政権奪取
政権の奪取に成功したが周囲の自治体からの非難の恐れなどもあるため外交に力を入れつつ私の支配を正当化する為に、一週間後に選挙を実施することを決めた。
一週間後に実施された選挙では、投票率60%で、私は80%の支持で政権を獲得した。
私は、まず政治改革を行うことを決めた。北海道には、一般的な条例しかなくこの条例も今までの汚職により、有力者に有利なものが大量に制定されている状態だった。そこで、実質的な憲法である北海道基本条例を制定した。これに伴い従来の条例は廃止され基本条例に則ったものが制定された。汚職により利益を得ていた有力者からの反発はあったものの民衆からは、支持が集まった。
政治改革の基盤を整えたが改革に乗り出す前に、軍の統合と、再編を行った。私は、全軍に私の指揮下に入るように命令を下した。陸軍部隊の大半は、指揮下に加わったが函館第一師団は、それを拒否した。海軍部隊は、沿岸警備用の魚雷艇などが将官によって盗まれる事態が起こったが航空部隊及び海軍は、全軍が指揮下に加わってくれた。そんな中でも一番の戦力を持つ函館艦隊がいち早く指揮下に入ったことで、陸軍の反抗も抑えることに成功した。
函館艦隊は、空母一隻、戦艦3隻、巡洋戦艦1隻、重巡5隻、軽巡9隻、駆逐艦16隻そして、潜水艦5隻に加えて、陸上戦力2,000人の歩兵を持つ北海道艦隊の主力であり、時刻はおろか周辺国の艦隊に勝る戦力と練度を持った部隊だ。
その函館艦隊が現在函館第一師団約10,000人の反抗した部隊と対峙していた。反逆者の方が兵力は多かったが岸壁に停泊した軍艦を要塞として利用して防衛したため膠着状態にあった。
それに対し、反抗軍は、五稜郭と函館山を本拠地として、抵抗していた。
その陣地に向けて、海軍の41cm連装砲をはじめとする武装が向けられていた。
札幌でのクーデターに参加した部隊は、鉄道を利用し函館へと移動した。函館へと到着した部隊は、駅周辺に展開すると、函館の一般市民に対して避難指示を出した。その頃、石狩などほかの港からもフリゲートなどの沿岸警備艦隊が向かい避難者を受け入れ輸送をした。
避難が完了すると、函館艦隊がまず、函館山の敵陣地へ砲撃と航空攻撃を開始した。何発もの砲弾が降り注ぎ指揮官が死亡したためこちら側にいた半数の部隊は、統率を失い突撃を仕掛けるものや投稿するものなど混乱状態に陥ってしまったのだった。
この攻撃により500人が死亡、1,000人が負傷し降伏、2,500人が降伏勧告に従い武装解除し投降した。
突撃を仕掛けた1,000人の敵軍は、函館艦隊に向けて攻撃を開始したが軍艦の高角砲や機関砲歩兵部隊からの攻撃により、全滅した。
五稜郭の反乱軍は、陸上軍により、包囲され最終的に降伏した。