18 『放課後、飛べない天使と屋上で。』
「もう、大丈夫だよ。長い間いろいろ付き合ってくれてありがとうね。」
一瞬、時間が止まったみたいに感じた。
彼女の髪が風に揺れて、制服の裾がふわりと持ち上がる。
相変わらず、季節に似つかわしくない長袖だ。
「……っ」
名前を呼ぼうとして、声が喉で引っかかった。
結局最後まで、彼女の名前は知らないままだった。
彼女は空中で一度、くるりと身体を回して、こちらを見た。
その表情は、今までで一番穏やかで、少しだけ寂しそうだった。
「シュン」
風の音に紛れて、確かにそう聞こえた。
「ありがとう。私ね、楽しかったよ。本当に」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛くなる。
言いたいことは山ほどあったはずなのに、どれも言葉にならなかった。
たくさん時間があったのに、結局彼女のことは何も知らないままだ。
――まだ一緒にいたい。
――本当にもう未練はないのか。
でも、行っても仕方がない気がした。
彼女はもう、答えを出してしまっている。
「……俺も」
やっと、それだけ絞り出す。
「君と過ごした時間、楽しかった」
彼女は少し驚いたように目を丸くして、それから、くしゃっと笑った。
初めて会ったときみたいな、無邪気な笑顔。
「そっか」
翼が、もう一度大きく羽ばたく。
そのたびに、彼女の輪郭が、少しずつ淡くなっていくのが分かった。
「じゃあね、シュン」
最後に、彼女は小さく手を振った。
強い風が吹いて、思わず目を閉じる。
次に目を開いた時には、空には何も残っていなかった。
屋上には、風の音と、夏の匂いだけがあった。
とぼとぼとフェンスの方へ近づいた僕は、空を見上げたまま、しばらく動けなかった。
涙が出ているのかどうかも、分からなかった。
ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたみたいで。
それでも、不思議と絶望はなかった。
夏休みの最後の日。
彼女は屋上から飛び去って行った。
ーーーー
それが、僕の高校一年生のころにあった出来事だ。
あれ以外、誰かの幽霊と出会ったりだとか、彼女と同じような姿をした人に出会ったことはない。
だから僕自身、あの出来事が本当だったかどうか半信半疑な部分はある。
でも、彼女が描いた喫茶店の絵は今でも僕の部屋の壁にあるし、引き出しには古い日記が入っていて、嘘ではなかったと感じさせられる。
あれ以来、僕は日記をつけるようになった。
あの嘘みたいな日々に似たようなものに出会ったとき、嘘じゃないと思えるように、できるだけ覚えておきたいと思ったのだ。
日によって内容が濃い日もあれば薄い日もあるので長さはまちまちだし、忘れてしまう日もあるが、なんとか続けている。
もし天国みたいなものがあったとして、そこに日記を持っていけるなら、彼女に見せてみたいと思ったのだ。
彼女と出会ったことで、僕は以前より活発に生きるようになった気がする。
少なくとも、以前のようにクラスになじめないでいるまま過ごすのはやっぱり良くないかな、なんて思って、以前より人に声をかけることが多くなった。
なんとなく、僕のコミュニケーションは彼女を見習うようになった気がする。
あの後、僕は夏休み明けの始業式を終え、屋上に行った。
彼女の姿は当然なかった。
でも、僕の目的は彼女に会いに来たわけではなかった。
いつも彼女がいた場所に、花を手向けに来たのだ。
僕はあの日の放課後、飛べない天使と屋上で出会った。
あの夏休みに、飛べない天使と屋上で過ごした。
この日の放課後、僕は飛べない天使に屋上で最後の別れをした。
僕の日記の最初の日付のタイトルはこれだった。
『放課後、飛べない天使と屋上で。』




