相談者 塩見裕哉
右足、左足。それが交互に一直線上を辿る。背筋は伸び、肩は落ち、首周りに余計な力みが入っていない。高身長が映える歩き方は生来のものだ。白のブラウスにベージュのジャケット、タイトなジーンズがシックな印象を齎す。行き交う通行人の視線を集めるオーラ、自信の表れ。靡く黒髪は光の反射を克明に伝える。この日、入間は近くのショッピングセンターへ訪れていた。
プライベートの入間は顔の三分の一程もある大きなサングラスを着ける。どこぞのハリウッドセレブかと見紛う容姿はまさに友人らが付けた二つ名の通り。一介の女子高校生とは誰も思わなんだ。しかしこんな外見でも学生らしく移動手段は自転車なのだから可愛らしいものだ。
そんな入間が買い物を満喫していると、最も忌避している災害に見舞われた。私服の上に羽織られた、見慣れた臙脂を発見してしまったからだ。
「げ、浅間」
思わずサングラスをずらし、見間違いでないかを確かめる。開けた場所である為に相手にもすぐに見つかってしまった。
「おや、入間くんじゃないか」
「なんであんたがこんなとこにいんのよ。随分珍しいじゃない」
しかもちゃんちゃんこを着ている以上、こんなところでも機会さえ恵まれれば悩み相談をする気があるのだと分かる。
「必要な物を買いにね」
「必要な物?」
「明日、ボランティアがあるだろう。それで軍手が要るとのことだったのでね。ビニール袋はあちらで用意されてるらしいから、ついでにタオルやらも買おうと思ったんだよ」
入間は参加を決めた浅間を一瞬見直したが、どうせ日曜も学生服の上に臙脂を纏うのだろうと思い、その魂胆を理解した。
「何、あんたの家軍手もないわけ」
「隈なく探せば見つかるかもだが、せっかくだし外の空気を吸って新品でも仕入れようかと」
「ふーん」
ふと入間は浅間の登校風景を思い出す。
「あんた私と違って徒歩で登校してるわよね。自転車持ってたの?」
浅間は首を振った。
「いいえ」
入間はその返答に目を丸くする。ここまで学校からは二十分以上はあった。浅間の家からを含めると学校のその向こう側に位置していたので三十分以上は掛かるのだ。
「こんなとこまでよく歩きで来るわね」
浅間は常識のように入間へ放つ。
「何を言うんだ。外はネタの宝庫だ。速く目的地に着こうと、景色を後ろに飛ばして機会を蔑ろにするのは勿体無すぎるよ」
「ああそう」
これ以上詮索すると休日の貴重な時間に影響を及ぼすと悟った入間は早々に切り上げるべく雑な態度に移行した。
「じゃ。私はまだ途中だから」
そう言って浅間を通り過ぎようとするとそれを引き止める声が掛かった。
「そうだ入間くん。この前の水曜の相談終わりに言っていた君の部屋だけど、見せてくれるかい?」
唐突な浅間の提案。
「はあ? 嫌だけど」
「まあまあそう言わずに」
言いながら歩き始める浅間。その行動は有無を言わさずに自分の家へ向かっていると気づいた入間は進行方向に沿うように並走をする。
「いやいや本気?」
流石に急なことで狼狽える。何故部屋を見せなければならないのか、興味を持ったのかが微塵も分からない。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず、ですよ」
浅間は施設の出口だけを見つめて言う。
「意味分かんない、それ合ってるの?」
「身近な人間の考えをより深く理解するのは、今後の悩み相談にも活きると思うのです」
「……はあ、まじか」
結局全て、この男は悩み相談の為に行動している。一度歩き始めた浅間を止めるのは容易ではないと、入間修子は知っていた。
タンタカタン。出囃子。
まだ空が仄暗く、その青さを差し色に留めている頃合い。鵯が閑静な街並みに断続的な彩りを与えている。朝の活動に間に合わせる為、浅間は六時前には起床し家を出る準備を始めるのだ。点在する老人にささやかな挨拶を交わし、時間の緩やかな中で辺りを観察しながら登校する。精神を整える大切な習慣。
やがて学校に着いた浅間がのんびり歩いて拠点を目指していると、そこには先客が居た。
「おや?」
それは一年の折に同じクラスだった塩見裕哉だった。
「ん、おお。浅間」
「塩見さん」
塩見は悩み相談部相談者側の椅子に座ってスマートフォンを触っていたのだ。そうして時間を潰していた。
「たまたま早く起きれたから来てみたけど、浅間ってほんとに早起きなんだな」
初めての場面に驚きはしたものの、その言い草から同級生が悩み相談部へ客として訪れたのは明白だった。わざわざ早朝に学校へ到着して自分を待つなどそれ以外に考えられない。目安箱の確認やチラシの確認より先に、目の前の相談者を優先する。それが浅間のマナーである。
「ええ、これが楽しみで来てますから」
浅間が拠点を眺めると塩見も同じくその門構えを見回した。
「して、あたくしの推測通り、この悩み相談部のお客さんということでよろしかったですかな?」
試すように聞く浅間。その期待を上回る勢いで塩見は言った。
「ああ、由々しき事態なんだ……!」
その剣幕に見合う話が出来るならと、浅間は心の底で満面の笑みを浮かべた。
登校して早々の僥倖。鞄を置き、塩見と対面し、腰を据える。こちらからアクションを起こさずとも同級生の男子が、それも早朝から待ち伏せをするなどどんな非常事態・はたまた思い詰めた悩みなのか、浅間は心躍らせていた。
「では始めましょうか。お悩みというのは?」
塩見は年頃の恥と戦っている様子だった。
「大きい声では言えない悩みというか……」
浅間は顎に指を当てる。
「というと?」
観念した塩見は再度周囲を確認し、意を決して口を開いた。
「た、体調が悪いって嘘をついた時ってさ、罪悪感がすげえんだよ。それをどうにかしたくて」
規模の小さい話が展開された。
「つまりずる休み?」
浅間は無頓着に言う。
「おう。学校をサボって一人で部屋にいる時ってさ、最初はめちゃくちゃ気持ちいいんだ、当然。あれだけ疲れててベッドに吸着されていた背中が、羽が生えたみたいに軽くなる。ああ、俺はほんの一瞬の判断のおかげで今から自由になれるんだって」
能天気に欠席の愉悦を説明する塩見。しかし内容とは打って変わって神妙な面持ちだ。喉に魚の骨でも刺さっているよう。
「でもいざ休んでからの一日は、なんだか後ろめたさからなのか変な感じがするんだ。カーテンを開けて外の景色を見る。普段学校の窓から見てる青空となんら変わらない筈なのに、俺が卑しい手段で手に入れた空のような気がして綺麗に見えないというか」
思ったより深刻だな、浅間はそんな風に考え友人への認識を改める。
「ほほう」
「上手くいえないけどさ、俺が選んだサボりではあるんだけど、俺だけが置いていかれてるようで不安になるっつーか」
塩見自身、矛盾している被害者意識と自覚しているようだった。未成年として安易に己の怠惰に従順になることへ、何か直感的な恐れがあったのだ。それを整理出来ず、言語化出来ずに消化不良で学生生活を送り、再び同じことを繰り返す。出所の分からない自身の感情を警戒した。
「あなたはずる休みの常習犯でいらっしゃいますか?」
浅間が問いかける。
「あ、ああ。言いにくいけど」
塩見は自分の口で事情を話し、且つそれを認めることに慣れていなかった。事実であってもそれを口にすることなく胸の内だけに留めておくと、まだそれはどこか他人のものであるような感覚があったからだった。
「なになにずる休み?」
怪訝そうに言ったのは入間だった。朝の浅間を監視する為に彼女も他の生徒よりも比較的早く登校する。計算外だった女子の声にたじろぐ塩見。
「入間、お前もやっぱ早えのか」
浅間とセットで記憶されることの多い入間。塩見は特段驚かず、しかし不運を強調して体外へ放出した。
「塩見くん。まさか相談してるの」
入間の質問に答えようとするも、浅間がそれを制止する。
「いいですよ、今は相手しなくても。キーワードを聞いたんだ、その後の話で流れは分かるでじょう。それよりさあ、続けますね?」
「まあ、俺はいいけど……」
塩見が横の入間を窺うが、特に言葉を返さない彼女の様子にほっと一安心した。
「本来、塩見さんは余計なことを考えず、その特権を楽しめばいい。仰った通り、ご自身で選択したスケジュールの消去なわけですから。ですが引け目がある。ぽつんと、自分だけがずるをして苦しみから解放されたことに、その手軽さも相まって違和感を感じている」
「そういうことになるかな」
入間は腕を組んで長机に軽くもたれかかる。
「勝手ねえ」
同級生二人にする相談ではないことは重々承知の上だった。塩見はそれでも浅間ならと友人の一人として賭けてみた。
「家にはあなただけ?」
浅間はずる休みについて詳しく訊ねた。
「そうだよ、よくわかったな。共働きだから両親はいなくて俺一人になるのさ」
扇子を取り出し、持った右手の人差し指で親骨を二回叩く。
「それも大きな要因ですね。要するに、ご家族や同級生が毎日課される労働や義務に勤しんでいる間、自分は楽をして、楽をする選択をして得ている時間に背徳感がある。先の言い振りでも分かるように、世界から自分が隔絶されたようなある種の疎外感を感じている筈だ。環境音が聞こえている内はまだいい。人の声や気配が消えると、その数秒に世界から生命が消えたかのような孤独をみる」
「そう、そうそうっ」
塩見が共鳴する。
「確かにあなたのそれは迷惑をかける行動だ。同級生は君に後日教える為の余分な板書をするかもしれない、先生はカリキュラムに遅れが出ることに頭を悩ませるかもしれない。もしあなたの癖が治らなければ、大学では学費をドブに捨てるかもしれないし、仕事では誰かがあなたのせいで尻拭いをして余計に苦労を強いられるかもしれない。個人が優先したものが他人への迷惑として伝播していく。そしてそれを一丁前に予感して前借りした快楽を正面から受け止めきれなくなっている」
浅間の口は凶器であった。まざまざと正体を表していく怪物、その詳細を紡いでいくことに恐怖を覚えてしまうくらいに。塩見は自己を見つめ直す程度に相談をしたつもりだったが、この校舎内で丸裸にされるのを覚悟していたわけではなかった。止めはせずとも、それなりに当惑した。
「耳が痛いな……。そうだよな、自分で楽しようって選んだ癖にお門違いだよな。そういう、もしかしたらってのを考えたくなくて目を逸らしたつもりで、逸らしきれずにうじうじしてただけか……」
浅間は続ける。
「瞼を閉じたつもりでも、塩見さんの瞼は透明だったわけですな。人間意外とそういうものです」
「ほえ〜、なんかグサリとくるな」
「確かに、ずる休みの余波や弊害をしっかり考えた方がいいのは同感ね。高校二年なんて、進学か就職かはさておき、社会人になる為の準備が出来ていないといけないもの。そういうダラケ癖は一刻も早く抜かないと後になってからでは時間が掛かるわ」
塩見の中の入間はもう少し柔らかい印象だった。浅間に対してだけやや当たりが強いとは聞いたことがあったが、この早朝、徐々に登校する生徒が見え始めたとはいえ、少人数の空間で浅間への態度が影響するのも無理はなかったのだ。ずる休みという悩みの題目も関係していただろう。
「けれどね、そこまで思い詰めることでもないとも思うんです」
浅間の助言。
「え?」
「誰かに迷惑を掛けることが悪いことだとか、誰かに劣った人生を力不足と考えるのは少し宗教的すぎます。成果主義的な社会に迎合した陶酔とも言える。非の打ち所のない人生が正しいのか、より優れる為に身を削り続けたり、切磋琢磨のみが認められるのか。そういう凝り固まった思考は一本の道路になります。広く大きく、どんなものも通る。速度だって自由、並走だって自由で、レールとは違い融通が利く。けれど一本なのです、一方通行なのです。別のルートを行くことは叶わず、止まることも許されない。後が閊えるから。『ゆっくりでも、皆と一緒でも良いから、一緒に頑張ろう』、それが社会。違う方向や一時停止はあまり理解されない。ペースを乱す邪魔者、異分子と断定されることだってある」
塩見は広いアスファルトで横道を必死に探す自分を想像した。立ち止まり、渋滞をつくって、多くの見知らぬ視線に蜂の巣にされる想像をした。
「人には得手不得手があります。不得手を我慢し続けることを忍耐というなら、忍耐というものを正義とするには些か疑問が残る。挑戦することは悪いことではないですし、むしろ結果的に間違っていたとしても褒められることが多い。けれど挑戦をすることに悩み、その機会を削除することだって悪いとは思わないのです」
塩見は頭の許容量を超えてきた話に目を回す。
「どんどん話が解れてきたでしょう」
扇子を開いたり、閉じたりして呼吸させながら浅間は続ける。
「ずる休みを先延ばしでなく、自分の人生から学校に行く一日を消したと考えている塩見さんは責任感があるのですよ」
「サボりの俺に責任感?」
頷く浅間。
「冒頭で、自分だけが置いていかれているという旨の表現をしましたね」
同様に塩見も首を動かす。
「自分が居なくても回る世界に心配した。だから、休んで手に入れた一日の価値を惜しむ。ゆっくりおやつを食べてテレビを見る時間と、共に黒板を眺めて共に汗を流して共に語り合っている友人達の時間との釣り合いを考えてしまう。ないものねだりです。ごほん。睡眠時間は除くとして、覚醒している間は人はそれぞれの時間を過ごしているわけだ。そこに経験の差はあまりないのですよ。彼は彼女は、僕私よりも有意義な時間の使い方をしている、努力している、成功している。しかしその相手は君の一時間や一日を知らない。内容の全く違うものを比べるのは筋違いだ」
「なるほどな……『あいつが頑張ってる間にお前は何してるんだー』って怒られたりしたこともあるけど、そう一概には言えないってことか……」
「君が食べたおやつの味の感動が、将来務めるお菓子会社の発案の元になるかもしれない。読んだ漫画や観た映画に感化されてそういった作品の作り手を目指し、そしてそこで成功するかもしれない。もしかしたら君にとってその日の休みは肉体的に必要なもので、脳が健康を訴えるが如く、君に安らぎを与えるよう指令を出したのかもしれない。それは学校に行った友人らがその日その瞬間味わえなかったものであり、『差』はなく『別』のものなんだ」
「差じゃくて別か……」
塩見は肩が軽くなったように思えた。同い年の言葉一つでここまで自分に変化があるなんて。浅間に買い被りなんてものは存在しないと考えた。
「良い顔になったわね。今年度の皆勤は無理でも、まずは今日からでも無遅刻無欠席を目指したら?」
そういう入間に塩見は明朗に応えた。
「そうだなっ」
「正直、朝って自分のベッドから出たくないもんだし、親の催促がなければ永遠に寝ちゃう可能性だってあるから分からなくもないけど」
入間は塩見への共感を示した。学生を全うする身としては誰しも理解出来るものだからだ。
「自室ってなんであんなに居心地いいのかしら。好きなものを置いたりしてるし、そうすればするほど外へ出る足が重くなるって分かってる筈なのに」
人間って自分で自分の首を絞める行為が好きよね、入間はそう思った。さらに言えば絞める行為と理解しても止められないのが人間であると自戒した。
「入間くんの家は物が多いのかい?」
「割りかしね」
少し間を空けて、入間が言った。
「前と似たケースだったわね。ほら、三木くんのも、何だか本人が後ろめたいと思っていることをあんたが肯定する論説だったじゃない」
入間は転校生である後輩を頭に浮かべる。
「ああ、そんな流れだったね」
「なんだかんだあんたは相談する相手の背中を押すことが多いわよね。世間はこうだけどあなたはこれでいい、みたいな。進路はカウンセラーかしら」
「あはは。まあ、過度に自由を求め権利主張することは弱者のレッテルを貼られることにも繋がる諸刃の剣でもあるのだがね」
含みを持たせた浅間の言葉に入間は驚きつつ言及はしなかった。
時は戻り、現在。自宅を前にした入間。こんな羽目になるとは想定しなかった。二人は門前で並んでいる。
「さて」
浅間が一歩踏み出す前に入間が止めに入った。家へ向かっている時は面倒だなと思い、尚且つ浅間のくだらない話に付き合っていたおかげで部屋へ上げることのイメージが希薄なままだった。
「ち、ちょっと待って!」
入間の形相を見た浅間が訊ねる。
「見られたくないものでも?」
「うるさい!」
手付かずの部屋をそのまま見せるわけにはいかなかった。まだ誰も異性を入れたことがない。男子禁制であるのだ。
「三分待ってなさいっ」
急いで部屋の片付けをするべく入間は玄関を抜けて消え去った。勢いよく自室の扉を開け、部屋を掃除する。女性らしい白とピンクをベースに、少ない配色で目に優しい内装。しかしそれに反して“物”の数は多かった。
「入間くん、君は美化委員だろう」
「うっさいわね、仕事としてならいくらでも綺麗に出来るしするつもりだけどその分、家はごちゃっとしちゃうもんなのよ」
入間宅へ上がり、話しながら階段を上る二人。目当ての一室はすぐそこだった。
「五年目の付き合いになりますが、家に上がるのは初めてですね」
部屋のドアノブを捻る浅間。扉を押した先には小綺麗な空間が広がっていた。
「当たり前でしょ。てか中高を年数で言う人あんまりいないわよ」
言って、入間は浅間を通り越し、自分のベッドへ腰掛けた。最悪浅間が腰を下ろしたがろうとも、ベッドへ座らせるのには抵抗があった。勉強机が最低ラインだった。
「おやおや、綺麗じゃないか」
「言っとくけど引き出し開けたり物に触れたりするのはやめてよね」
入間は息を整えた。
「はいはい、心得ましたよ」
体を反転させて扉を閉める浅間。すると扉の内側の大きなポスターが視界いっぱいに飛び込んできた。
「あ」
漏れた入間の声虚しく、剥がし忘れのそれは晒された。
子犬のような現役中学生の男性アイドルだった。保護欲を駆り立てるような目でこちらを見ている。潤いのある髪に、開けたシャツは記憶から消えるには数週間では心許ない。
「こういう殿方がお好きなんですね。何かの参考資料になるだろうか」
「……ば、ばかあっ!」
入間の声が四隅に谺した。