2章 久留間 涼
仕事帰りの車の中で
久留間 涼は、無意識にハンドルを握る手に力を込めた。夜の国道を走る車の窓には、疲れた自分の顔が映っている。
エアコンの微かな風と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが車内に響いていた。仕事終わりの帰路はいつも単調で、考えることといえば、明日の業務の段取りか、晩飯をどうするかくらいだ。
今日はどっと疲れた。商談はまとまったが、相手の要求を呑みすぎた気がする。まあ、こんなものか。自分の選択に後悔はない。そう言い聞かせながら、信号待ちでふと目を上げる。
その瞬間——視界の端に、夜空が弾けた。
花火だ。
意識していたわけでもないのに、目を奪われた。赤、青、緑、黄色——次々に開く光の輪が、黒い夜を鮮やかに染めていく。
(そういえば、今日は花火大会だったか。)
カーナビの画面に映る時計は、午後八時を少し回っている。花火の時間にしてはちょうどいい。
車を路肩に寄せ、エンジンを切った。窓を少し開けると、遠くからかすかな歓声が届く。
車の中にいるのに、まるで自分が花火の下にいるような気分になった。
こんなふうに、一人で花火を見るのはいつぶりだろう。
子どもの頃、家族と一緒に見た花火大会。
大学時代、友人と飲みながら眺めた屋上からの景色。
——そして、彼女と最後に見た花火。
思い出したくもない記憶が、不意に蘇る。
あのときは、確か柳花火が空に広がっていた。
音もなく降り落ちる光が、やけに寂しく見えた。
「今年の花火、綺麗だったね」
最後に彼女がそう言って、微笑んだ。
それが、別れの合図だった。
花火のように、一瞬の光を放って消えていった日々。
今さら、悔やんでも仕方ない。
久留間は、静かに息を吐いた。
目の前の夜空に、もう一度大きな柳花火が咲いた。
金色の光がゆっくりと落ちていく。
(綺麗だな。)
ただそれだけを思った。
——それだけを、思いたかった。
そのとき、不意に思い出す。
彼女と付き合っていた頃、旅先でアーバンスケッチをするのが好きだった。
海沿いのカフェ、夕暮れの街角、静かな寺の境内。
彼女が隣で笑いながら「ここにも色を足してみたら?」と言うたびに、色鉛筆の手が止まったっけ。
けれど、彼女と別れてから、絵を描くことも、何かを楽しむことも忘れてしまった。
帰ったら、久しぶりに描いてみようか——
そんな考えが、ふと浮かぶ。
エンジンをかける。
窓を閉め、アクセルを踏むと、音のない世界に戻った。
それでも、瞼の裏には、まだ柳花火の残像が焼きついていた。
次の信号を曲がれば、もう花火は見えなくなる。
だが、その色だけは、今夜の記憶として残る気がした。
——あの大柳は、赤、青、緑、黄色、いろんな色で綺麗に塗られていた。