相談者 三木金彦
「はてさて皆さん。お手を、お耳を、ついでにお体も拝借。一つ、この平怠亭一期の話を聴いておくんなせえ」
校舎内。生徒や教師見境なく、四隅に折れ目のついた拙いちらしを配り歩いている。過度に押し付けるわけでなく、かといって素通りは許さず、蟻の子一匹逃さないといった具合に廊下を通る万物へ声を掛ける。恥も遠慮も彼の辞書には存在しない。
浅間大亮は実に自己中心的な男である。我欲に忠実で、自らの生涯とは如何に妥協をしなかったか、どれだけ自分を満足させられたかが肝だと妄信している。論じることが大好きで、口先で人を説き伏せることが何よりの好物だ。誰が見ても変わり者ということに異論はないだろう。
冬服の学生服の上に臙脂のちゃんちゃんこを羽織ってそれらしい雰囲気を醸し出している。これは祖父からの貰い物で、授業以外の時間では常日頃身に纏っている。授業中でさえ叱られなければ膝の上に乗せているという始末だ。祖父は一昨年に亡くなった。浅間は「今や冥土からの土産とも言える」などと言って饒舌に拍車を掛けた。
「一期、平怠亭一期に少しお時間をくださいな。あなたのお悩み、なんでも請け負います」
そういった謳い文句で、朝から学校を練り歩いているのは常のことだった。朝、授業が始まる前の登校の時間・昼休憩・放課後。三つの自由に動けるこのタイミングが浅間の活動時間だ。購買部の向かい側、そこには大きなコルクボードが取り付けられており、様々な情報が集結している。学校の連絡事項や部活動の勧誘・実績。生徒会の近況を纏めた新聞記者に、学校と提携している自治体のPR。近所で長く行われている工事の詳細なども張り出してある。その左手、隅の一角に小さく居を構えているのが浅間大亮のテリトリーであった。手作りの拠点が図々しく鎮座している。椅子が二つ、長机を挟んで置いてある。左右に物干し竿を二本立て、根元にはガムテープが不細工に貼られている。カメラの三脚を用いたこともあったが長さが足りず、この方が意外に安定したからだった。プラスチック製だから軽い。専用のステンレスの支柱は揃えられなかった故に代用しているのだ。テープの使用量は多い。恐らく支柱を買った方が早い。そしてその二つを跨ぐのは、横断幕を加工して作ったお手製の品。手作業で書いた文字。両端は物干し竿に留めてある。赤い布が浅間の上で大きな鳥居の如く佇んでいた。この場所は浅間の主戦場。人の悩みを聞いてそれに答える。老若男女問わず、どんな悩みも受け入れ、必殺の話術で解決へーー強引にーー導く。悩み相談は需要が尽きることなど無い。本日も客がやってきた。
タンタカタン。出囃子。
「悩み相談部?」
男子生徒は小声で呟く。浅間は校門の前で激流の如く吐いていた大きな声を堰き止め、振り返った。一匹、網に掛かったようだった。
浅間は口を一文字に伸ばし、鼻を興奮にひくひく動かして近づいた。想像よりもぐんと大きな接近に男子生徒はたじろいでいる。浅間は対人距離が随分と近い男だった。そのまま口を開いたかと思えば、また滝は勢いよく流れ始めた。
「ええ。何か悩みがおありですか。どんなものでもお聞きしますよ、興味本位だって構いません」
面妖な奇人を前にすると、人は硬直する。男子生徒は微動だにせず、しかし部への好奇や疑念を顔に表示させた。無意識の正直さだった。
「そんなに警戒しなさんな。なんでもいいんです、心の中に押し殺しているものがあるなら言ってみてください。お話しましょう。少しでも、確実に、軽くしてみせますよ」
男子生徒は逡巡する。得体が知れなさすぎるこの男。不透明な部活動。転校してからまだ二日目だからだろうか。第一おかしな名前だ、全国に珍しい部活動は数あれどこのように自由な風体は見たことがない。
「えっと」
浅間はまたしても不敵に微笑んだ。
「お名前は?」
その圧力は自白剤のように男子生徒の姓名を引き出す。
「み、三木金彦」
「三木さん」
やはり浅間は嬉々として続ける。
「小難しい長考や勘繰りは要らないのです。ただ会話するだけでいい。何か小さなこと、気になったことがあるから立ち止まった、違いますか。なら吐き出してください」
「会話だけで」
浅間の言葉に三木は誘導されるように口を開いた。肉薄するその図々しさに引いてしまったが故の反応だった。
「まあ、基本的には目安箱を確認するので優先順位は必ずしも一番じゃあありませんがね」
「目安箱。そんなに相談がくるんなら僕はお門違いじゃ」
「購買の反対で部を展開しているので気軽に訪ねるといいですよ」
「部を展開?」
言っている意味が分からなかった。
「とにかく。お待ちしています」
「え、ちょ、ちょっと」
朝方、その密約は半ば強制的に交わされた。
三木は恐る恐る件の怪しい部へやってきた。昼休憩の四十分を使うのだ、無駄にはしたくないという腹づもりの中、ここを目指した。曲がり角で浅間を見つけるもそれから足が動かない。若干の躊躇が体に表れているらしい。その億劫を吹き飛ばすように背後から声が掛かった。それは女性の声だった。
「あそこに用?」
綺麗な人だった。長い前髪を流し額を露出させた、古風な美形の大和撫子。滑らかに光を反射させる漆黒は穏やかな神々しさを演出する。
「えっと、あの」
浅間がふと気配を感じ視線を誘導された先には、恐る恐るといった具合に漣の声を出す男子生徒がいた。今朝の彼だ。浅間が日々呼び込みに身を削っている甲斐あって、こうして客に恵まれることは少なくない。教師らには不評だが、案外客は集まるのだ。
「はいはい! ややっ、今日のお客さんは二枚目ですねえ」
浅間の独特な語調に男子生徒は怯む。続けて浅間は女の方を見た。そして憎たらしく苦言を呈した。
「入間くん。せっかくのお客さんをいびるのはやめたまえ」
「変なこと言わないでよっ。いつ私がそんな態度取ったのよ」
そう弁明するのは、平怠亭一期もとい浅間大亮の手綱を握る唯一の人物、入間修子。浅間とは中学からの仲であり腐れ縁だ。その佇まいから奥手な男子を量産すると言われる、端麗な二年の女子生徒。
「まあ、お顔や目つきがキリリとしてますからねえ」
「浅間あんたねえ」
入間のエンジンが掛かりきる前に浅間は三木の方へ向き直した。本日の客を蔑ろには出来ない。勇気を出して赴いた客には全身全霊で応える。それが平怠亭一期の流儀だった。
「さてすみません。三木さん、でしたかな」
三木は俯いた後、再度浅間を見た。それから店構えを視界に収めた。本名とは思わなかったが先程触れ回っていた名前が芸名であることは入間という女子のおかげで察することが出来た。相談者から右手には「平怠亭一期」と達筆の縦書きがあり、頭上高くには「かんわのきゅーだいてん」と書いた粗雑な横長の看板のようなものが掲げられている。この悩み相談部の店名といったところのようだ。パイプ椅子の感触が臀部に寒々しい。
「じ、じゃあ、これって部活……ってことですよね。でもこんな部活聞いたことないし、部長はあなた、ってことでいいんですか?」
訊ねる三木に浅間はにかっと太陽の如き笑みを浮かべた。ぼさぼさの癖っ毛に鼻の付近のそばかす、大きな眼鏡が特徴的なごく普通の男子高校生。しかし風変わりなちゃんちゃんこはその口先の程を一目で理解させる。魔法と呼ぶに相応しい話術の使い手であることは、馴染みのない三木にも想像出来たのだ。何故だがそれくらいの存在感があった。
「ああ、部員はあたくし一人」
三木はその自分勝手に設立したであろう部活動のことを不思議に思った。全体像が見えてこないからだ。
「部って、部員が最低でも四、五人は要るんじゃ」
言いながら横をちらりと窺う三木。高く聳える入間が言う。
「私は違うわよ」
三木の言葉を杞憂だと言わんばかりに浅間は反射で口を動かした。高速の詭弁は相手を虜にする。彼の倫理や常識は嫌悪されるようなものではなく、万人の舌を巻く。自信家の中でも蛇のような柔軟性を持つこの男が奇怪な行動を取るのは必然であるのだった。
「問題ありません。あたくしで十人分はくだらないですから」
「な、なるほど」
変わり者としての自己紹介を終え、首を縦に頷かせる強制力は大したものである。浅間と対面し、傍には宛らご意見番の入間。三木金彦が恥を捨て、いざ今から相談が始まろうという時だった。入間が漏らした声は三木の注意を引いた。
「あ、先生」
その視線の先には渡り廊下から力強い足取りでこちらへやってくる大きな影があった。体育教師であり生徒指導を兼任している大迫だ。浅間の担任ではなくとも、校内での奔放な様に度々痺れを切らしている。
相談者がいない時には浅間は呼び込みに足を向けているので、常にこの拠点に居座っているわけではないのだ。校舎中を歩き回っていると意外にも一日遭遇しないなんて人間さえ出てくる。すると先生の小言も時折のものだ。しかし止むことはなく、断続的にそれは行われていた。
「浅間ァ! 性懲りも無くまだ続ける気か」
その言葉は宙に舞い質量を失くす。浅間は絶えず相談者へ瞳を向けていた。本日、目安箱の中が寂しかった以上、眼前の相談者が浅間にとって何よりの優先対象であった。
「てめえ、いい度胸だな」
大迫が顳顬に青筋を浮かべるも、浅間は意に介さない。落ち着いている様子の入間とは反対に三木は不安げな顔だ。
「あっしには歴とした名前がありますもんで」
浅間は融通が利かない。
「はあ。ったく、わーったよ一期」
こうしたやり取りは初めてではない。大迫が渋々浅間の芸名を呼ぶのはそうでもしなければ先へ進まないと知っているから。
「へい! もう一声! 亭号も!」
「調子に乗るな」
「あいてっ」
頭頂部に振り下ろされた拳骨という前時代的な身体接触も、二人の関係性があるからなし得ることだ。
「先生、こんな部活があるんですね」
三木の無垢な投げかけは三人にとって新鮮極まりなかった。
「馬鹿言え。こんなん不認可に決まってるだろ」
大迫は無情な言葉を吐いた。三木にはそれが少し疑いのある言葉で、生徒一人が学校の仕組みの外に生きていると暗に言っているようなものだったことに驚いた。
「まあまあ先生、教員の皆々様も何かあれば気軽にご相談くださいな」
「お前な、そんなに出来た人間なのか」
三木は大迫に同意した。たかだか十六、七の人間が、大人相手に相談に乗るなど。それも一人や二人という人数や仲の良さといった制限は無しに。傲慢というか、身の程を知らなすぎる。しかしその同意も須臾のことだった。
「聖人君子でないのが良いんじゃないですか。人間臭さは捨てたらいけねえ。それに、人は吐き出してこそ安定を得られるし、さらに答えまで提示されたんならもう向かうところ敵なしです。ま、“答え”なんてものは無いから、“近しいもの”にはなりますがね」
悪びれもせず、さも当然の面構えを崩そうとしない。大人の気分を逆撫でする筈だ。
「尤もらしいことを言うな。腹立つ」
「人様の逆鱗を操れたら一人前の雄弁家と考えておりますれば」
浅間のその様に三木は嘆息を吐いた。自らと対極にある生き方だったからだ。その図太さが透明な努力に裏付けされたものであろうとも、その成果を迷いなく振るうことが眩しかった。これは三木に限った話ではない。浅間に相談をした経験のある者は、皆一様に同じような所感を抱き並べる。
「先生無駄ですよ、こいつには武力暴力以外通用しない。物理的に黙らせるのが一番かと」
乱暴な言葉を使うのは信頼関係の表れだった。入間は心穏やかな人間で、普段このような強さを日常的に用いはしない。クールな性分ではあるが、冷めた態度というわけではなく人当たりは良い。基本的に。
「いかんぞ入間くん、そうして機械的な迎合に甘んじるのは悪手だ。君があたくしの漫談を好いているのは既知の事実ですよ」
入間はむっとした表情を返す。
「ふざけないで」
「ただ暇を潰しているというのは苦しいものがありますよ」
「あんたが人様に迷惑をかけ過ぎないよう見張ってんのよ」
「かけるのは前提なんですね……」
三木がそう合間に呟いたことで二人の問答は一つの節目を見つけた。浅間は女子生徒と教師に挟まれて尚、相談者へ快活な顔を向けた。
「ご覧の通りこうして、あさまいりまのコンビでやらせてもらってます」
三木は自らの後ろめたい鉛を差し出すことに怯えていた。しかし気づけばその重量や鉄臭さはなくなり、目を逸らしていた暗い銀色を直視することへの抵抗が薄くなっていたのを感じた。
「なんか、落語でも聴いてるみたいですもんね」
三木の感想も無理はない。落語が好きで時たま聞く浅間は、いつしかこんな口調になっていたのだ。話しやすい強弱や抑揚をつけることは親しみやすさを生む利点でもあり、本人の意図も多少は介在している。
「あたくしがやってるのは落語でもなんでもないですがね」
大迫が付け加える。
「落研とは違うんだと。要は噺部というわけさ」
「噺部」
噺部。道楽のように喩えられたそれは、三木にとって不快なものではなかった。興味深い研究材料を置かれていた。最新技術の披露をされていた。そんな風に目新しい希望を抱ける何かとして五感を刺激したのだ。不出来な鳥居はその信仰対象を克明にした。
「あっと、すいやせん。そんな畏まらねえで。で、どんなお悩みで?」
浅間は訊ねた。三木が口を開く。
それは転校の理由だった。三木は以前の高校でいじめられていた。正確にはいじめというほど大層なものではなかったが、大小は決定されるものではなく流動的で、本人にとって居心地の悪い空間が続いたからだった。第三者の齎す定義ほど不確かなものは無い筈だ。解決の道もあるにはあったが、三木金彦という男は拳を握るより身を引くことを選ぶ気質の青年だった。
ある授業中のこと。国語の授業中に数人の生徒が指名され、黒板の前へ誘われた。教師の書いた虫食いの文、その括弧の中を解答で埋めていく。他が可も不可もない正答や誤答を記入していく中、三木は中学生の好餌である下品な言い回しに聞こえるような回答を書いてしまった。そんな些細なこと。しかし三木は赤面し、周囲は笑った。思春期の男子にはそれが耐え難い羞恥であったのだ。するとその光景に目をつけた人物がいた。クラスのガキ大将、素行の悪い一人の男子だった。彼は人一倍大きな声で笑った。そして三木の誤りを必要以上に誇大に変容させ、周りの歓声に拍車を掛けた。それはそれはたいへんな盛り上がりであった。三木の視界にトラウマとして押印される程に。翌日、彼は教室で前日の興行を再演した。クラスメイトは当然の如く同調。以降、三木は彼にその小さな失敗を度々責め立てられた。名前に絡められ呼び名を強制的に変えられたこともあった。在学中はそれが常に続き、付き纏った。彼とは同じ高校に進学してしまい同様の扱いを受けた。緩やかに心身を擦り減らしていった三木は、到頭その恥辱に堪え兼ねた。
「僕が間違えて恥ずかしい答えを書いちゃったんです。それで」
三木が言い終わるまで、三人は黙ったままでいた。そこに嘲笑の影はなく、まるで三人の大人と対峙している感覚があった。立派な土地に構える相談所として微塵の疑いも持たないだろう。
「以降は笑われ者、というわけか」
大迫は無慈悲に言い放った。教師が生徒にする口ではない。しかしある意味でドライに聞こえる言葉選びも、大迫が教え子に真摯であることを強く示す。
「ですね。そりゃ大変苦労なさいましたね」
浅間は一応の同情を挟んだ。
「どうすれば変なあだ名とかやめてもらえたのかな。いじめって程じゃないかもしれないけど、辛かった」
「辛いと思っているならいじめだよ。そういう強い言葉を使いたくないのなら尊重するけど」
入間は三木に菩薩のような視線を向けた。ただ優しげで慈愛に溢れた表情というよりは、眉間に皺が寄った、悲哀を孕んだ憐れみの伴う瞳。
大仰に腕を組む浅間。三木に対して口は開かれた。浅間が舞台に上がった。
「良くない、それは良くないね。相談者様の気持ちはもちろん、相手の主犯格の生徒も良くない。むしろ彼が一番心配だ」
「心配?」
三木は見当違いかのような浅間の発言を繰り返した。聞き逃せなかったのだ、相談している自分が転校するきっかけになった人間への恩情に近しい言葉を。三木が相手の性格や生い立ちを詳しく説明したわけではない。やむを得ない理由なんてものもない。案じるに値する気持ちを持つにはこの話からでは難しい筈だ。だから疑問符を浮かべた。怒りや反発などの夾雑物の無い、単なる反射ゆえの台詞。
「ええ。つまり、当時の彼の実状は『三木さんを吊し上げて笑いや喝采を得ていた』というわけだ。これは非常にまずい」
「?」
変わらず分からない様子の三木に浅間は続ける。両端の二人も水を差しはしない。
「どういうわけかというと、まず人は何か目的や意図があって行動する。脳があるからですね、延いては自我だ。この行為を、君に侮蔑の言葉を送ったりすることが生き甲斐でどうしようもなくやめられないのなら、脳の欠陥や機能障害を疑うべきなのだろうが一旦この線は置いておこう。そしてだ、恐らく彼は一生懸命考えた悪口やタイミングを用いて君の失敗を何度も掘り返し指摘することで、大勢が笑うという稀な快感を欲しているのだよ。はじめは偶発的に起こったものであっても、それは間違いなく彼にとっての成功体験であり、知ってしまった以上、飽きるまで、効果がなくなるまで続けるだろう」
「そんな」
分かってはいても、その理不尽な行動倫理に三木は堪らなくなった。揶揄いたいから揶揄ったのではなかったのだ。浅間の言うことを鵜呑みにすればそういうことになる。件の彼は三木金彦という個人に過干渉した先にあるものの為に出張っていた。三木はその馬鹿馬鹿しさに歯軋りをした。
「これは彼が社会に出たときにひどく影響する。要は、誰か特定の人間を供物に捧げウケを狙うというのが染み付いてしまっているのだ。パブロフの犬さ。バスカヴィルでもカラマーゾフでもない」
すると入間の声が矢のように飛んできた。
「カラマーゾフは兄弟でしょ」
「あら。まあいいでしょう、わかりますよね」
三木はかぶりを振る。
「い、いいえ」
浅間は特段珍しくもない知識をさも得意げに説明し始めた。
「条件付けだよ。五感を用いて情報の刷り込みを行うんだ、早い話が紐付けさ。面白おかしく馬鹿にすれば、笑いが生まれる。けれどもこういったことは当然、社会規範としてはよろしくない。犠牲を前提とした成果なんて高が知れている。職場はもちろん、飲みの場などで一時的に笑いをとれたとしても、そういう人間としての認識が固定されてしまう。するとどうだ、信用を築くことは難しくなり、人間関係においての他者からの優先順位というものすら著しく低下するに至る。出世だって危ういだろう。デメリットのドミノだよ」
人を笑い物にするなんて歴史上当たり前のことだと思っていた。欠点という蜜に群がるのが人類の性だと。そういう図式に何の疑いも持ったことがなかった。三木は自身の酸素化した偏見に驚き、浅間の論に脱帽した。
勉学に秀でているかは分からない、IQが高いかは分からない。けれども三木にとって一つしか年齢の違わない先輩があまりに優れた人間に映った。巧みに口を使い、聞き手を操るような。そんな中でも不快さというものが少しも感じられない。
三木は過去の自分を見つめた。己の姿を凝視した。
「どうしたら良かったんですかね……」
曇る三木に浅間が告げる。
「長い目で見たらこの戦い、勝っているのは三木さんですよ」
「え?」
随分と拍子抜けするほどにあっさりと言ってのけた。浅間は眼鏡に外から差す陽の光を強く反射させていた。
「言ったでしょう、社会に出て苦労するのは件の彼だと。三木さんのように馬鹿真面目な人間の方が確実に煉瓦を積むということですよ」
「馬鹿真面目」
繰り返す三木。入間が浅間の頭を叩く。そうした中で、三木はやや俯きつつも申し訳なさそうに言った。
「でも僕は転校しました。逃げたんです、負けたんです。自分で解決出来なかった。だから、問題から目を逸らすことを選んだんです」
「はあ、あのねえ。それでいいんですよ。そもそも逃げることを勝ち負けという安直な二択に結びつけていることがナンセンスだ。その無意味な実直さというものはご自身の狭隘の証明にもなる」
先程勝ったと言ったのは浅間の方だ。
「とても良い選択と世間は判断してくれないと思うけど……」
三木が陰るとすぐさま浅間は大きく前のめりになり、どこからともなく出した扇子の先端を突きつけた。
「いいですか、現代に生を享け社会に生きているからそうした規範を考えてしまう。言ってしまえば三木さんはこの日本にいる以上、三大義務をしなければ罪悪感を感じる筈だ。それがまるで善悪や正誤の理と言わんばかりに。もちろん守ることは大切でしょう、この国で生きていくにはね。けれども同時にそれは自分と同じ“人”が作った仕組みであることを理解している必要がある。数えきれない先人達の手によって文明は築かれていき、今の社会が形成され、動いている。彼らが必要だと考え抜いたから出来た枠組みではあるにせよ、そのとき三木さんは発言権を持たなかったわけだ。当然ですよね、その時代には生まれていないわけですから。百年前も二百年前も千年前もまだ存在していない。しかし現代を生きる中では、既存の仕組みに従うしか人生を全うする術がない。生まれ落ちた現実世界のポイントによって窮屈さが決定されるようだ。ましてや周りは歴史や法律を遵守することを是とする流れが浸透し、常識として疑いを持たない。三木さんが辛いから逃げたい、学校から逃げたいと転校することを悪とする風潮が殆どなわけだ。自他共にね。よく掛けられる言葉として、宇宙の大きさに比べれば自分の悩みはちっぽけだ、なんてものがありますけどあれはまさしく真理です。辛い問題がその心の持ちようだけで解消されたりはしないでしょう、それで文句を言う人だって大勢いる、その気持ちも分かる。でもね、実際そうなのです。人類が後付けで加え続けた多量の足し算によって形作られた不可避の社会の構造、それから逸れる考えや行動が必ずしも悪と結びつく道理はないんですよ。あなたは動物として何一つ間違っちゃいない。生物は生命の持続、種の存続を最優先に動かなければならない。つまり過度なストレスや危険からは身を翻すのが“正しい”選択なんだ」
「に、逃げて褒められるんですか」
「少なくともあたくしは」
僅かに間を空けてから呟く三木。
「解決の為に努力して、成長することが必須だと思ってた。そうしなければいけないって」
頑張りというものを概念的に正義だと信じていた。頑張らないことを不義であり悪しきものとして疑わなかった。
「まあ逃避だって当人にとっては立派な解決の一つとも思いますがね」
目から鱗の助言に思えた。
「三木さんの自己嫌悪は無駄なんですよ。非生産的で何も変わらないし、自らの人生のパフォーマンスを下げるだけ。謳歌するべき残り時間を徒に消費してるだけのリスキーな無駄だ。きっとそれは排除すべきだとあたくしは考えます」
浅間はさらに続ける。
「敢えて言い表すなら、手頃な勝利とは転がっていないものです。不確定要素を除けば、人生というものは長い。長期戦です。いずれ挽回の機会は万人にやってくる」
それを聞いた入間が私見を挟み込む。
「勧善懲悪っていうか、点滴穿石的な考えね」
大迫も口は開かずとも概ね感心している表情だ。浅間は三木へ高らかに言ってみせた。
「今日、ネガティブとは別れを告げましょう。良かったじゃないですか、あたくしと出会えて、悩み相談部の門戸を叩いたから、こうして三木さんは最短で身の振り方を刷新出来るに至ったんだ」
「す、すごい、ですね……」
「こいつの大口は死ぬまで治らん」
大迫が言うと浅間は「大口は叩くくらいが丁度いいんです」と悪びれもせずに白い歯を見せた。入間が溜め息を吐くと、黙っていた三木が感銘を隠そうとしないで立ち上がった。
「僕、来て良かったです。胸がすっきりしたっていうのとは少し違うのかもしれないけど、浅間先輩みたいな人に初めて会って、なんかびっくりしましたっ。知的好奇心? が刺激されたみたいな……そう! 宇宙や深海みたいで知らないことがたくさんあるものに触れてるみたいな! とにかく、ありがとうございます!」
浅間は三木の怒涛の褒め殺しを真正面から受けて立った。そして鼻先を擦りながら訳の分からないことを言い切った。それは彼の個人的な報酬のようだった。
「浅間先輩だなんて。第一ここにいるあたくしは平怠亭一期。そうさな、師匠とでも呼んでください」
入間と大迫がひどく苦い顔をする一方で、三木はやけに晴れ晴れとしていた。