相談者 相沢茉子
浅間大亮は日曜日のボランティアに来ていた。いくつかの学校が各地区の公民館で行う慈善活動。この場所では浅間の在学している敷童高等学校から、各学年十人ずつが参加していた。
無論、ゴミ拾いというのは建前で、特に堅苦しく行うような作業でもない為にその隙を狙っての相談を試みるのだ。作業をやりながらでも口は動かせる。むしろゴミを拾うという単純作業と並行するのは適度に視点を自動化させ、話を弾ませるものだという考えがあった。
平時の格好というわけにはいかず、上下学校指定のジャージでの参加だ。その上から羽織るちゃんちゃんこにはやや暑さを感じる。そして軍手を装着、首にはタオルを掛け準備は万端。熱中症になるような気温の心配はまだない季節であったが、それなりに継続して行う労働の為、念には念を入れた。
するとビニールの乾いた音を散乱させて近づいてくる入間の姿があった。あまり好みでないジャージでの集合に少しの不満があるように見えた。
「遅かったね」
「全然集合時間前じゃない。あんたが早すぎるのよ」
ふと入間の注意がある一点に引かれる。
「それどこから貰ったの」
入間は浅間が持っているステンレスの火ばさみを指差した。
「数は限られていたが、配っていたよ」
浅間は得意げにそれを指揮棒のように動かした。
「まだあるかしら」
「いやあ、あたくしが取った際にはもう三本程度しかありませんでしたからねえ」
火ばさみは先着順であった。
「女子に譲りなさいよ」
「この時代に性差は通用しないよ」
その言葉は浅間の軽口にしては聞き慣れないテイストだ。日差しは二人に平等に降り注ぐ。
「あんたもそういうこと言うのね」
「冗談だよ。しかしあたくしも楽はしたいものだから、今日は運がなかったということで」
「ケチ」
入間は不服を訴えた。そんな二人に遠くから注意があった。
「おい、集中しろよ」
そう低い声を唸らせたのは塙という引率の教師だった。三年の学年主任を担っており、吹奏楽部の顧問でもある。その人となりは厳格というのが全校生徒の共通認識である人物。
「そうか、今日の引率は塙先生もいるんだったわね」
「ああ、各学年を仕切る形で三人が来られているようだ」
大迫も来ていたが、今回は一年を担当する為に遠くで指示を出していた。
「私達の引率は……笹井先生か。よかった、優しい人で」
入間が折り畳んだプリントを広げて確認する。浅間ら二年を率いるのは穏やかさに定評のある笹井という四十代の女教師だった。とはいえ完全に生徒と教師という学校の人間のみでなく、公民館の職員や募った地域からの一般参加もあるので、厳密に三箇所に固まってのゴミ拾いにはならない。ある程度のまとまりはありつつも、ばらばらに辺りを綺麗にしていけば良いのだ。それでこそ浅間も参加に踏み切ったのだった。
タンタカタン。出囃子。
二人は道に落ちた空き缶や煙草、レシートや袋類、コンビニ弁当の容器まであらゆる物を黙々と拾っていた。それに属さないよく分からない塵芥も多くある。
「こう見ると意外とゴミが落ちてるものね」
「言ったろう、外に出てゆっくり歩けば様々な発見がある。こうした小さなゴミだって視界に入るものさ。流石に全てを拾うことは出来ずとも、気になったものは持参したゴミ袋に入れたりする。そんな日常の風景も、行き帰りを素早い自転車通学のみにしてしまえば見落としてしまうのだ」
浅間のマメな発言に入間が感心した様子を見せる。
「あんたそんなことしてんのね。偉いじゃない」
「別になんてことない。割れ窓理論的に、綺麗を保てるのなら保っていたいだけさ」
清掃活動が始まり二十分が経過した。各自水分補給や休憩を適宜取りながら約一時間のゴミ拾いが設定されているので、まだ半分も経っていないが、ちらほらと違う色のジャージが増えて来た。浅間ら二年は濃紺、一年は深紅、三年は織部。その暗い緑色がいくつか目に入ったのだ。どうやら浅間と入間の二人は二年と三年の境目付近に来ていたらしかった。そこで聞こえてきた声があった。
「ね〜、先生がやってよ〜」
「お前なあ、こういう日くらいは真面目にやったらどうだ」
「肩揉みしてあげるから、ねっ? 面倒臭いんだもん〜」
「ほら、空き缶拾ってやったぞ。一つだけな。後は一生懸命やりなさい」
「疲れたからジュース買ってー」
「お前もか」
緊張感のない、和気藹々とした会話だった。その声の先には塙先生と数人の女子生徒が居た。
「あら、意外と好かれてるのね」と入間。
「そうだねえ。我々二年に届くのは厳しいという噂ばかりでしたが、人望はあるのでしょうな」
良い印象や評価なんてものはわざわざ風の噂にはならない。負の情報だけが光の速さで広まっていくのだ。
「あんな風に笑うのは知らなかったわ」
「あはは。まああそこに行ってもあたくしは部外者ですし、ゴミ拾いを続けながら大人達に声を掛けるとしましょう。そろそろゴミも溜まってきて、最低限のラインは超えた筈だ。ここからが平怠亭一期のお悩み相談出張版ですよ〜」
そうは言ってもすでに何人かに声を掛けていたが、相談には至っていない。ゴミ拾いのボランティアに参加しただけなのに、不真面目に悩み相談を聞きにくる一介の生徒に耳を傾ける人間は少ないのだ。
「ん? でもなんか、あそこの先輩達、女子が多くないかしら」
そう言われた浅間が顔を上げる。
「やっぱり、多いわ。今日は各学年十人が来てるって話だけど、男子の先輩は一人も見当たらないわよ」
入間の勘繰りを浅間は気にせず流す。
「奥の方でやっているんだろう」
「でもあそこに居るの、ひいふう、七人。いや離れたとこに一人、全部で八人居るわ。男子はたった二人しか居ないことになる」
「へえ。まああたくし達も人柄や普段の生活態度で選ばれたみたいなお話は笹井先生がしていましたし、三年生はたまたま先生のお眼鏡に適ったのが女性多めだっただけじゃないかい」
浅間の淡々とした意見に口を噤む入間。
「そうね……男子は少しやり辛そうで可哀想にも思えるけど」
二人はゴミ拾いを再開した。
さらに十分ほどが経ったというところ。入間はまたしてもふと、あるものが目についた。それは先程の女子七人の輪から離れ、遠くに居た一人と話している様子の塙だった。七人の女子生徒はだらだらとゴミ拾いをしたり、話したりと、各々が緩く活動に取り組んでいる。
突然、塙と話していた女子生徒が頭を下げて早歩きでこちらへ来る。その様子に入間は慌てた。
「え、なになに」
その女子生徒は十数メートル離れた距離をすぐに詰め、入間へ話しかけた。
「今、ちょっといいかなっ」
「へ?」
「逃げてきた?」
浅間は訊いた。
「う、うん」
その女子生徒からは葛藤が垣間見えた。この場にいることに落ち着きというものが無い。やはり持ち場に戻るべきか、そんな脳内が常に第三者に露呈しているかのようだった。
「そうらしいの。それであんたと話がしたいって」
入間が最後の説明を終えると、浅間も話を聞く体勢を整える。
「なるほど、お名前は」
「あ、ごめんね。茉子、相沢茉子」
相沢は浅間へ名を明かし、上目遣いで見る。
「相沢先輩。どうしてあたくしを?」
なんとか声を振り絞って話す相沢。
「えっと……あたし、いつも下を向いてることが多くて。今日も下を向きながらゴミ拾いしてたから気づかなかったんだけど、さっき塙先生に声かけられて顔を上げて話してたらあなたが目に入ったの。あなたが今日参加してるなんて知らなかった。それで話を切り上げて、助けてほしくて声を掛けた」
それは物騒な物言いだった。
「ほう」
「そのちゃんちゃんこ、購買の前で悩み相談? してる人よね。あたしはあんまり教室から出たりしないけど、なんか大声で紙配ってるの見たことはあるし。それで話してみようって今急に思い立ったの。えっと、平……」
「平怠亭一期」
「そう、それ」
「それはそれは光栄です。助けてほしい、なんて穏やかじゃありませんが」
浅間は率直に述べる。
「そ、そうだね。あたしも緊急事態じゃなければしなかったかも」
相沢は左見右見して慎重に語り出す。
「良かった、先生は他の子としゃべってるみたい。取り敢えずこっちを見られてはない」
その臆病な有様は異常だった。明らかに片手間で相手の出来る話ではなかった。人の悩みを大小で考えたことのない浅間でも、相沢の話が普段とは異なる種類のものだということは疑いようがなかった。
「念の為ゴミを拾いながら話しましょうか」
棒立ちで話すべきではないことではないと判断した。
「塙先生と何かおありで?」
作業を再開した浅間がいざ切り込む。
「うん……」
「その前に一ついいですか。今日、三年生が女子多めなのも関係しています?」
入間は先程の疑問をぶつけてみた。それは思ったらより単純な理由だった。
「あ、それは、今日ここにいるのが全員吹奏楽部だから」
「先生方、というより引率の先生の一存でメンバーは決められたようですな」
「そういうことね」
納得する入間。
「まあでも、それも関係はしている……かな」
「というと?」
やっと本題、そんな真剣さを増した表情の相沢が言った。
「言いにくいけど、二人は塙先生のことどう思ってる?」
二人は顔を見合わせる。
「そりゃあ厳しくて、あんまり笑わない先生? でも今日吹部の先輩方と楽しく話してるのを見て少し印象変わりましたけど」
「浅間くんは?」
「あたくしも概ね同じです。なんです、先生が世界征服でも企んでるんですか。殺人に関与している?」
定石の話し方で、アイスブレイクを図る浅間。強張ったままの相沢をリラックスさせる気遣いでもあった。
「こいつは毎回飛躍した話し方するんです」
「備えあれば憂いなしですよ。広義であたくしは敷衍しているわけです」
相沢は笑う事なく、やはり俯いた。
「そっか。あながち、間違ってないかも」
「え?」
「……なんかさ、暴力とかセクハラとか聞いたことない?」
入間はそのあまりの言葉に愕然とした。この青空の下で、気温が感じられなくなる程に異質な単語だった。
「まさか」
「そのまさか。過去に一回体罰がばれて処分されたこともあるんだって」
暴露に勇気を込める相沢。きな臭い気配は的中してしまった。浅間は事の深刻さを見誤りはしない。
「そういう問題ですか」
浅間は尚も訊く。
「相沢さんもその被害に遭われたと」
頷く相沢。
「信じられない……」
初めて耳にする事態に入間は驚きを口にする。自分の高校の教職がそんなことに手を染めているなんて思ってもみなかった。身近にそんな害意が存在することを嫌悪した。
「塙先生はね、女子には甘いんだ。それも仲良い子とか可愛い子だけだけど。男子にはうんと厳しくて、ビンタとか平気でしちゃう」
相沢は恐怖と戦いながら一つ一つゆっくりと話を続けていく。
「前の学校で野球部の顧問をしてた時は叩いたり蹴ったりは普通で、荒れた天候やひどい熱とか体調不良でも問答無用で練習させてたみたい」
入間は理解し難い内容に拒絶を示す。
「最低……そんなの簡単にニュースになりますね」
「そう。だから今の学校では大人しくしてる。他の先生達も更生したって思ってるんだと思う。中には事情を知らない若い先生だっているのかもしれないけど」
相沢の顔を窺った浅間が言った。
「でも、被害者が後を絶たないみたいですね」
浅間の予測は当たり、相沢の一層暗い表情を引き出した。
「そういうことになる、かな」
「そうか、相沢先輩も……それで」
吐き気のする中で、入間は相沢を憐れんだ。
「きっと、失敗を踏まえて静かで口の固そうな子に狙いを定めたの。それでストレスを発散してる」
相沢はくしゃくしゃになり多くの人に踏まれたであろうレシートのゴミを拾い上げた。
「あたしは部でも隅に居る方で。別に部の皆とは仲良いけど、先生とかにガツガツいけるような性格じゃない。だから塙先生とも程々の距離感で付き合ってたつもりだったんだ」
浅間と入間は静聴に努めている。
「でも二年に上がって、一年が入ってきてから変わった」
「ふむ」
「一年にね、中学の吹奏楽コンクール金賞常連校だった子が何人か入ってきたの。もちろん練習も多少はハードになった。ミスをしたらうんと目立つの。こういうとき明るくて先生とも親しい子ならなんてことないんだろうけど、あたしみたいなのが失敗すると申し訳なさで潰れちゃいそうになるの。周りが優しい子達でも関係ない、恐怖で体が固まっちゃう。だからあたしは周りのレベルに付いていく為に必死で、居残りで自主練をするようになった。殆ど毎日」
浅間はそれを聞きながら頭を動かし続けていた。
「そうし始めた二週間後くらいに先生が音楽室に入ってきたの。その時あたしは自主練に残った最後の一人で、皆もう薄暗くなる前には帰ってた。『早く帰れよー』って催促をしに来た。それ自体は別におかしいことじゃない。けどその日、塙先生はあたしにすごく近づいてきた」
敷童高校の音楽室は防音ではなく、鍵だってドアに備わっている簡素なものだけ。練習の音はいつも校舎に響き渡っている。浅間はそんな放課後の学校を脳裏に出力した。
「それでたくさん話してきたの。あたしの練習に付き合うって名目で色々指導されたりした。塙先生は吹奏楽の経験がなく形式的に顧問をやっているだけなのに」
経験者が足りない為に、専門的な指導に関しては外部講師を呼んでいる。吹奏楽部というメジャーなものに対し、担当する教師がいないというのも珍しい。音楽の授業だってこの学校では別の非常勤講師が務めていた。
「練習が儘ならなくなってきたあたしは帰り支度を始めた。そしたら先生があたしの背中にぴったりとくっつくように立ったの。驚いたあたしが振り返ろうとすると両腕を掴まれてそれを阻止された。凄い力。あたしは固まって動けなくなった。先生は息をあたしの頸に吹きかけながら言ったの。『せっかく上手なんだから自信を持て』って。そして『練習してばっかりだと疲れるだろ』とあたしのスカートを撫でてお尻を触ってきた」
入間は絶句していた。出来ることなら話の続きを聞かず、耳を塞いでいたかった。
「触られてる間は声が出なかった。息を荒くした先生がまたあたしの両腕を掴んでくるりと回すと、次は顔を近づけてきたの。手はすでにあたしの胸を揉んだままに。あたしは咄嗟に先生を突き放した。目一杯の力を出したけど、突き飛ばせはしなかった。急いで帰った。涙が出た。先生は追ってはこなかった。体が震えてふらふらのまま自転車を漕いだのを覚えてる」
恐ろしい記憶に蓋をせず他人へ話す。それが出来たのはこのボランティア活動における奇跡だった。もちろんその記憶に蓋が出来たのかと言われればそうではない。常に相沢に付き纏う不安は尋常ではなかった。
「それからも自主練は続けたけど、一人にならないように心がけた。必ず誰かについていく形で下校した。それを徹底しないと、今度は何をされるか分からなかったから。怖くて人に言えなかった。先生と仲が良い女子が殆どだったし。以降も先生は事あるごとにあたしを見てきた。下心を隠そうともしないで、通りすがりに肩が当たったり、練習で肩を触られたり。腰に触れられたことだってある。一度、堂々と皆の前で呼ばれて、小声で『もっと色々してくれるんなら、先生なんでもサポートするぞ』って言われたこともある」
「気持ち悪い……」
入間の手は止まっていた。こんな話を聞いてゴミ拾いなぞ出来ない。
「それから今までずっとそんな調子が続いてるの。さっきだってそういう感じの話をされた。いつか、もっとひどい事をされるかもって、そういうことに踏み出すかもって思うと怖くて仕方がないの」
その経緯には浅間でさえ同情した。
「多分、今まで他にも被害に遭った子はいるんじゃないかな。手慣れてる気がするから」
塙がこの学校に来てから何年経ったのかは知らなかったが、もし相沢の懸念が本当なら巧妙な手口で生徒を操り縛り付けていた可能性がある。話がひと段落したところで頭を整理した。
「体罰にセクハラ、ですかあ」
浅間は火ばさみを扇子代わりに振る。
「体罰だけならまだ介入し辛いものがありましたが、性的な暴力となると話は別ですな」
浅間の、体罰を容認するかのような言い振りに入間が声を上げた。
「正気? 見損なうんだけど」
「いえいえ、程度の差が問題を複雑化させているのですから難しいのです。スパルタ教育を受けてきた人の中にはそれがあったからこそ今の自分があると明言したり、そういう教育がなければ脆弱な人間になるだけと信じる人もいます」
浅間は深刻に続ける。
「今も昔も、過度なもののせいで心を壊してしまったり、自死に追い込まれたりした人はいます。そういうケースに関しては確かに悪と言えるでしょう。しかし現代で過度に規制されたそれは生徒と教師の立場をそのままに力関係を逆転させ、挙げ句の果てにはモンスターペアレントを生む。さすればほんの少しの身体接触の伴う指導により失職したり、さらにはやはり自死を選ぶ教師さえ出てくる。要は線引きの非常に難しい案件なのですよ、体罰というものは」
浅間の持論に退かぬ入間。
「それは洗脳よっ。暴力を受けて成長したつもりになっている大人は、自分が大切なものを守る為につけられていた基本的な感覚が麻痺してることに気づいていないだけよっ」
「それを証明する方法はない。幼少時ならまだしも、中高ほど大きくなった後で且つ体罰を体罰として認識していない場合や正当性を見出している人間に、その悪影響を証明する方法は存在しないんだ。そもそも母数が計れないのだからね」
浅間と入間がそう言い合っていると、相沢の異変に気がついた。
「あ、あ……」
背後から伸びた影により暗くなる地面。浅間は後ろに立った人物へ振り返りきる前にその名を呼びかけた。
「これはこれは塙先生」
塙は三人で談笑する光景を見てやってきたらしかった。
「お前らおしゃべりばっかしてないでちゃんと拾えよ? それなりにやってはいるようだが、あっちの三年は袋パンパンだぞ」
浅間は横目で相沢を確認する。口が半開き、体が小刻みに震えている。了承を得るだけの猶予はなかった。独断専行はやむを得なかった。
「……随分と短絡的なことをしましたね」
浅間の言葉は相沢に冷や汗を吹き出させた。入間とて張り詰めた空気を察知し、言葉を失う。塙は生意気にこちらを見つめる浅間に冷たい視線を返した。浅間は睨んではいない。ただ、塙へ臆してもいなかった。
「なんだ?」
「ある方から告発を受けましてね。それは先生に関する事だ」
塙は笑った。まるで堅苦しい言い方を馬鹿にするように。
「おいおい先生のへそくりでもばれたか?」
「そんな可愛らしいものなら良いですがね。犯罪なのだから笑えない」
塙の顔から表情が消える。
「暴力教師やセクハラ教師は時代錯誤ですよね」
直接対決に腹を決めたようだった。入間は相沢の側に寄る。無意識のうちに浅間のノイズを極力減らすべきと考えた。塙から相沢を遠退け、安全を確保した上で、三対一の構図を作り上げる。心理的にも浅間には多少の余裕が生まれ、弁舌に集中出来る。
「体罰の是非については明言は避けます。それは時代背景・受け取り方・程度によって如何様にも変化しうるからです。けれどセクハラは論外だ。不意、または合意のない、または拒絶の上の強制的な性暴力。それは断じられるべき事柄でしょう。到底許されるべきでない」
その生徒から教師へ送られる強い言葉の羅列は異様だった。塙はまたしても濁すように笑みを浮かべる。
「相沢ァ、後輩に何吹き込んだんだあ? 全くいたずら好きは困るなあ」
浅間は笑なかった。
「あたくしも鼻が効く方でしてね。何人もの相談に乗って腹を割って話していると、自然と演技や嘘の大概は分かるようになるんですよ。まあ、今回の相談者様のは誰が見ても分かる程に確かなものですが」
塙は浅間よりも頭一つ分は背丈があった。それは大迫と似たようなものであったが、大迫よりも体重があり、恰幅が良かった。
「はっ。浅間、校内でお前がやってる悩み相談てーのを知らない教師はいないが、あんまりおふざけが過ぎると俺も見過ごせなくなるぞ?」
両手に軍手だけ。にも拘らず火ばさみが心細いのは、体格と年齢の持つ差があまりにも大きいからだ。傍から見れば力の差は歴然である。
「脅しは通用しませんよ。これだけ人の目がある場所だ、腕ずくというわけにもいかないでしょう。逃げ去ればそれは肯定を意味し、そうだなくても目の前にいる三人には口封じが必要な状況だ。それを避けるには正面から無実を証明するべきです。塙先生、あなたの口から」
「なんだと?」
「出来るものなら、ですが」
挑発的な物言いを続ける浅間。
「いい加減に」
「あなたはセクハラをしてしまった。うちの学校にそういう方がいたのは残念でなりません」
塙は大きく溜め息を吐いた。
「はあ……。高校生が警察ごっこか? 探偵ごっこか? 先生を侮辱して何が楽しいんだ、なあ相沢、ええ!?」
男は教師の仮面を脱いだように、いや、初めからそんなもの無かったように様相を変えた。
「ちっ。これだから……浅間ァ、お前は悩み相談が好きだといってあんな馬鹿みたいなことをしてるらしいな。うんちく並べて人を丸め込んで楽しいか? 進路が詐欺師ならもう勉強の必要は無いな、すでに実績があるんだから。毎日さぞ自分の自信に繋がってることだろう、なあ?」
入間は戦慄する。失うものを考えず、一時の感情で怒気を剥き出しにする大人の醜さに肌で触れて軽蔑した。相沢の話を聞いただけでもその横暴に憮然としていたが、眼前の光景はまるで悪夢だった。
「あたくしの自己満足であることは否定しませんが、人様の役に立ちたいと思う気持ちは本物です。相談者様はあたくしを頼ってくれた。なら悩みの種であるものに立ち向かい排除する為に全力を尽くすのは当然のこと。しっかりと罪を認め、償ってくれればいいのです。それと、金輪際加害した人には近づかず、また二度と同じ過ちを繰り返さぬと誓えばいいのです」
鼻で笑う塙。
「お前は人の一生を棒に振るだけの資格があるのか、度胸があるのか。道徳を説いてるんだろ? なら人を助けると思って口を閉じてろ。そうすりゃ俺だって悪いようにはしない」
浅間は眉を顰めた。浅間がここまでの顔をするのは例外的だ。
「あなたの一言が、一つの挙動が生徒を殺してきたとは思わないのですか」
敢えて生徒の心、という表現はしなかった。
「は?」
「体罰にしろセクハラにしろ、あなたの中の基準で測られては困ります。あなたの中の一般的な相手が耐えられるようなことでも、現実には耐えられず深い傷を負ったり、そのままこの世界から姿を消してしまったりする。そんな被害者をたくさん生んできたことによる罪悪感は?」
「相変わらず話の組み立てが雑だな。それはお前が決めることじゃないだろ。相談者とやらの被害妄想の可能性だってあるし、早とちりってもんもある」
「どういうことでしょう」
塙は強く舌打ちをする。
「だからまだ未遂のやつにそれを言われても説得力無えっつってんだよ! 何が性暴力だ、揉んだくらいでヒーヒー言うような奴はろくにセックスも知らねえガキだけだよ。動物的な快楽に溺れてみろ、すぐに考えは変わる」
「……下衆」
入間が溢す。塙は瞳を滑らせ声の主を見てから再度浅間を睨む。浅間は静かに言った。
「自分本位の決めつけですね。狭量の悪いところだ」
「あ?」
「ある数字に魅入られる。この数字には力がある、この数字の並びには意味がある、とかね。いくつかの実例を出してその確かさや効力を吹聴する。本人は色々なものの中からそれを見つけたつもりらしく、実際そうなのだとしても、感じ方としては一分の一であり二分の二なのです。だから誇大に受け取ってしまうし、その影響の大きさを感じてしまう。真理に近づいたと錯覚する。結果的に、あれもこれもこの数字で構築されている! こういった背景がある! だからこうなのだ! と盲信することが増えるのです。因果を結びつけて持論を強力にし、己の法に変化させる。けれども実際は、偶々その人が発見したものだけを覚えてしまっているから。そこに忘れたものは含まれず、母数として換算されていない」
「俺が経験論だけで頭の働かせない馬鹿だって言いてえのか」
「そうですね。ビスマルクには同意します」
「はっ。お前は悩んだ愚図に対してそいつを安心させる為だけに甘い言葉を掛けてる。俺は聞いたことだってあるんだぞ、自分のやりたいようにやるのが一番だって風に話して信頼を勝ち取ってるお前を。俺を犯罪者のように扱いやがって。罪を償えだと? 笑わせるな」
塙は完全に鶏冠に来ていた。尚もその唾を飛ばし続ける。
「法律を説いておきながら、自分のしたいことに従うべきだと? お前は餓死寸前の子供がお前から財布やケータイを抜き取っても何も言わねえのか。自己の優先を推奨するならそういうことになる」
「叱る事はありません。返してはもらいますが」
「おかしな話だな」
「何もおかしくはありませんよ。矛盾こそが人間です、二枚舌こそが人間です。否定はしないが自己主張は自由だ。ただあなたは、一線を超えた、それだけです」
本心をただ音にした。浅間の言う“一線”が最大の判断基準だった。審判を下すほど傲慢さではない、しかし浅間は主張をやめもしない。
「んだと。じゃあ俺は、実は虐待されて育ったから教え子にもつい手が出ちまうんだよ、俺の場合は愛情だがな。んでもって病気のせいで性欲が瞬間的に高まるのを何とか抑えて生きてんだよ、偉いだろ? 辛い過去や境遇を乗り越えて教師やってんだ、やりたいことを優先してな。お前はそんな何かを背負ってるのか? 背負ってる人間の気持ちが分かるのか?」
塙の並べ立てるそれがまるきり出鱈目であることは容易に想像がついたが、入間と相沢は浅間の背中をただ信じた。浅間は即座に言葉を返した。
「確かにあたくしにはドラマチックで重たくて苦しいような過去はありません。世界を変えるような信念も、人の為に尽くすような情念も、誰かを見返すような執念も、何一つありません。けれど、相談に対しては真摯に向き合います。そしてどんな背景があろうと倫理に反すること、それをしておきながら架空の免罪符を捲し立てるような不誠実な相手には、あたくしの意図を伝えるだけ伝えるのみです。それ以降は当然あたくしの範疇じゃない。ここで解決出来なければ力の及ぶことじゃあありません」
そう言い切ってから一度後ろの二人を確認した。相沢の肩をしっかりと掴む入間を見て表情を綻ばせる。
「……けっ、能弁家もどきが。所詮ガキの戯言だろう、まるで金言のように扱って。若造のくせして子供騙しのお話がそんなに楽しいか」
浅間は捻った体を再び戻す。
「あたくしは人より考えたり知ったりすることが好きなだけです」
「哲学者ぶるな。お前はそんなに大層なもんじゃない」
「哲学者なんて高貴な暇人ですよ」
「黙れ。お前は言いくるめてるに過ぎねえ」
「仰る通り、あたくしは無責任なんです」
「てめえっ」
塙が僅かに声を荒げかけた時、浅間の体から力が抜けた。脱力は終演を告げる。
「……よし。あたくしの遠回りは時間を稼げたようだ。あなたの憤りに拍車を掛けてね」
必要以上の長話は功を奏したのだ。
「お話、少しだけですが耳に入りましたよ、塙先生」
視野の狭くなっていた塙の後ろに居たのは引率の笹井だった。
「なっ……」
「笹井先生っ」
入間の声に続いて笹井は指示を出す。
「入間さん、大迫先生を呼んできてくれますか」
「は、はいっ」
ただならぬ空気に駆けつけたのは笹井だけではない。少し離れたところからではあるが、大人達の視線が集まっていた。言質が取れた大人は笹井一人でも、それで充分だった。
塙は大迫と公民館職員に見張られ、警察の到着を待った。そして赤いランプが近づくと、塙は浅間へ言った。
「無責任か、確かにな。お前は俺の人生がどうなろうとどうでもいいんだ。俺が自殺しても知らんぷりなんだろう」
「それは違います。あたくしはこれ以上、被害を増やしたくなかっただけです。あたくしの知ってしまった問題の膨張を止めたかっただけです」
事情聴取の為、相沢がパトカーに乗り込む。引率の笹井も一緒だ。
「浅間くん、ありがとう。入間さんも」
その言葉を最後に相沢は控えめに手を振った。浅間と入間もそれを微笑みながら返した。
「詳しい話は署で」
警察官によって手錠を掛けられた塙も別のパトカーへ促される。ドアが閉まる直前、塙は言った。
「そんな合理的に考えんのは、お前に人情があるように見えて実のところは機械じみてるからじゃないのか」
ばたんと大きな音を立てて閉まる。浅間は僅かに沈黙した。そして車が出る直前、窓を叩いた。警察官は渋々開け、塙への声掛けを許した。
「あなたのような人にこそ解脱してほしい」
塙は浅間の目を見ることなく、俯いたまま連行されていった。
浅間は学校近くまで帰る方向が同じ入間と歩いていた。まさかこんな一日になるなんて思ってもみなかった。
「相沢先輩、これから学校を少しでも気楽に過ごせるといいのだけど」
トラウマのように負の感情が景色や場所と結びついているケースも考えられた為に、入間は憂慮した。しかし浅間はあっけらかんと言い放つ。
「大丈夫だろう。自主練に遅くまで残っていた部の人間もいるし、メンタルケアは相沢さんの友人らがやってくれるさ。音楽室は何も辛い思い出だけじゃない。もちろん嫌なことの占める割合というのは実際の数より大きくなってしまうものだけども、脅威が無くなったことの安穏の方が影響としては大きい筈さ」
「ふーん……今回は上手くまとまったからいいけど、内容が内容なんだからその緩んだ顔やめなさいよ。いくら悩み相談が出来たからって不謹慎というか」
顔の筋肉の緊張した時間が長かったからか、その反動も大きかった。浅間の気の抜けた顔はある意味では勲章とも言えた。
「これは失礼」
「はあ。やっぱり言語化が気持ちいいんでしょ」
懲りない様子の浅間に言う。
「まあ否定は致しません。自身の言葉をあらゆる考えを使って修飾するのが好きなんです」
浅間と長い付き合いだが、未だにその全容は理解しかねる入間だった。
「でもどうしてそんなに時間を使うのが好きなのかしら。自分の為とは言ってるけど人の為にもなっているし、そもそもずっとそんなことをしているのは疲れそう。けど、スケジュールは埋まってるようでも生活自体は割とゆっくりしてるっていうか、そこらへんは自由よね。何かモットーにしていることとかあるの? 浅間大亮の真髄、みたいな」
「浅間大亮?」
面倒な質問をしてしまったと入間は反省した。
「あ、はい、平怠亭一期さんの」
「特には」
その男には確固たるものがあった。それは頑張りすぎないことであり、この現代日本において最重要項目とさえ思っていた。そんな頑張りすぎる人種の何か手助けになればいい。そのついでに様々な言葉で、様々な考えを共有・交換し、人の面白さを訴え、可能性を追求する。その為にはまず面と向かって話さなければならない。言葉を交わすのだ。話すことで見えてくる景色というものに全幅の信頼を置いている。会話こそが人を知る方法であり、人に伝える方法である。いつだって平怠亭一期は万人と話がしたいのだ。四六時中、時間を分かち合いたい。
「まあ……人生は余暇ですから」
浅間はそう言って入間と分かれた。今は六月、まだ夏休みにはもう少し時間があった。