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平怠亭一期の言いくるめ  作者: チビ大熊猫
おべんちゃら
3/6

相談者 梶田洸平


「休みの日に駆り出されるなんて、ついてないわね」

 溜め息混じりにそう漏らしたのは二年三組の入間修子だ。規則的に靴の音を鳴らしている。彼女が少しだけ不機嫌なのにはある理由があった。

 彼女は生徒会の美化委員会、その委員長でもあるのだった。今日は急遽、近日の生徒総会に向けて流れの把握や擦り合わせ・簡単なリハーサルをするということで招集命令が下った。そうして下駄箱から校舎の一番端にある生徒会室を目指していたのだ。

 愚痴の理由はそのまま休日を潰された苛立ちも充分にあったが、何よりは現在の天候が関係していた。この土日、外は豪雨であった。合羽を着て自転車を漕ぐ大変さは散々なもので、びしょ濡れのそれを畳んで前かごに入れる際に何度溜め息を吐いたか分からない。そして入間にはもう一つ最大の懸念があった。

 肌寒く感じる薄暗い校舎の中。眼球に映る静かな寒色の風景とは裏腹に耳を覆う強い雨足。コンクリートが微かに震えているかのような感覚に包まれながら階段を上がっていると、眩い光が校内を照らした。

「きゃっ!」

 瞬く閃光、劈く轟音。数秒後の雷鳴と振動は全身、そして胸の奥へ届き、恐ろしい脅威としてその存在を主張する。

「嫌……っ」

 入間が体を折り畳み、やはり数秒後に顔を上げると階段の上方、上階の曲がり角にいる男と目が合った。したり顔でこちらを見ている。

「な、浅間!?」

 雷に慄く様の一部始終を浅間はしっかりと捉えていたのだ。

「ち、ちょっと。その含みのあるカオやめなさいっ」

 浅間大亮にとって学校はなるだけ週七で訪れる場所である。土日も暇があればこうして悩み相談部として待ち構えるのだ。ある時は部活動生を、そしてある時は教員を標的にして。

「ちっ。さっき、あそこに居ないと思ったのよ……」

 入間は下駄箱から階段を経るルートで購買の横を通る際、横目で悩み相談部を確認していたのだった。その時拠点は展開されていたが浅間の姿はなかった。悩み相談部の拠点「かんわのきゅーだいてん」は、発足当時こそ一日三回、椅子や机・物干し竿を大急ぎで運んで毎度作り上げていたのだが、次第に浅間の評判が知れ渡り、この小さな社会で着実に市民権を得ていった結果、積極的に拠点を撤去する教師はいなくなった。大迫くらいのものだ。して、浅間は準備せずとも購買前の一角を実質的に占拠しているのだ。浅間がおらず拠点があることに慣れてしまっていた入間は猛省した。生徒会室に辿り着くまで、気を張って鋼鉄を演じるべきだった。

「どうして二階にいんのよ」

 入間は上から突如として現れた浅間に訊ねる。

「いやあ、一階の男子トイレが詰まってるようでね。お腹が痛かったので二階へ赴いたんだよ。この寒さで冷やしてしまったのかもしれない」

 浅間は呑気にも右手で腹を摩り、左手でくしゃくしゃの髪を掻いてからそう言った。そして階段の一段目に足をかけた。

「別に怖かったわけじゃないからっ。第一、もう克服してるし。近くに落ちた時の危険性とか、色々鑑みて反射的に身を屈めただけだから」

 入間が早口でそう言っている内に浅間は横を通り階下へ歩いていく。

「聞いてんの」

「入間くんはおしゃべりが嫌いなようなのであたくしは沈黙を貫きやす」

 すぐに浅間は仄暗い一階の廊下へ消えていった。

「くっ、むかつく……」

 浅間の姿が完全に消えてから入間は呟いた。それからまたしても刹那、外が昼間のように明るくなった。


 タンタカタン。出囃子。

 浅間は拠点で頬杖を突いていた。もう三十分もこうしている。そろそろ生徒会の集まりも終わるかもしれない頃合いだ。

「暇、ですねえ。雨の情報量のおかげで時間の流れが退屈すぎることはありませんが、いかんせん人通りが少ない。体育館と部室棟、後は屋外競技系が反対の校舎の(すみ)や空きスペースで屋内練習をしているくらいですが、わざわざそこで呼び込みをするのは迷惑でしょうし……」

 暇に頭を悩ませ、遠くから聞こえる生徒達の活動する雑多な音に耳を傾けていると、そこに突然男子生徒の叫び声と駆ける上履きの音が聞こえてきた。それは段々と近づいていき、下駄箱付近までくると一度止まり、その付近の窓から何かを見つけたように一直線に接近してきた。高い音を立てて疾走のブレーキをかけて浅間の眼前で止まったのは三木だった。

「いた! 一期師匠、ちょっと来てください!」

 浅間の呆然としていた顔がみるみる回復していく。浅間は息を荒げる三木の表情に、面白い標的の臭いを感じ取った。


「一体どうしたんですっ」

「け、喧嘩です! 仲裁に入ってほしいんです!」

「喧嘩とな。あたくしは腕っぷしには自信がありませんが」

「そういう目的で呼んでないですよっ」

「職員室を通り過ぎてあたくしの元へ来たのには何か理由が?」

「それはもちろん生徒同士の問題、生徒同士で解決出来るんならそれが一番良いっ。その適任者を知ってしまっていたからですよ!」

 三木は所属している卓球部の自主練に来ていた。浅間と話してから一週間後に入部し、汗を流すことに精を出していたのだ。今日も卓球場に物好きの先輩や同級生数人が居ると聞いたので、部活自体は休みだったが雨の中練習したさにやってきた。このアクティブさの一因が自分にあることを浅間は知らない。

 着替える為に部室棟を訪れた三木が目撃したのは、三人の生徒がぴりついた空気の中で睨み合っている光景だった。すると怒号の後、一人が殴りかかった。一対二の喧嘩の幕が上がったのだ。急いで場を収めなければ。しかし自分が割って入れるような相手ではない。そう感じた三木が考えたのはいち早く人を呼ぶことだった。そしてそれは教師ではなく浅間だった。実際教師の数は少なく数人で、しかも職員室に篭りきり、体育館に居る三、四人だって部活の声で周囲の音は掻き消されている。見知った頼りになりそうな大迫先生も野球部の遠征に行っている。雨予報のない県外へ行っているらしい。繰り広げられている喧嘩を収めるのに、心酔している人間の顔が一番に浮かんだのが三木の体を動かした。

 浅間が三木に連れられ走ってやってきたのは部室棟だった。

「こっちです」

 三木は部室棟の二階へ上がる。浅間が三木の背を追い上がった先には各部室が並んだ外廊下で睨み合う三人の男子生徒が居た。一人は立ったまま二人を見下ろし、下方の二人は学生服を乱して口から血を滲ませている。

「あれ、もう終わっちゃってます?」浅間が言う。

 飛び散ったボタンを見つめていた一人が浅間と三木に気づくと、扉の前に倒れていた体をなんとか起こし、肩を貸しあいながら浅間達へ近づき横切った。その間、浅間と三木は黙って硬直していた。

「あたくしは不要でしたかね」

 残った男子生徒は擦りむいた拳から血を滲ませていた。瞳を滑らせ浅間と三木へその眼光を差し向ける。咄嗟に三木は浅間の背へ隠れた。

 男子生徒は舌打ちをして近づいてくる。もちろん先程の二人同様、浅間と三木の向こうにある階段を下りる為だ。しかし浅間は素通りを許さなかった。

「大丈夫ですか?」

 男子生徒は沈黙したまま歩みを進める。浅間は横を通らせまいと、体を真横に反らし再度投げかける。

「一体何が?」

 男子生徒はただ視線だけを向けて浅間を威嚇した。

「黙れ、殺すぞ」

 三木はさらに縮こまる。浅間は尚も口を開く。

「あ、いえ、事情なんかどうだっていいですね。もう収まったんですもの。どうして殴ったりしたんです?」

 浅間の声も虚しく、男子生徒は去っていった。

「あ……」

 三木が情けない声を溢し、目を瞑り大きく息を吐く。

「びっくりした〜。間に合ってはないけど、取り敢えず嵐が去ったみたいで良かったです」

 そんな三木の声は雨に消され、目を開けるとその言葉を受け取る相手は忽然と姿を消していた。

「え?」

 三木が急いで一階の渡り廊下を見ると浅間が男子生徒の前に立ちはだかっていた。

「師匠っ」

 浅間は執拗に男子生徒を追いかけた。

「良ければお話しませんか」

「黙れ」

「悩み事でも?」

「死ね」

「あたくし、ジャンルは問いませんよ。なんだってお聞きします」

 そこまで言ったところで男子生徒は浅間の胸ぐらを掴んだ。学生服だけよりも、臙脂のちゃんちゃんこは掴みやすいのだった。

「ぶっ殺されてえのか!?」

 浅間は両手の平を肩まで上げ白旗を示す。

「まさか。言葉以上の意味はありませんよ。たった今殴るべき相手を殴って気は済んだでしょう。ね、軽くお時間いただければいいんです」

 男子生徒は十秒の間、浅間から目を逸らすことなく視線を定め、一点を見つめ続けた。


「梶田、洸平」

 パイプ椅子に浅く座る梶田が三人を交互に見る。生徒会の活動が終わった入間が合流したのだ。事の仔細を三木から聞いた入間は呆れていた。ともあれ、浅間は梶田の誘致に成功した。

「じゃあ、お悩みをどうぞ」

「あのなあ、悩み相談部なんてふざけてんのか。てめえに何が出来んだよ」

「まあそう説明はしましたが、あたくしの話相手になると思って」

 梶田は鼻で笑う。

「だいたいなんだこりゃ、センコーに何も言われねえのかよ」

 浅間はその言い草に違和感を覚えた。まるでこのド派手な見てくれを初めて見るような発言だったからだ。同様の考えを持ったであろう入間が言った。

「何よ今更」

「あ? あ、いや……俺は」

 梶田の回答より早く浅間が挟む。

「あなた、殆ど登校してませんね。あまり見ない顔だと思ったら不登校気味と。通りで」

「……ああ」

 梶田は言葉を打ち止め、浅間の言葉を肯った。三木は目の前の梶田に自分と同じだと浅間と出会った当時を投影する。

「梶田さん。クラスは」

「二年一組」

 浅間はあれだけ毎日声掛けをしているのだ、大抵の生徒の顔は頭に入っている。教師だけでない学校関係者だってあらかたは把握している。そこでこれだけ印象が薄いのだ、二年とはいえまともな登校日数は数える程なのだろう。ほんの二、三ヶ月くらいか。退学はしていないので見えないところで登校し、すぐに帰っていたりするのかも。加えて、浅間の活動する朝・昼・放課後以外の時間に来て帰ってしまえば仕方のない部分だ。

「手を出したのは相当の問題があったって事でいいの?」

 入間がそう言うと梶田は面倒そうに語り始めた。

「あいつ等は、辞めた分際の俺に向かってなら何をしてもいいと思ってやがる。俺は去年から」

 入間と三木が耳を傾けている途中で浅間が手を前に翳し梶田を制した。

「ああ、待って。言った筈です、複雑な事情や理由には今回興味ないと」

「浅間あんたまた変なところに惹かれたわね?」

 浅間は笑った。それを見た入間は三木へ顔を見る事なく吐き捨てた。悩み相談部でもなんでもないではないか。

「三木くん。今日のこいつは少し面倒かも」

「え?」

 梶田は思わず動きを止めていた。目の前の人間が少し様子のおかしい人間だと気づいたのだ。教師を呼ばず、事情を聞かず、こんなところで長話をする為に虫のようについてきた。カウンセリング紛いのことをするのだと思っていたがそうではなかったのだ。いや、そのカウンセリングの角度が想像と異なりすぎた。

「あたくしはあなたが手を上げるに至ったわけを聞きたいのです、拳を痛める程に怒りに従ったわけを聞きたいのです。あたくしにはない選択肢ですからね。暴力は、深く掘ることのできる浅い行為だ」

 挑発的にも聞こえる物言いに三木は肝を冷やした。反して梶田は冷静に返す。

「喧嘩がそんなに珍しいかよ。俺にはこいつと無縁の奴の方が理解出来ない希少種ってカンジだぜ」

 梶田は拳を作り己の右手の捲れた薄皮を見つめた。

「これが一番早いだろ。気持ち伝えんのも、意見を通すのも。昔から結局人間は物理的なとこに行き着くんだよ。サバイバルで生き残るとかおかしすぎることは言わねえが、要は強え奴が全てって本能に刻まれてんだよ。だからムカつけば殴る。一番最初で一番最後の手段つーわけだ」

 入間は「案外考えてものを言うのね。それとも用意してた答えかしら。それでも頭を使ってるように思うから褒めるべきなのかもしれないけど」などとあまりに鋭利な言葉が喉元まで迫り上がってきていたが、なんとか押し留めた。浅間はまだしも三木のことを考えるとあまり好戦的な姿勢を見せるのは得策ではないと考えたからだ。たとえ唾棄すべき種類の人間が目の前にいたとしても。

「喧嘩、ね」

 入間に続けて梶田が言った。

「それに……これぐらいだよ、俺が才能あるのなんて」

 梶田の発言は入間を逆撫でする。

非行少年(ヤンキー)……なんて前時代的。絶滅したと思ってたわ、希望も含めて」

 空気が微かに張り詰めた。浅間はそんな無意味なものは察知しない。

「強さには自信があると。元来、敵愾心が凄まじいんですねえ」

「謙って生きる気はねえ。それに間違ってる奴を痛めつけても(バチ)は当たらねえだろ」

 その言葉が浅間を焚き付けた。

「ほう、多少なりとも正当化するタイプでしたか……。なるほどっ、その攻撃性や実力はそういう独自の倫理観から来ていたのですね」

 浅間が扇子を取り出した。

「梶田さん。あなたは自分が正しいと自分で審判を下し暴力を振るっているわけですな」

 梶田は浅間の迫力の割に頓珍漢なことを言っている様に圧倒される。

「そ、そりゃそうだろ。俺が殴ってるんだから」

「いかんいかん、いかんですよ梶田さん。暴力や加害性・正義感との付き合い方は、自己と切り離す癖が必須になってくるのです」

「はあ? 意味わかんねえ」

「あなたの考え方は過激で極端なのですよ。いずれ私刑に罪の意識を感じなくなる。衝動的な暴力の方が余程健全だ」

 やけに規模の壮大になる話に梶田は半笑いで対応した。

「罪って」

「悪人には何をしても良いと考える。損得で切り捨て、社会の利や益になる方を選ぶ。もちろんそうした生き方があることも認めましょう。しかし知能ある生物として、思考を放棄するようなことは避けるべきとあたくしは思うのです。いや、すみません、思考は皆した末ですね。そうだな、情と言い換えましょう。熟考してあらゆる人に更正の機会を与える。原因究明に死力を尽くし、改善の為、より良い社会を求める為に万全の体制を整えていくことが最も大切だと思われるのです」

 無駄に小難しい説明の浅間に歯向かうような態度の梶田。

「どうしようもねえクズはいるっしょ。しかも治らねえのが大半だ。それに時間が勿体ねえからな、早期解決がみんなお望みだろ」

「法律と刑罰を軽んじていると人としての何かを失っていく気がしませんか。別に法律が全てだとは言いません。しかし制定されている以上あらゆる基準になり、あたくしもそれにそれほど異論はありません」

「人殺しがのうのうと生きてるような世の中だぞ? 差別されてんのは見え見えじゃねえか。悪い奴がどうなろうと自業自得以外あるか?」

「まるで税金の無駄遣いを安易に結びつけて死刑制度に賛成する輩のようだ」

「だってそうだろ。あれか、やべえことした極悪人でも無期懲役派ってわけかお前は」

 ヒートアップする二人に三木は動揺を見せた。入間に助けを乞うてみるが彼女は平静で、かえって浅間に言い返す梶田へ多少なりとも面白さに近いものを感じていた。

「いいでしょう。……では、悪さにレベルをつけるとして、一から十まであるとする。悪いレベル一と悪いレベル十に課す罪は違うでしょう? だから一から十の悪人の扱いが同じではいけない。当たり前のように聞こえるけれども、これはとても大事なことで、後々に響いてくる重要な点です。善悪を一目で断定して、裁きを下すことを重きを置く。その方が効率的だったり迅速だったりするから。だがそうするとやがて“悪いレベル”がついている時点で判断をするようになる。一か十かは関係ない、みたいに。話の腰を折るが如く、パッと見で。けれどそれは違う。レベルが一なのかニなのか三なのか、何故そのレベルに至ったのか。そこをしっかり見るという工程を省略すると、感情を廃し機械的に同族を管理ないし排他するようになる。梶田さんは極悪人には同情の余地なしという考えですが、それは今述べた恐ろしい思想の前段階にあるのですよ」

「何だよ、俺が万引き野郎を殺すとでも言うのかよ」

 浅間は動じない。

「もしかすれば」

「笑わせんな。話が変わりすぎだ、俺は間違ってる奴はぶん殴ってもいい、それの延長線上で連続殺人犯だったら死んでいいって言ってるだけだぞ」

 扇子の先を机に当てて逆さまに立てる。浅間と梶田の視線はずっと合ったままだ。

「人の人生は一度きりです。あたくしは特に輪廻転生や霊魂論を信じているわけではないので、この実感にある生涯が全てと思っています」

 それを聞いた梶田は椅子から立ち上がり机へ両手を叩きつけた。三木が体を大きくびくつかせる。梶田は主張の後に横の二人に同意を求めた。

「だからその一度きりの人生を奪ったんなら、奪われて当然だろ!? 俺普通の事言ってるよな!?」

 梶田の視界には角度が変わり眼鏡の光の反射で双眸の見えづらくなった浅間が映った。

「そういう考えを持つ者を量産するのは破滅への一途なんですよ。世界にとって」

「はあ!? んだよ、それっ」

 浅間は珍しく体を椅子の背もたれに預けた。金属が軋む音が雨音に負けなかった。

「暴力を振るうことに一線を引かず許した世界に生きている人間とそうでない人間。その差はあなたが思っているよりずっと大きい。同じ世界で生きている者同士なら不思議に思う事はないでしょう。だから、背伸びでもしてほしいんです。ほんの足関節の底屈だけでいい。それだけで相手を俯瞰して見ることが出来るようになる。そうすれば愚かさというものが鮮明に理解出来る筈だ、出来てしまう筈だ」

 声の数が減ったように思われた。もしくは梶田の声は雨に吸い込まれてしまったのだった。

「現代で喧嘩の強さは無用の長物です。物騒な世の中、男女共に護身術や体の鍛錬は必要でも、武器や知識には勝てない。つまり掴み合いや取っ組み合いの手前に存在する手段がある中で、ネガティヴキャンペーンともいうべき汚点を積み重ねる行為は何の得にもならないということです。衝動的な暴行はもちろん、意図的・計画的な暴行は将来をいとも簡単に奪う大きな過ちになります。習慣化して暴行のハードルが下がり、すぐ手を出すことに慣れてしまうことは危険すぎるのです」

 梶田の口がやや開いていた。口輪筋や下唇下制筋などから力が抜けていた。浅間はその梶田へ目線を合わせるように体を起こした。

「ふふっ。梶田さんのような、俗的に不良と呼ばれる方々は縄張りの中ではいくらでも強くなれる。だが、ひとたび未開の土地に足を踏み入れればたちまち何も出来なくなってしまう。とどのつまり、未知のものに対して臆病になりがちなのです! まあ、知らぬ場所でもそこに長く通い続ければ徐々に力を増していくかもわかりませんが、拳なしで生きていくやり方を学ぶべきなのです! あたくしのようにおしゃべりになる必要はありませんっ。けれども、物事を考え突き詰めることは楽しいですよ。人は一人として同じ人間はいないのだと常々思います。同じケースでも違う考え、同じ考えでも違う対処法、同じ対処法でも違う結果、それに伴う不可思議! さあ、すぐに手を出すことが如何に無駄で、言葉を用いて頭を巡らせることが如何に建設的か分かったでしょう! いや分かってください!」

 浅間の顔は梶田の数センチ程に迫っていた。その熱を冷ましたのは入間の一撃だった。

「興奮するな」

「あいてっ」

 梶田が力なく椅子に座り込む。

「頭痛え……んな先々のこと考えて疲れねえのかよ。社会人になったら自然と適応すんだよっ。あと、犯罪者に関してはやっぱ納得いかねえ……悪者(ワルモン)はやっつけた方がスカッとするし、みんな安心すんじゃねえのか」

 三木は理解出来ない筈の梶田に対し、共感のようなものを覚えた。平和を作り上げる為の間引きのような考えは、実際問題必要ではないのか。必要悪というやつではないのか。しかし浅間はそんな多数決的な考えを許さなかった。秤に掛けることを美しいとは思わなかった。

「それは動物的ですよ。人を掬い上げる社会、それが食物連鎖の頂点に立つ知的生命の目指すべき場所、在り方である。……とあたくしは思いますがねえ〜」

 悩み相談と称して他人に介入して私見を突き付ける。そんな横暴をしている浅間だからこそ無限の思案と付き合いがあるのだった。確かな価値観や論理があり、邁進をやめることなくその時点の最新を訴え続ける。

「喧嘩しねえで、悟りでも開けってのかよ」

 気づけば雨が小降りになっていた。話疲れた様子の梶田を見下ろして、浅間が言った。

「ま、すぐ怒ったりせず、毅然とした態度や姿勢が一番ですよ、梶田さん」

 梶田は浅間の左頬に渾身のフックを当てる想像をしながら、雨が完全にあがるまでの時間、右拳にその力を入れ続けていた。





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