三の三
鶯淑様はいつもそうしているように、陽春宮に備え付けられた四阿で外の風を楽しんでいた。
すると運悪くいたずら好きな突風が吹き、彼女の大切な手巾を陽春宮本殿の屋根上へと運んでしまう。
心優しい鶯淑様は「そのうち落ちてくることもあるだろうから、そのままで構わない」と言ったらしい。
しかし、玲寧だけは食い下がった。その手巾が鶯淑様にとって大切なものだと、彼女は知っていたのである。
そして周囲が止めるのも聞かず、裏庭から梯子を持ってくると一人でそれに登り始める。
瞬く間に屋根へ上った玲寧は手巾を見事取り戻すことに成功した――が、下りる途中で足を滑らせ、地面に頭から落ちて意識を失う。
なんともおっちょこちょいな話だ。
* * *
「それで意識を失って、ここで寝ていたわけね」
「そういうこと。地面にぶつかったときものすごい音がしたから、皇后様も心配してたよ」
「そう」
兎雨からの話を踏まえ、私は一つの仮説を導き出す。
柿島優羽は駅の階段から落下し、人生の幕引きを迎えた。
本来ならそこで全てが終了するはずだったが、何か目に見えない力が働いたおかげで、佩峠国の後宮官女である”玲寧”に転生する。
そして前世である柿島優羽の記憶は、今日の今日まで記憶の奥深くへ封印されていた。
ところが、事故で”玲寧”が頭を強打したことで事態は一変。優羽の記憶と自我が表に引きずり出され、現在に至るのではないか――と。
何とも奇想天外な話だと私自身も思う。
けれど目の前に広がる光景は、夢としてやり過ごすにはあまりにもリアルすぎた。
相変わらず頭はズキズキと痛むし、固い寝床の感触も、頭に当てられた冷たい布の感触も実にはっきりとしている。
極めつけは匂いだ。枕元に置かれた香袋から漂う白檀の香りは、玲寧の一番のお気に入り。
『青散る』の中で語られなかった脇役の趣味嗜好まで”知っている”という奇妙な感覚を、妄想と一蹴するにはいささか無理がある。
柿島優羽がドラマとして認識していた『青散る』の世界は、優羽が暮らす世界とは別次元に存在したパラレルワールド。優羽は死亡事故をきっかけにこの別次元へ飛ばされ、玲寧として生まれ変わった異世界転生者である――なんともぶっ飛んだ想像だが、私はこう結論づけた。
「玲寧。黙ったままでどうしたの? まだ気分が悪い?」
黙りこくったままの私を心配し、兎雨がその顔を覗き込んだ。
「ええ、大丈夫。ちょっと考え事をしていたの」
改めて「私は玲寧だ」と自覚した上で、兎雨のことを観察してみた。
するとどうだろう。先ほどまでは名前さえ思い出せなかった少女の、様々な情報が勝手に頭の中へ飛び込んでくる。
甘いものに目が無くて、厨房へしょっちゅう忍び込んでは料理人に叱られていること。
雷が大嫌いで、嵐の晩は絶対に玲寧の布団へ潜り込むこと。
おしゃべりが大好きで、噂を仕入れてくるのが得意な情報通だということ。
そして、誰にも話していない最大の秘密。
「いいえ、やっぱり駄目。まったく大丈夫じゃないわ」
「えぇっ! どうしたらいい?」
「兎雨、人にすぐ抱きつかないでと何度言ったら分かるの?」
「なぁんだ、そのことか」
「なんだじゃないの。私以外の人に男だとばれても、私は知りませんからね!」
「はぁい、気を付けます。とりあえず、玲寧の記憶が戻ったようで安心したよ」
ぺろりと舌を出しておどける兎雨のことを、私はジト目で見つめ返した。兎雨の態度はまったく反省していないときの態度だと、玲寧の記憶が言っている。
この可愛い見かけに騙されてはいけない。兎雨はれっきとした男性だ。
後宮の中でこれを知るのは、本人と私だけ。
兎雨の身長は五尺五寸ほど。男性にしてはそれほど高くはない。
細身の体躯に長い手足、童顔で色白、ぱっちりとした丸い瞳のお陰で女性と偽っても疑われることはなかった。
おまけに金糸が少しくすんだような髪色は、黒髪が主流の佩峠国では非常に珍しい。
それらの要素が合わさった結果、まるで西洋絵画から抜け出してきた天使のような、可憐な雰囲気をその身に纏っている。
きっと男の格好をしていても、男女問わず人気を博すタイプだ。
しかしどんなに美しい人物でも、官女がその身分を偽って仕えるのは、極刑に値する悪事。
兎雨は禁忌を冒してでも官女になる必要ある、複雑で込み入った事情を抱えているらしい。
兎雨と過ごす中で過去の私は彼の性別に気が付いたが、面倒ごとに巻き込まれることは嫌だったのか、兎雨の不正を黙認することにした。
過去の玲寧も随分と大胆なことをするのね――と考えたところで、いちいち”過去の”なんて前置きし続けることに嫌気がさしてきた。
今後は私も玲寧であるわけだし、優羽の記憶を取り戻すまでの玲寧のことは”旧式”と呼ぶことにする。
今の私は言うなれば”新式”玲寧。優羽の記憶を取り戻したことでアップデートされたとでも考えよう。
旧式だの新式だのと戦隊ロボットのような呼称だけれど、ややこしくなるよりはましだろうと私は開き直った。
目覚めて以降、私の心の中は嵐の中を彷徨っていた。
まるでジェットコースターのように、急旋回、急上昇、急降下を繰り返している。
しかし、「柿島優羽は死んだ。今の自分は玲寧である」という夢のような事実を受け入れてからは、不思議と心が落ち着いてきた。
それどころか心躍る気分ですらある。
だって、あれだけ大好きで仕方がなかった『青藍に花神散る』の世界にいるのだ。
しかも、大好きな鶯淑様がまだ生きている。
私の働き次第では鶯淑様の死亡フラグを回避することができるかもしれない。というよりも、それをしないと私も殺されてしまう。
一度死んで大好きな世界へ転生したと思ったら、その転生先でもすぐに死んでしまう――なんていう悲しい事態は絶対に避けたい。
元の世界へ帰れないならば、この世界でできることを自分なりに好き放題やってやろうと心に決めた。
(今度こそ私は生き抜きたい! そのためにいまの私がすべきこと。それは大好きな”推し”がいる世界で、”推し”を生かすために生きること。それしかない!)
そう心の中で決意したとき、脳裏に友の声が木霊した。
『ユウワが私の幸せを願ってくれるように、私もユウワの幸せを願っているよ。これから先、離れることがあってもずっとずっと願ってる』
もう帰ることはできない世界で聞いた親友の言葉が、私の心に温かな光を灯してくれる。
(エマ、ありがとう――。私、この世界で絶対に幸せになるから!)
決意も新たにぐっと拳を握り締めると、どこか遠くから「頑張れ!」と励ます明るい声が聞こえたような気がした。