている」というのが北町文学における最大の決め文句となっている。例えば、
「慧瑛相弔」という作品においては、「根がクールなリアリストにできている貫太は」という文句が出てくる。「クール」も「リアリスト」も、貫太のような醜い中年男のイメージからかけ離れているからこそ、思わず読者の笑いを誘い多大なる効果を発揮するのだ。
「慧瑛相弔」という作品のストーリーは、「貫太の作家デビューからA賞受賞に至るまでの経緯、そして師・藤澤清造への想い」これだけである。 わざわざ小説にしなくとも随筆でも足りるようなテーマである。
たったこれだけのストーリーが小説として優れた作品として上手く仕上がっているのは、小さな幸福と不幸に対し、頻繁に浮いたり沈んだりする、捻くれて歪んでいる、面倒くさくて厄介で狷介な貫太の性格と心境
を、ねちっこく、しかし滑稽に、しかも時に爽やかに描く文体があってこそのものなのだ。
この北町貫多の文章に読者は知らぬうちに深みに嵌り、それが次第と骨絡みになっていくのである。文中では「貫多は元より量産の利かぬ非才の身」「五流のゴキブリ私小説書き」と書かれているが、実際の北町貫多は「量産の利く多才の身」であり「甘な作家ではない」のだった。
死の前月、師・藤澤清造の墓前に、北町貫多はたった一人佇み、延々といつまでも墓に向かって何かを語りかけていたという。おそらく自身の死が近いことを覚悟していたのだろう。一度も家庭を持つことはなく、両親や兄弟など家族との交渉もなく、亡くなっても遺族とは連絡が取れないようだ。(後日、藤澤清造の墓の隣に建てておいた北町貫多自身の墓に無事に納骨されたと聞いて安心した)
享年五十四、芥川賞を受賞して注目を浴びてから十年、太く短い作家人生だった。 初候補から一貫して北町貫多を推し続けた選考委員が石原慎太郎であり、当初から北町文学の「身体性」を高く評価していた。文学賞のパーティには滅多に来ない石原慎太郎が、北町貫多に会うためにわざわざ受賞パーティに来てくれたという。つまり唯一にして最大の理解者を失った直後、北町貫多も逝った格好となった。
しかし彼は小説家にはなれたが、とうとう北町貫多以外のものにはなれなかった。
文字通り骨身を削りながら、最後まで手書きで原稿用紙に私小説だけを書き続けた。その生涯には、楽な日なぞ一日もなかった。一度でいいから人間を信じてみたいと願いつつ最後まで師以外は絶対に信じられない人だった。
今でも彼のこの世の一切を呪う言葉が聞こえてくる。「人間なんてこんなにも醜いのだ。人生とはこんなにも無様なものなのだ。この世は生きる価値なんぞ無い。人生とは理不尽なまでに厄介なだけなのだ!」という怒りを通り越した諦念の叫びが聞こえてくる。
いつまでも続く「地獄列車」にたった一人で乗車していたが、ようやく下車を許された。天涯孤独・孤立無縁の寂寞感が、確実にその心身を蝕んでいた。不器用に生きるしかない人生だったが、時折見せてくれる笑顔が素敵でもあった。私小説で人生を棒に振った格好となったが、そもそも私小説が無ければ生きることさえできなかっただろう。
また一人大切な文士を、何よりも彼の師匠を失ってしまった拓也は、北町貫多が十五歳の時より通い詰めた鶯谷の安居酒屋『信濃屋』を訪れ、一番奥のカウンター席に陣取り、ウーロンハイを舐めつつ師の北町貫多に向かって夜更けまで、その冥福と鎮魂を祈り合掌を続けたのだった。
そして北町貫多の死去から一年が流れ、拓也は四十二歳になっていた。自分自身の人生が敗北に終わろうとしていることを、完全に自覚せざるを得ない時期でもあった。まだ若いのだから何とかなる、という甘い考えはとうの昔に捨てていた。
そしてフェイスブックなどで大学時代の同級生の活躍ぶりを見ると、他人を羨むことはしまいと努めている彼でも、どうしてもその心は敗北感にすっぽり包まれるのだった。彼の同級生たちは大学教授、弁護士、霞ヶ関の官僚、大手出版社の編集長など、超一流の立派な肩書を手に入れ、その高い能力を思う存分発揮している。そして良き伴侶にも恵まれ、子供も良い学校に通わせ、幸福な家庭を築いている。
そんな華麗な経歴を誇る同級生たちの中、拓也だけがどんな仕事も務まらなくて、未だに無職で独り身なのだ。鶯谷の家賃一万円の四畳半のボロアパートに起居しているのだった。拓也だけが惨めで孤独な人生に苦しんでいた。今の彼は人間という存在に全く期待していなかった。人間という存在を全く信用していなかった。人間に期待しても、その期待以上の失望を味わうだけであるとの結論に到達していた。その口から洩れるのは、溜息、不平不満、怨みごとばかりだった。
彼は生まれつき短気で忍耐力のカケラも無く、カッとなると毒舌ばかり吐き、協調性も社会性もゼロであるため、どんな職場でもすぐに浮いてしまい最後は不様に追放されるということを繰り返していた。加えて子供の頃から他人と付き合うことが苦痛だった彼は友人いうものが出来た試しは皆無だった。その日に食べる物と夜寝る場所が有れば良しとする生活とも呼べないその日暮らしを、この年齢に至るまで惰性で続けてしまっていた。
いつも拓也は同級生たちを意識してきた。彼と同じ大学を卒業した者で、未だにこんな不様な生き方をしているのは彼だけだった。同級生たちの存在はひたすら眩しく、翻って己の惨めな人生を振り返ると、彼はいつもいてもたってもいられなくなるのであった。明らかな落ちこぼれなのだから、さっさとプライドを捨ててしまえばいいものを、愚かな彼は未だに誇りを捨て去ることが出来ずに、何とか今からでも同級生たちに顔向け出来る存在になれないかと未練タラタラなのである。
しかし冷静に客観的に見るならば、生まれつき数多のハンデを背負う落ちこぼれがジタバタ足掻いても何も成せず、何者にもなれず、社会の最底辺の掃き溜めで埋もれているだけだった。拓也にとって人間という存在はもうどうでもよくなってしまった。自分を含めた人間という存在に失望し、絶望し、いつしか他人と関わらなくても平然としていられるようになった。
最低限の生活費を稼ぐための短期のアルバイト先でも、もはや誰も相手にせず、誰からも相手にされず、相互完全無視の状態も苦にならなかった。休憩時間にポケットに突っ込んだ北町貫多の文庫本を繰り返し読むことが唯一の楽しみでありそれ以上はもう何も求めなかった。
拓也はこの自分が生きている世界に対して、無気力、受動的、ひどくやたけたな気持ちでもって、冴えない陰気な毎日を漫然と過ごしていた。同級生たちはそもそも彼と勝負さえしていなかったという、その勝負が単なる己の勘違いだったという事実に気づくと、何もかも阿呆らしく虚しくて彼の意識はどんよりと澱むのだった。
もうオレには何も残っていないと自嘲してみたところで、最初から彼には何もなかっただけなのだ。思えば彼の人生は解体した瓦礫の中から、生来のハンデをいくつも背負って、暗中模索するしかなく、毎日一日一日を生き延びるだけで精一杯だったのだ。
彼は中学生の頃に探偵小説に夢中になると、その種の安く手に入る本を求めて神保町の古書店街を徘徊する習慣を身につけた。学校でも家庭でも話が合う人間が皆無で居場所の無かった彼は古書店街にいる時だけ安心するのだった。
現在も彼は週に三回は古書店街を訪れる。毎回欲しい本が見つかる訳ではないが、家庭も持たず、相変わらず友人の一人もいない彼は他に行くところが皆無なだけである。若い頃は三省堂で薄い新刊なら立ち読みで読了したものだったが、最近は長時間の立ち読みは体力的にしんどく、ぶらぶらと古書店街の建物や軒先に並ぶ本をもっぱら眺めるだけである。
一時期は神保町近辺で部屋をさがしたものの彼が借りれそうな安価な部屋は無く、ずっと鶯谷のボロアパートから引っ越せずにいる。若き日の北町貫多は家賃滞納を繰り返し転居を重ねたが、拓也にはそんな度胸は無く、家主から家賃の支払いを催促されるとすぐに払ってしまうのだ。普通の人間はそうだろうが、貫多の弟子を自称するようになってからは、家賃の滞納さえ出来ぬ己があきたりなかった。
鶯谷のボロアパートでは、貫多に倣って、畳の上に直に身を横たえて、枕代わりのトイレットペーパーに頭を載せ毛布を被って寝ている。花冷えとでも云うのか、四月初旬の夜はまだそこはかとなく薄寒く、根が寒さには滅法弱い質の拓也はなかなか寝つけぬまま、体にガチガチに力を入れて身を縮こませた。
彼は惨めで不様な己の境遇を思い、小説を読むことと書くこと以外にすることも無く、これからどう生きていけばいいのか、そもそも生きていけるのか、答えの見つからぬ堂々巡りの思考に陥り、早く眠りに落ちて何も考えなくて済むことをひたすら願うのだった。
拓也が鶯谷に借りている部屋は、室内の突き当たりに嵌め込まれている磨りガラスを開け放つと、その向こうはすぐと隣家のコンクリート壁が立ち塞がっている。右の室の軒端には、安っぽい洗濯ロープに使い込まれた風情の白タオルがかけられていた。
彼は大学卒業以来、都内の安宿を転々としてきたが、現在起居する鶯谷の四畳半の部屋も、色気とは一切無縁の豚小屋である。彼は根が人一倍に怠惰な質にでき、ロクに働きにも出てゆかず、蓄えとて常に一円の金も持たぬ生活不能者である。生まれつき労働が何よりも嫌いで苦手なのである。それは社会で生き抜いていく上で致命的な欠陥だった。
貫多に倣い、彼の引越し荷物はいつも僅かな衣類と数十冊の本、それにトランジスターラジオを詰めただけの二つの紙袋であった。
鶯谷駅北口を出て尾竹橋通りに向かって真っ直ぐ進むと、やがて左側に高校前の信号へ通ずる横路がある。この通りは、飛び飛びに深夜喫茶や一年中冷やし中華を出しているラーメン屋、それに手頃な値段のエロ雑誌が充実した小さな書店があり、夜一時までやっているコンビニ形式の酒屋もあった。
貫多は、ここの横路のことを勝手に“鶯谷銀座”と名付け、鶯谷の三畳間にいた頃は、日に一度はこれらのうちのそどこかに立ち寄っていた。これに倣い拓也も“鶯谷銀座”に毎日通うのが慣わしとなっていた。
若い頃、特に十代の頃は、とかく四十、五十代の中年男を見下しがちとなる。それが冴えない独身のアルバイト生活者であれば尚更のことに、もう先も見え始めているであろう目的とてない人生を生きていて、一体何が楽しいのだろうかと思われてしまう。棺桶に片足突っ込んでいるも同様の無意味極まりないゴミクズ。下等な生き物、人生終焉者。拓也は自分がかつて見下していた存在になってしまった事を、何かの折に思い知らされると、絶望的な気分に窒息死しそうになるのだった。
かつては彼も十代の頃は身体剛健?、頭脳明晰?、容姿端麗?の前途洋々?たる若者だったのだ。その一方で、こんな人間がこの年までよく生きたな、という想いもある。どうで彼の人生は今までもこれからも不様な逃走の繰り返しなのだ。あらゆる意味で負の権化みたいな野良犬なのだ。頭脳明晰を自負するわりに魯鈍な彼は厳しい現実に何度も打ちのめされてきた。
しかし何も成し遂げられなくても、こういう人種はある程度の年齢まで生き延びたならば、それだけで大変なことを成し遂げたことに匹敵するような実感もある。 何のために生まれてきたのかさっぱりわからないけれども、もう直ぐ死ぬだけなのだ、もう余生なのだと思えば、少しは慰めにもなるというものだ。何もしていないが生き恥だけは随分とかいたものだと、冷めた目で自分を見る。
新川は神保町で目録販売専門の古書店「落日堂」を営む、貫多とはかれこれ三十年のつき合いになる人物である。貫多が三十代の頃は、殆ど毎日の如く「落日堂」に赴き、仕入れの手伝い等をしてアルバイト料のようなものを貰い、他に番度の数千円の寸借やら数万円の無理借りやらを重ねていた。そのため貫多も一応は古物商の鑑札を持っている。貫多は小説家として忙しくなってからも、彼の書架から不要のダブリ本が出ると、幾らかでも値がつきそうなものは古書業者間の市場に出してもらうため宅配便で段ボールを送っていた。新川からその結果を聞いた時の貫多は、
「――やっぱり、あれですね。ラクして小遣い稼ぎなんてのも、なかなか上手くはできねえもんですなあ」
と、いつも嘆息まじりにほき出す。そんな彼に対して至って善良というか異常なまでに善良過ぎる性質の新川は慰めるような口調でいつもフォローしてくれる。公私にわたり貫多のような狂人レベルの扱いが難しい男に対し、これだけ長期間愛想も尽かさないのだから、その善人レベルも半端ではないのだ。
北町貫多にとって妻子だの家族だのと云うのは足手まといの最たるものの対象でしかない。そんなものに囲まれて、それを養う為に自分を犠牲にするよりも、いかな周囲から白眼視されようとも、独りで自身の小説書きも含めての師匠の没後弟子道を邁進する方が、彼にとってはるかに手応えのある人生だと信じていた。
拓也としても貫多の没後弟子道に邁進したいところであるが、困ったことに貫多は、自身の没後弟子は絶対に現れてほしくないと、ある作品中にて断言しているのだ。
貫多は師匠以外の他人のことは一切の興味がない。新川も底抜けのお人好しながら貫多以上に他人に関心が無く、貫多の著作も読んだ様がなく、「別に興味がないから」と平然と言い放つ男だからこそ長年にわたり貫多と持ちつ持たれつの関係を維持出来たのだろう。
貫多が藤澤清造の作を初めて読んだのは二十三歳のとき、或る郷土文学全集に抄録されていた『根津権現裏』なる作には初読時もそれなりに惹かれつつものめり込むには至らなかった。しかしその数年後に暴行事件の起訴により四面楚歌の状況に陥り、唯一の拠りどころだった田中英光の私小説世界も、その作家の遺族に通報寸前の無礼を働き出入り禁止となると、もう何も残っていなかった。
そんな二十九歳時に該作を再読すると、今度は泣きたい程の共感を覚えて、すぐさま藤澤清造の墓前にぬかずき、没後弟子としてその全集の発刊を誓うと心に小さな希望の灯火が生まれた。この私小説家への追尋で人生を棒にふる意志を固めた、というのが、およそ余人が正気では考え得ぬ高み、北町貫多の没後弟子道邁進の簡単な経緯である。
それ以降、貫多は毎月二十九日には清造月命日の掃苔の為に、能登七尾の菩提寺に赴いて墓前にぬかずくのが恒例化した。毎月墓前にぬかずきながら、彼は清造の霊に願かけのような類は一切しなかった。そんなマネをして、ぐれはまとなったときは、師から見捨てられた格好となることを怖れた故にである。
情けないと云えば、随分と情けない話ではある。その悔いと云えば悔い、慚愧と云えば慚愧の念に苛まれると、拓也は不甲斐なく、未だ未練に小説にしがみつくことしかできないのだった。この先の道行きの不安、そんなものを、ここのところはとみに感ずるようになっていた。
二十代や三十代の頃には、全く思うこともなかった不安である。何かこう、自身の先が、終点が見えてきてしまった感じなのだ。まだ老境気取りになる年齢ではないが、なぜか自らの死というのが、やけに身近のこととして捉えられてきてしまう。自分の人生とは一体何だったのだろうかとの、疑念みたようなものも頻々と頭をよぎるのだ。
どうで皆、必ず骨壷に入るのだ。遅かれ早かれの違いは、結句さしたる意味も持たない。どうで数十年の話であり、百億年以上の宇宙の歴史に於いては無同然のゴミクズなのだ。
何も死は、彼のように“落ちぶれて袖に涙のふりかかる”の状態にある者のみに巡り来るわけではない。今、生きている者は洩れなく全員、全くの無になる。これは絶対に動かない。なれば逆説的になるが、その死こそを天からの救済措置として心得つつ現在を生き、依頼のない原稿をひたすら書き続けるしかない。
その覚悟の上で書き続けていれば、いつの日か、己にとっての最後の死に花を咲かせるような作をものすることができるかもしれない。今はその、幼稚な結論に縋りつかなければ、到底やりきれぬ思いになっていた。(何の其の、どうで死ぬ身のひと踊り。か…)
年明けから、ロクなことはなかった。イヤ、それを云うならば拓也の不運さは、かれこれ四十年も引き続きのことであり、頭上には常に暗雲があり、晴れるのはたまさかであるのだから、正確に言うならこれは、今年も元日から相変わらずロクなことがない、と言い直すべきだろう。あいも変わらずどこからも雑文一本の依頼もなく、金も底をつき、昨年も新しい友も女も得られなかったのは毎度のことなので詳細は省く。
今の彼には、もういい加減外で金を作る手立ても限界に近づいていた。そんな彼の現在の唯一の救いは昨年応募した「文豪界新人賞」くらいである。運良くはじめて彼は最終選考に残っていた。今日がその選考会
だった。もしその賞を受賞したならば、今夜には編集者から電話連絡があるはずなのだ。
彼は何度も何度も着信の確認をして落ち着かない。もう四十二歳では新人賞の受賞資格があるか怪しいものだが、それでもやはり小説家になりたいとの未練は今尚タラタラなのである。新人賞について考える時間以外、彼の口から洩れるのは、ひたすらの溜息と不平不満に愚痴と怨みごとばかりのものだった。
北町貫多の影響を受けて私小説を書き始めて十年になろうとしているが、その間に新人賞に応募した作はいずれも一次予選さえ通過せず、最早自分が最終候補に挙がる事態は到底無くなったものと思い込んでいた。
しかし、いざ思いがけぬその知らせを受けたとき、不覚にも胸がざわめいた。やはり欲しいと強く思った。
この賞を取れば、少しは自分の不遇な状況も変わるだろう。歴史ある文芸誌に小説が掲載されるかされないかでは、やはり大きく違う。元より金目当てではない。大袈裟だが自分が生きた証を残せるか否か小説書きとして一瞬でも生きられるか、小説書きとして死ねるかの重大な岐路となる。
もう金も名誉も地位も友も女も求めない代わりに文名だけでも上げたかった。芥川賞とは違い、文芸誌の新人賞では本が出ないことが当たり前であるし、その作品を読む者はほとんどおらず、数多の過去の受賞者同
様、受賞したとしてもそれ限りで消えるとしても構わない。受賞したことを北町貫多に報告出来ればそれで満足してもういつ死んでもいいという心境に落ち着くであろう。
すでに日も暮れた頃合に上野駅で電車を降りた彼はその夜は浅草の外人のバックパッカーが集う安ドミトリーを宿泊所とし、改めて鶯谷へと向かった。
鶯谷駅北口の改札口の前の道を右に折れると、北町貫多が十五歳の頃から通い詰めた二十四時間営業の安酒場『信濃屋』が見えてくる。
激安ではあるが料理はボリュームがあり味付けには定評がある。拓也は入口から奥に進み空いているカウンター席に座ると、すぐに寄ってきた東南アジア系外国人の店員にビールと肉野菜炒めを注文した。ビールを飲み終えるとウーロンハイに切り替えたが、異様に濃度が高くてすぐに悪酔いし、店内が蒸し暑く感じられ気分が悪くなった。彼はフーッと、深い溜息を吐き出した。それにしても蒸し暑い。
額の汗をカウンター上に置かれたティッシュで拭き取る。繰り返しになるがそんな拓也にとり、現在唯一心の光明となっているのが「文豪界新人賞」であった。その賞の最終候補に残ったことを、彼は先月末に『文豪界』の編集者から電話で知らされていた。
身の程知らずな話だが、拓也はこの賞を受賞してみたかった。そして『文豪界』の表紙に自分の名前が大きく印字されているのを見たかった。その写真をフェイスブックにでもアップして、彼を白眼視し、散々侮蔑してきた同級生たちをほんの一瞬だけでも驚かせたかった。
達観することにより、いくら自分の心に諦めを強いたところで、また何をどう言い繕ってみたところで、やはり「文豪界新人賞」の栄誉だけは何としても担いたかった。受賞式で編集者に選考委員の有名な小説家たちを紹介してもらい、緊張しながら挨拶をして感謝の言葉を伝えてみたかった。
彼の苛立ちは臨界点に近づきつつあった。万に一つも受賞はない、と絶えず自分に言い聞かせてはいたが、自身に諦観を強いるごとに、その人の行きつけの居酒屋のカウンター席が無性に恋しい。
その人の魂が宿る場はまずはその墓前であるが、拓也にとっては墓前よりも信濃屋のカウンター席にぬかずくことが、何よりもの救いとなる。ここは師匠が【信濃屋文学】を誕生させた場所であり、拓也は【信濃屋文学】の後継者となりたいのだ。そんな彼にとりその場で異様に濃度の高いウーロンハイを呷ることが何よりの救い、慰めとなるのである。
二十四時間営業と料理のボリュームとその鶯谷独特のディープな雰囲気だけが売りの安居酒屋であるが、拓也のような本来何の信仰心もない者にも、この店は些か厳かな、尊き神々しさを放っているようにも見受けられた。拓也には信仰心なぞカケラもない。信じているのは神でも仏でもなく、北町貫多だけ、と云う奴である。
彼はいつか自然と手を合わせて、一心に南無阿弥陀仏を唱えていた。そしてさらに、自分でも何とも思いがけぬ言葉を、かの貫多に向けて心中で叫んでいた。
(たすけて下さい!)と。
これは北町貫多が芥川賞の候補に挙がった際に藤澤清造の墓前で叫んだ言葉だった。拓也はこれまで幾度となくこの店を訪れていても、かような愚かな願かけめいた真似はしたためしがなかった。そうした行為を馬鹿馬鹿しく思っているという面もあるが、一方ではそれと裏腹に、もし貫多に対してかような願をかけて叶わない場合、いわば唯一の支えにそっぽを向かれた形となるのが怖くて仕方ないのである。
だがこのときは我知らず、初めて(たすけて下さい!)が、えらく自然に、そしてひどく切実な響きを伴い、その心中から迸り出てしまった。拓也は上半身を前屈させつつ合掌し、その人に向けて幾度も幾度も、かの哀訴を繰り返した。
年齢的にもこれが最後のチャンスであろう。これを逃せば拓也にはもう何も残されていない。何者にもなれぬまま惨めに人生を終えることになる。彼は小説書きとして、【信濃屋文学】後継者の文士として、終わりたかった。
くどいほど繰り返すが、この『信濃屋』は昨年急逝した最後の私小説作家、北町貫多が十五歳の頃から通い詰めた、言わば信濃屋文学発祥の店である。
選考会を控えて、拓也の緊張感と不安感はますます高まってきていた。その人の魂が宿る場で安酒を飲むことが、唯一の救いであり、慰めだった。信じているのは、北町貫多だけである。
店の壁一面に並ぶメニューの品書きを凝視したまま、無意識のうちに拓也は、かの北町貫多に向けて心中でまた叫んでいた。(たすけて下さい!)と。
極めて卑屈な心境に陥っていることを自覚しつつも、俄然その賞が欲しかった。あれだけ忘れようとしていながら結句はこの日もまたそれを繰り返す己の未練が、拓也は我ながらひどく情けないものに思われたが、根が他力本願の彼はカウンターに肘をついて合掌し、その人に向けて何度も何度も(たすけて下さい!)を繰り返したのだった。
拓也は信濃屋の一番奥のカウンター席に陣どんだったまま、ウーロンハイを舐めながら編集者からの電話を待っていた。しかし九時を過ぎても、十時を過ぎても、十一時を過ぎても着信が無いまま、とうとう夜中の十二時を過ぎた。
全てが終わったことを悟った拓也は、ひたすらウーロンハイを煽り続けた。全ての弓は折れ、全ての矢は尽きたのだ。世が明けるまで、意識が朦朧となるまで、拓也は信濃屋のカウンター席から立ち上がれなかった。幾つもの駅を通り過ぎてきた自分は、何故いつも幸せの一つ手前の駅で降りてしまうのだろう?孤独で惨めな人生も終われば一瞬のことであった。
「結句、まったく、しまらねえ人生だよな…。どうにも厄介なだけの人生だったな…」
【信濃屋文学】の後継者になれなかった彼は、(終わりました)と師匠に向けてまた合掌するのだった。
すると、
「いや、お前はよく頑張ったよ。ぼくちゃんと見てたから。崩折れるにはまだ早いぜ」
という貫多の声が聞こえてきた。
いつもと同じく、北町貫多だけが彼の心の中にいてくれた。これまでも、これからも北町貫多だけが共に苦しんでくれる。拓也は、微かな安堵を覚えつつ、カウンター席に座したまま意識を失った。
この作品はある作家への敬意から始まった。




