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平怠亭一期の言いくるめ  作者: チビ大熊猫
おべんちゃら
2/6

相談者 矢吹沙耶加


 体育の授業に気の進まない若者が一人。

 バレーボールが宙から悠々と落ちてくる。顔を上げた浅間が千鳥足の後ろ歩きで落下地点へ到達すると、ボールは顔面に直撃し緩やかな放物線を描いて弾んだ。

「あだっ」

 クラスメイトから口々に浅間への罵詈雑言が飛ぶ。本気で浅間を傷つけようというものはなくとも、やけに激しい日常の一頁。

 浅間は運動が出来なかった。小学校時代、ヒーローの夢は早々に絶たれた。中学に上がり試験的に陸上部へ属したが爆発的な進化の望めぬまま退部した。球技はもちろん運動の全般が不得意であったのだ。かといって勉強が出来るわけでもなく、国語や社会は最低限という程度で、数学や理科といった計算などが絡んでくるものや明確な答えを導き出さねばならぬものに関してはてんで話にならなかった。記憶力や表現の仕方でどうにかなるものだけで点数を稼いでいたのだ。採点されるものである以上、教師を味方につける、教師の首を縦に振らせれば良いのだという考え故だった。

 当然その自慢の弁舌は人間関係の構築にも大いに役立ち、同級生から慕われているのが浅間大亮という男であった。どんな内容であれ体育という科目で浅間が活躍することはない。むしろ足を引っ張ることの方が多い筈。そうした中でも浅間に敵意が向くことはなかった。より詳しく言えば、敵意が発生する前に浅間は先手を打つだろう、そしてそうしたものが生まれない環境づくりに注力するだろう。普段の日常生活に正面衝突は不要と考えている浅間だからこそ、力の方向を口先で朧げにするという癖がついてしまっている。

 浅間の粗末なプレーを、体育館を二分する緑色のネット越しに横目で見ていた入間。区切られたその世界の向こう側でも通常運転の浅間に辟易する。それなりの距離があるというのに同じチームである四人に対し言い訳がましい口を動かしていて、その声が至近に感じるような錯覚さえ覚える。

「どしたの、そんなに男子のこと見て」

 男女十七人ずつで形成されるこの二年三組では、試合が行われている間は残りの一チームである五人が応援として見学に徹する。少ない人数での休憩時間、入間の視線を同性の女子が気にするのも無理はなかった。

「別に」

「また浅間? ホント好きねえ。物好き」

 体育座りのまま入間は目を細めて否定した。

「やめてよ。そういうんじゃないから」

 入間が浅間と共にいる風景というのも、これまたこの学校では常のことだ。

「はいはい」

「はいは一回でいいって言われたことないの? 全く、あんな図々しくて自信過剰な奴が毎回無様な姿を見れるのはこの時間だけだからね。そりゃついつい面白半分で見ちゃうってわけ」

 入間は随分と早口でそう言った。

「あ」

 女子生徒が漏らした言葉と釘付けの視線の先にあるものを辿る為、入間は女子生徒の反対側、顔を向けていた背後を振り返るとネットにしがみついた浅間が居た。

「きゃっ!」

 眼鏡を外した目つきの悪い浅間が蜘蛛のように張り付いている。

「入間くん」

 浅間は男女問わず先輩もちろん、同級生及び下級生のことをさん付けで呼んだ。入間のみが例外であった。

「そういう魂胆ならこちらも出るとこに出ようじゃないか。今日明日は現実的でなくとも、卒業までに君を運動でぎゃふんと言わせてやろう。いいかい、覚悟しておくんだね」

 入間はやや後ろに体を反らす。

「へ、へえ。出来るものならどうぞ。口だけは認める時もあるけど、口だけがあなただしね」

「はっ。言ってくれるね、臆病者の君が。その強気だけは賞賛に値するよ」

 浅間の背からはやはりチームメイトの怒号が浴びせられていた。早急にプレーへ戻る催促をされている。たかだか授業の五十分くらいの時間しかないのだ、油を売っている場合ではない。

 女子生徒は二人の様子を微笑で見届けると音も無く後方の三人に合流していった。そしてそれを見た浅間も群れに戻る。すぐにプレーは再開された。

 レシーブを試みた浅間は自らの腕から上方向に跳ねたボールに勢いよく顎をぶつけてしまった。

「あだっ!」

 入間は再上映されたその光景にくすりと笑った。


「一期師匠」

 授業が終わり、三限と四限の間の休み時間。浅間は右肩に掛かった声にやや遅れて反応した。新参の若い声色だ。

「三木さん」

 三木はあれから折に触れて、浅間を視界に収めることを新たな趣味・偶の楽しみとして学校へやってきていた。見かければ何かと気になり目を奪われてしまうのだ。

 占いというものにお金を払うなんてことは馬鹿馬鹿しいなんて思っていたが、それが悩み相談の延長線上にあり、何かしらの答えを教示してほしい人間というものが存外多くいるのなら今は多少理解出来た。自己完結出来ない人間が行き詰まった時、結局は人を頼るのだ。そこで言える相手とやらが限られてくるのなら相談者を募っていること程ありがたいものはない。そして占いという不確実性のあるものでなく、人に依る悩み相談と銘打っているものなら安心した。同じ高校生ということは侮りには繋がらず、気兼ねなく心を打ち明けるのに躊躇いをなくした。

 浅間大亮という男が導き出す答えの詳細を、普段からどう生活して振る舞っているのかを知りたくて堪らないのだ。当の浅間はこういう存在が目新しいものであった為、三木が現れると仄かに上機嫌になるのであった。そもそも不機嫌な時などないのは前提として。

「今日の昼休みは相談あるんですか」

「どうですかね。今朝は全くでしたし、一通でもあれば良いのですが」

 朝の時点でギリギリまで粘った浅間だったが相談依頼は一つも受けることなく、目安箱も空の状態でホームルーム を迎えたのだ。

「昼休みだったら時間があったので拝見出来ればと思ったんですけど」

 少しだけ肩を落とす三木。しかしすぐに飛び込みの相談者を期待した。

 二人が体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下で話していると、過ぎ去っていく生徒の往来に紛れ、気付かぬうちに大迫が屹立していた。

「三木、浅間に傾倒するのも程々にしておけよ?」

「またタイミングの悪い」

 余計なお世話、そんな心の声を隠すことなく、むしろ声に発さずここまで雄弁に顔へ表出させるというのも器用なものだった。浅間はせっかくの信者第一号が教師という肩書きに揺れるのを危惧した。

 対する大迫も、体育の授業で浅間の面倒を見る度に唯一御すことの出来るその時間を大事にしていたのだ、終わってすぐに浅間の悪い部分に感化されている生徒を目にするのは看過できない部分があった。

「こんな教師の言うことを全く効かないやつの背中なんて見ることないぞ」

「風紀を乱しているとでも? 品行方正な生徒だと思うんですがねえ」

 浅間は大迫に悪態をついてから三木へ微笑む。

「普段の授業態度は確かに悪くないが、噺部を意地でも続けてるのが玉に瑕だってことだ。てかそれが大部分を占める」

「多数の声を聞くべきですよ。現に生徒には人気で、先生にもあたくしを好意的に思っている方が何人もいる」

「形式的に認められていない以上、俺は認めんし許さん。学校の外でやれ。まあ、成績優秀ならもう少しは意見が通るかもな」

 大迫は痛い部分を突いた。浅間を補習で何度か見かけた経験からだった。平時とて担任や各科目担当の同僚から、浅間大亮の、弁舌の割りに大したことのない学力の意外性を耳にしたことだってあった。

「ぐっ……勉強を蔑ろにしてるわけではない生徒に向かってその言い草はちくりと来ますな」

「そうは言ってもお前は帰宅部なんだ、割く時間をもっと増やしてみろ。なんなら俺が付きっきりの時間を設けてやってもいいんだぞ? 部活動と一緒で、ボランティアに抵抗のない教師ってのは案外多いんだ」

 そう大迫がにやついたところで浅間は三木に一度視線をやってから戻るべき教室の方を向いた。

「考えておきましょう」


 終礼後、浅間は拠点近くに設置してある目安箱を確認する。一日三度、活動時間前に行うルーティン。今日の望みは薄かったが、放課後、昼休みからの三時間程で悩みが投函されていることも可能性としてあるからだ。

「さあさあ、今日も終わり、最後の確認のお時間ですよ〜」

 鉄製の平たい直方体の中に、一枚の折られたメモ帳の千切られた紙が安静にしていた。

「おや」

 浅間が紙を手に取り広げる。そこに内容というものはなく、ただ投函者の名前のみがひっそりと書かれていた。匿名で相談内容を記述する生徒もいる中で珍しいことだった。同時に、ローファーが床のワックスで立てる甲高い音が耳に触れた。


 タンタカタン。出囃子。

「矢吹沙耶加です」

 その女子生徒の名は矢吹といった。茶色の地毛が特徴的な、肩までの髪を外向きにはねさせている。日が落ち始める中で、部活動に励む声がグラウンドから聞こえてくる。校舎には人がまばらになり、居残りを言い渡された生徒や無駄話で屯する生徒、それぞれの仕事に取り掛かる教師達が点在する程度になる。閑散としていく光景に、矢吹はやたらと溶け込んでいた。

「矢吹さん。今日はありがとうございます」

 浅間はたった一人の相談者に深謝した。矢吹は浅間の養分になってることなぞ知らずにぽつりと言葉を溢した。

「ここなら、もしかしたらって」

 内気な少女なりに勇気を出したのかもしれない。浅間はそんなことを思って顎先を撫でた。

「よく評判をお知りで」

「悪名高いからでしょ。毎日うるさい奴がいるって」

 そう言葉を挟んだのはスタイルの良さを振り撒くが如く闊歩してきた入間だった。本人に自覚はないのが笑い話なのだが、そんな彼女は同級生から“お局様”や“パリコレ”と呼ばれたりもしている。

「気にしないで。良い判断ですよ」

「あ、ごめんなさい、もしかして邪魔だったかな。こいつが暴走しないように見張るだけだから安心して」

 人が増えたことに若干の気後れがあるのか、やや声の小さくなった矢吹が辿々しく話し始めた。

「同級生の目が増えたんじゃなければ別に大丈夫です。てか、私の悩みに真剣になってくれるなら誰でもいいんです。けど大人には話したくない。こんな悩み相談なんて大々的に触れ回ってる先輩の浅間さんなら、どうにかしてくれるかなって思ったんです」

 腕を組んでから両前腕を机につけて前のめりになる浅間。

「さて、どういった相談内容でしょう」

 矢吹はその圧に屈さずに身の上話を語る。

「……学校が楽しくないんです。上手く馴染めてなくて」

 定番の議題だった。浅間は少しだけ肩透かしを感じたが、極力顔に出さぬよう努めた。

「こんなに可愛らしいのにどうして。友達だって普通にいそうに見えるけど」

 入間は忌憚なき意見を述べる。

「スタートダッシュに失敗したっていうか、もうグループが完全に出来あがっちゃってて」

 浅間は咳払いをしてから尋ねた。

「輪に入れないのが辛いと」

「別に最初は平気だったんです。何でこうなったかっていうと、理由は割と複雑なんですけど……」

 曇った表情に泳いだ目の矢吹を逃さぬよう浅間が見つめる。

「ほお、どんな?」

 矢吹は深呼吸をしてから浅間と入間を交互に見た。

「入学式の直前に親の転勤が決まったんです」

 予想の外であった発言に浅間と入間は思わず喫驚した。

「え」

「嘘でしょ」

 ゆっくりと頷く矢吹。

「急だったしびっくりしました。五月末にって話になって。それで私は、友達を作る努力をしないようにしようって思ったんです」

 変わった着地に聞こえる旨の言葉だった。それはあまり一般的ではない突拍子さに思えた。しかし浅間は考えたことがなかったというわけでもなく、研究材料としてより深くその解像度を上げんが為に矢吹への興味を示す。

「ほうほう」

「どうせすぐ別れるんだし、無駄に体力使って関係性を作り上げるのも大変かなって。仲良くなって別れが辛くなるのも嫌だし。けど今度は、今になってその転勤の話が無くなったんです」

 矢吹は真剣な表情を崩さない。

「あらら」と入間。

「四月から今日まで、割と近寄るなオーラを出してきました。多分、気取った痛い子だって思われてます。無理もないけど」

 座席が悪いというわけではない。彼女はただクラスメイトと交流しなかった。干渉することに消極的な姿勢でい続けた。感動詞のみを用いる生活を心がけていたのだ。すると思惑通り、彼女に向かう矢印の数や機会は減っていき、高校一年の四月という最重要の期間は消失された。邪険にされずとも、己が手で孤立を形づくることは容易かった。

「なるほど、そういった失敗談というわけですな」

 浅間は強い言葉で無遠慮に決めつけた。

「話しかける、話しかけない。いつも迷って、迷った末に結局体を動かさない方を選んじゃう。喉を動かすのも億劫で、指先一つ動かせない」

 矢吹にとってこれからもこの空間で学校生活を送っていかなければならないと決まった時点で、大きな不安と後悔が押し寄せてきたのだった。

「それはそれは悪手だったと自己嫌悪に苛まれるのも仕方のないお話だ」

 浅間は矢吹の左の顳顬にあるヘアピンを見た。猫があしらわれている可愛げのあるデザイン。浅間は壇上で世界を自分のものにするべく息を整える。

「マーフィーの法則をご存知で?」

「え、何」

 要領を得ない様子の矢吹。入間が差し込む。

「またそんなこと言って。引用ばかりのうんちく野郎よ」

「あたくしは設置した目安箱の中身は毎日三回確認する。そして翌日のものなら相談に備え、綿密に思考を巡らせたり調べ物に耽ったりもする。そして話の内容を大まかに纏めたら、当日の思いと混ぜ合わせて会話をするのです」

「ネットとかで?」と矢吹。

「現代にはたくさんの方法がある」

 そういう浅間にまたしても入間の合の手。

「付け焼き刃ってこと」

「そうとも言う」

「それで?」

「ああ、続けるね。まあこれは『失敗してしまう可能性があるなら失敗してしまうだろう、それも高い確率で』という論で、例えばバターやジャムを塗ったトーストを落としてしまった場合、その僅かな重さ分の関係からか、バターの面を下にして落ちてしまう。そしてそれはただの地面や床でなく高価な絨毯やカーペットであればその確率は上がる、といった一種のユーモアなのだが、この選択的重力の法則に着目し、猫は落下する際必ず足を下に着地するという猫捻り問題を掛け合わせたバター猫のパラドクスというものがある」

 食い入るように聞く矢吹とポーカーフェイスの入間。

「高級絨毯を用意し、トーストにバターをたっぷりと塗る。重さの分かりやすさとしてピーナッツバターでも想像してくださいな。そして猫の背にトーストをくくりつけて、ある一定の高さから落下させるとどうなるか」

 浅間はにやりと二人に問いかけた。二人は眉間に皺を寄せた。バターが絨毯にべちゃりと落ちる最悪の想定も、猫が悠々と着地して何事もなく去っていく想定も出来る。

「分からない。どっちが落ちるの」

「猫にかけるが、これはいわば数秒のシュレーディンガーの猫だ。必ず着地する猫と必ずバターの塗られている面の落ちるトースト。それは、落ちるまで二つの絶対が同居しているということ。絨毯に完全に落ちるその時までは、それを目視で観測するまでは、等しく百パーセントが隣り合わせでいるのだよ」

「ふむふむ」

「別に百ってわけじゃ」

 文句のある入間をそっちのけに浅間は言った。

「かくいうあたくしも、これを実験してみたことがある」

「えっ。結果は」

 今度は矢吹が前のめりになった。

「ふふん。猫は、落ちなかった」

 得意げな浅間に入間が吠えた。冗談を言うタイミングではないとはいえ、あまりに予想に反していたから。

「まさか。普通に考えて、猫が先に足を着けておしまいでしょ。背中のトーストの重さに負けるとは思えないし、猫が仰向けに落ちるところの方が想像出来ない」

「あたくしもそう思います」

 入間は眉を顰めた。

「は?」

「言ったでしょう、落ちなかったと。つまり、落とせなかった。あたくしにはあんなに可愛くてまん丸な目をした天使を落とせっこなかったんだ」

「何それ」

 語気を強める入間。矢吹は目を丸くしている。

「まあ、二つの絶対が同居している状況でも、思わぬところに光明はあるということですよ」

「どういうことですかっ」

 あまりに馬鹿馬鹿しい浅間の“着地”に、矢吹は吹き出した。それは控えめな笑いだった。

「あ、今笑いましたね。笑うという余白があるなら大丈夫」

 浅間が言う。矢吹は先程までずっと重い表情で相談しており、初めて白い歯を覗かせるに至ったのだ。気恥ずかしさからか矢吹は否定する。

「え。いや、反射みたいなもので」

「反射的な笑いを不随意運動と思ってるうちはまだまだだね」

「はい?」

「経験則から失敗の規模感や侵食される範囲を高く見積もって自分に枷をつける。これが自らにとって悪しき結果を誘引する一番の原因だ」

 矢吹は浅間が右へ左へ舞うように動かす扇子を目で追った。

「つまり話すか話さないか、という二本に絞るからどちらかを選ばないといけない。話す、仲を深める一歩。話さない、現状維持、溝は深いまま。それ以外の道はないのだと思い込むんだ。話すという行為自体のウェイトが重いのに、そんな二択では安全策に甘えてしまうのは無理ない。ならもう一つ二つ。挙動なしで、負担なしで相手に気づいてもらう方法を試せば良い」

「気づいてもらう……」

 入間が半笑いで述べる。

「好きなアーティストのグッズを忍ばせるとか? ありがちね」

「まあ端的に言えばそういうことだね。話題の共有出来そうなものを身につける。そしてそれが難しいなら肉体や気持ちの柔軟性を上げて表情筋を解してあげるんだ」

 浅間は扇子の先端を徐に矢吹へ向ける。

「つまりはその場・環境でのローギアが肌に染み付いてしまっているということさ。標準化した硬直具合では笑える話も笑えず、動ける時に動けない。何がしかの他人の会話が耳に入るのは人間普通のこと。そこで少し笑ったりする。もちろん最初はハードルが高いだろう。けれど例えば給食の時に流れる音楽や放送で少し微笑んでみたり、先生の小話に口角を上げてみるでもいい。忘れ物をした時に『あ』というような驚きと焦りの顔をしたり、物に体をぶつけたり段差に躓きそうになった時に顔を歪めて声を漏らすでもいい。そうした表情の豊かさはパーソナルスペースに配置された堅固な壁を軟化させる」

「なんかすご……で、でも、今更それが出来るかなあ」

「無理に面白い返しが出来ないといけないだとか、先々のことを考えて、相手以上に相手の視界から自分を俯瞰することはやめなさい。その愚策はいとも簡単に自分の首を絞めます」

 浅間大亮の澱みなく出てくる言葉が矢吹の奥底へ響いて伝わった。矢吹は自身の自己肯定感の低さが、他者を必要以上の敵のように作り上げていることに気付かされた。確信に変わってゆくそれは、彼女の中で新たなる生き方として試験的に導入される。彼女はそのことを少しも厭わない。

「……そっか。私が勝手に壁を作って、その壁から出られなくなって。それでうだうだ言っても私のせいだもんね。けど……そのくらい小さなことで緩やかにでも大きな変化が見込めるなら、やれるかも」

 矢吹の顔はすっかり明るくなっていた。浅間は自身の顳顬に指を差しながら告げた。彼女の門出を祝うように。

「せっかく可愛らしいものを着けてるんだ、まずは猫好きをもっとアピールしましょう」


 入間と二人で下駄箱から矢吹を見送る。深いお辞儀をし、軽快な足取りで矢吹は学校を後にした。

「まあ、優しい提案だった方ね。暴走もしなかった」

「入間くんが言うようなあたくしの暴走はそう簡単には起こりませんよ」

「どうだか。場合によってはきつく指摘しすぎたり、あんたが興奮して詰問しちゃう時だってあるからね」

「人聞きの悪い」

 浅間は満足げな表情だ。今日も浅間は口先で人の悩みを解決したという達成感に身を震わせていた。

「でも、今日の話はありきたりな部分もあったっていうか、いや、毎回大した改善策は言ってないか」

「失礼な」

「だってあんたが友達を紹介するわけでも、彼女の良さを引き出してクラスの子との仲を取り持つわけでもない。(てい)の良いそれとない話をしただけ」

「悩み相談部ですからね。代行サービスなんかではない」

 あくまでこの部は浅間の個人的な欲を満たす為に発足された。それは承認欲求とは似て非なる。

「釈然としないわ。結局は独壇場が楽しいだけだから人様の役に立つかどうかは然程重要じゃないってわけね」

「そう解釈も出来る」

「てか浅間あんた犬派じゃなかった?」

「猫も可愛いでしょうが」

「ふーん。ま、そりゃそうだけど」

 二人は上辺での殴り合いをしながら願った。矢吹沙耶加の未来に幸福があらんことを。




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