一章 更科優
花火大会の前日、打ち上げ場にはすでに花火師たちの手が入っていた。風はやや強く、周囲の空気が乾燥しているのを感じる。
更科 優は、そっと頬をなでる風を感じながら、手に取った大柳の玉をじっと見つめた。指先がその冷たさを感じ取り、目を閉じる。その瞬間、わずかな重さが伝わる。今までの感覚が蘇り、頭の中で ‘丸’ の形が浮かぶ。
「問題ない、予定通りだ。」自分に言い聞かせながら、もう一度手のひらで玉を包み込む。
だが、心の中で何かが引っかかる。完璧に近いはずなのに、納得できない。自分の物に関しては、いつもどこかしらに不満が残る。今日は何もかもが予定通りにいっているのに、それでも何かが足りないと感じる。そんな自分の矛盾を、彼はもう長年抱え続けてきた。
「もっと軽く感じないか?」彼は無意識に、玉をさらに軽く感じるように調整する。指先を滑らせながら、微細な違和感を探し続けた。
周囲の音は静かだ。後輩たちは緊張している様子で、慣れない手つきでセッティングをしている。更科はそんな後輩たちを横目で見つつ、自分の大柳に目を戻す。その重さやバランスが、思った通りであることを確認しながらも、心の中では ‘完璧’ という言葉に耐えられなかった。完璧だと思った瞬間から、何かが崩れていく気がする。だから、無意識に悪いところを探す癖がついていた。
「ちょっとここをこうしてみ。」
後輩に言葉をかける、必要以上にセッティングには口を出さない。
それが、彼なりの教え方だ。
後輩が手を止め、彼の指示通りに動く。その様子を、何も言わずに見守る。
自分がセッティングして、自分で上げた花火がどんな出来になるのかは、予測できてしまう。その予測が ‘丸’ を感じさせない。だからこそ、彼は自分のセッティングをしない。
新しい発想を得るために、他の花火師がどうしているのかを見続けるのだ。
大会当日、朝から準備を進めながら、更科はふと自分の大柳に目を向ける。今年のものが、やっと形になったような気がする。それでも、心の中で「完璧だ」と思うことはなかった。それが彼の流儀だった。完璧だと思った瞬間、そこで終わってしまう。だからこそ、もっと追求したい。もっと良いものを。来年に向けて、すでに心は次に進んでいる。
「来年も、またやり直しだな。」
更科優は、改めて大柳を手に取り、少し微笑んだ。
火薬の匂いが鼻を突く。湿気を含んだ風が頬をなでる。更科 優は指先でそっと火薬の袋をなぞった。手の感触は想像通り。張りのある紙に包まれた黒い粉は、乾いていて、扱いやすい。ここまで順調だ。
その横で、若い後輩が緊張した面持ちで火薬の計量をしていた。
「……更科さん、これ、大丈夫っすか?」
声をかけてきたのは、入社3年目の後輩、田中だった。彼は計量器の針を指差して、更科を見上げる。
更科はちらりと覗き込み、火薬の量を確かめる。微妙にオーバーしているが、許容範囲だ。彼ならそのまま進めても問題ないだろう。
「……誤差の範囲だね。そのままでも大丈夫。」
「わ、分かりました!」
田中は緊張したまま、慎重に作業を続ける。その動作を横目に、更科は自分の大柳に目を移した。
手で持ち上げ、重さを感じる。想像と同じかどうか、手のひらで確かめる。揺れ具合、火薬の詰まり方、紙の張り——全て、頭の中で描いていた通りだった。だが、それでもどこか満足できない。
自分の作品に完璧などない。いや、完璧だと思いたくないのかもしれない。
「更科さん、こっちの導火線の長さ、これで大丈夫っすか?」
また田中が声をかけてきた。今度は少し自信なさげに導火線を指差している。更科は黙って手を伸ばし、その長さを測るように指でつまんだ。確かに少し短い。これでは意図したタイミングより早く火が回る可能性がある。
「……3センチ長いほうがいいんじゃない。」
「はい!」
田中は急いで修正を始める。その姿を見ながら、更科は昔を思い出した。
——入社1年目。親方に初めて教わった日。
「いいか、更科。火薬はな、ちょっとした違いで大きく変わる。お前の手で触って、感じろ。」
そう言われ、渡された火薬の詰まった紙玉を恐る恐る触った。親方はじっと更科を見つめ、続けた。
「お前の指は嘘をつかない。重さ、固さ、詰まり方——全部手で覚えろ。」
最初は意味が分からなかった。だが、何度も何度も作業を繰り返すうちに、ようやく分かるようになってきた。手で持った時の違和感。それが何を意味するのか。
——12年目。初めて親方のやり方とは違う花火を作った日。
「お前、これ……少し変えたな?」
親方はそう言って、大柳をじっと見つめた。更科の心臓は高鳴る。怒られるかもしれない。だが、次に親方が言ったのは意外な言葉だった。
「こうすれば、もっと良くなるんじゃないか?」
その一言が、更科にとって何よりも大きかった。
それから毎年、親方は更科の大柳に対して何かしらの助言をくれた。そして去年——
「良かったんじゃないか。」
ただ、その一言だけ。
(あの時、親方は何を思っていたんだろうな……)
更科はふと、作業場の向こうにいる親方の背中を見る。今も変わらぬ職人の姿。
今年も、何か言ってもらえるだろうか。
だが、それを期待している自分に気づき、かすかに苦笑する。そんなことを考えている時点で、まだまだ甘いのかもしれない。
「更科さん、導火線、修正終わりました!」
田中の声に現実へと引き戻される。更科は頷き、大柳の準備に戻った。
今年の花火が、どう見えるのか。それはまだ、夜にならないと分からない——。
大会当日。
夕暮れが迫る中、準備は着々と進んでいた。打ち上げ場には火薬の匂いが立ち込め、どこか湿った風が流れる。湿度は高めだが、風速は問題ない。悪くない条件だ。
更科 優は、大柳の仕上げに取りかかっていた。紙の張りを確認し、最後の導火線の配置を整える。慎重に、だが淡々と。
その横で、後輩の田中がソワソワと落ち着かない様子でいる。
「更科さん、今日って、やっぱり……緊張しますか?」
「俺はしなかなー。」
即答すると、田中は目を丸くした。
「マジっすか? 俺、ヤバいっす。失敗したらどうしようって考えたら、手汗が……」
「失敗はしないよ」
「えっ?」
「君の作った花火はちゃんと仕上がってる。なら、あとは上がるのを待つだけだよ。」
更科は手を止め、田中を真っ直ぐに見た。
「田中くん、君の仕事は、もう終わってるんだよ。」
田中はハッとしたような表情を浮かべると、ゆっくりと頷いた。
「……はい。」
それでもまだ緊張はしているだろう。だが、花火師の仕事は花火が上がる前に決まる。打ち上げる瞬間にできることは、もう何もない。
遠くで親方の声が響いた。
「おーい、準備はどうだ?」
「問題ありません。」
更科が答えると、親方は「そうか」と頷き、ちらりと更科の大柳に目を向けた。
「……お前の大柳、今年はどんな感じだ?」
「例年通りです。」
更科はそっけなく答えた。だが、親方はそれ以上は何も言わず、ただ笑った。
——夕闇が落ち、花火大会が始まる。
最初に上がるのは、オープニングを飾る連発花火。続いて、職人たちが仕掛けた様々な花火が次々と夜空に打ち上げられていく。観客の歓声が遠くから聞こえる。
更科の大柳が打ち上がるのは後半だ。彼は静かに、自分の番を待っていた。
そして、ついにその時が来る。
「大柳、打ち上げ準備——」
合図とともに、導火線に火がつけられた。
シュウウ……
燃え上がる火花が導火線を駆け抜け、火薬へと到達する。
ドンッ!!
轟音とともに、大柳が夜空へと駆け上がる。
(どう見える——?)
刹那、空に大輪が咲いた。
黄金色の火の粉が、ゆっくりと降り注ぐ。まるで風に揺られる柳の枝のように、優雅に、静かに。
更科は、じっとそれを見つめた。
(——丸い。)
思い描いた通りの形。火の粉の散り方、光の軌跡、すべてが想定通りだ。
そして——
「こういうやり方もあったんだな。」
背後から、親方の声がした。
更科の心臓が僅かに跳ねた。
親方の声は穏やかだった。それはつまり、今年の大柳が「認められた」ということだ。
更科は静かに夜空を見上げ続ける。
黄金色の火の粉が消えていく。
親方に認められた。だが、それでも。
(まだ、何かが足りない。)
夜空には、次の花火が打ち上がろうとしていた。
更科は視線を戻し、今年の形を頭に焼き付ける。
そして、その瞬間にはもう、来年のことを考え始めていた。