講和会議と東北統一
ここで私は、外交委員会に対して、一度中立国を介して講和条約を相手に送った。中立国には、山形と福島に依頼した。
しかし、福島には断られ岩手政府は、さらに福島を通じて
「これは侵略行為である。国境線を戦前に回復せよ。」と返してきた。
これに対して、我々は攻勢を強めた。結果として、南部の部隊は花巻までの進軍を果たし、そのまま盛岡周辺まで、敵を追い詰めた。ここまで来てもまだ、岩手政府の主張は、白紙講和であった。そこで、情報網を利用し降伏を飲むように仕向ける世論工作を行った。
この一か月後、岩手政府は、降伏した。講和内容は、以下のようになった。まず、秋田・岩手政府は、東北連合の下で再編を行うこと。また、秋田・岩手両政府は、東北連合に参加することが定められた。
戦争終結後、私は、更なる福島など南部の勢力に対抗するためより、関係を強めることを提案した。私には、同盟国の世論を操ってまでかなえたい野望があった。それは、東北を統一する単一国家を作り上げることだった。
私は、この会議で設立された東北連合議会に東北連合統一決議を発議した。内容は、東北連合参加国を北海道を中心とした連邦制国家として統一するという内容だった。この決議の可否は、各国の国民投票によって決めることとされた。
結果として、国民投票は、工作の影響もあり、各国で賛成多数の結果となり、決議は、可決された。私が東北連邦の元首となり、その下にかつての各県の元首が知事としてつくという形となった。
この統一によって国内通貨の統一や軍の再編などの問題が生まれた。
この問題の解決に取り掛かろうとしたとき、更に問題が起きる。講和会議の仲裁を依頼したとき以来関係改善に努めてきた山形で突如として内戦が発生した。更に、新潟・福島・栃木・群馬・茨城・埼玉による北関東条約機構が発足した。更に、この条約に危機感を感じた千葉と東京が首都圏連合を発足させるとこの波は、中部から近畿へと更にその先へと続いてしまった。この波に乗らなかった国もあるが東北の行動は、日本列島の情勢を大きく変えるものとなってしまった。
しかし、問題は一つ一つ解決しなくてはならない。まずは通貨の統一だがこれは、すぐに解決した。そこまで、経済格差はなかったので、既存レートを使い北海道通貨と同価値となる東北円を発行した。次の改革は、軍の再編であった。青森の艦隊を函館を本拠地として、日本海に展開させ岩手残存艦隊と宮城艦隊が太平洋側に展開する。拠点は、石巻、釜石、気仙沼の3拠点を拠点として展開する。函館艦隊は、ほかの海域への支援をするという形だ。内戦中ということもあり、現在は、山形沖に展開している。