一の四
――ごおん、ごおん。
遠くから鐘の音が響いてきた。政養殿の鐘の音だった。
六時間おきに打ち鳴らされる鐘の音は、仙玉で暮らす全ての民に正確な時を知らせる役割を担っている。
初めは政養殿、次に尊碧城の入り口にある大門、それから仙玉の街中にある時鐘所へと音の中継が続く。それぞれの場所には鐘打ち当番が待機していて、彼らは鐘の音が聞こえたら自分の鐘を打ち鳴らして時を知らせた。
今打ち鳴らされたのは正午の鐘。
その鐘は鶯淑へ別れの時を知らせる時報でもあった。佩峠国の掟によって、罪人の処刑は正午と決まっている。
「小秋子、時間だわ」
鶯淑はそう言うと、改めて小秋子が持ってきた盆の中身へ視線を向けた。
「命捨つるが惜しくなくば白布で首を括り、命捨つるが悔しくなくば短剣で胸を突き、命捨つるが疾ましくなくば毒を呷りて去ね」
鶯淑が諳んじてみせたのは、古くから佩峠国に伝わる故事の一節。自死する老人への餞に、仙女が語って聞かせたという話だ。
『白布で首を括る者は命さえ惜しまぬ勇敢な者として、短剣で胸を貫く者は死力を尽くした戦士として、毒を呷る者は嘘偽りなき聖人として讃えられるであろうから、後顧の憂いは捨てて死になさい』
仙女は老人にそう諭し、彼が穏やかにこの世を旅立てるよう慰める。
そしてこれは、皇帝が鶯淑へ伝えたいことにほかならなかった。
「皇帝陛下の厚情に、深く感謝申し上げます」
感謝の言葉が自然と鶯淑の口を突いて出る。皇帝の真意を理解し、鶯淑の瞳からは一筋の涙が零れ落ちた。
皇子殺し。鶯淑が犯したとされる罪は、斬首の上で晒し首となってもおかしくない罪だった。
にもかかわらず、皇帝は鶯淑自身に自死の方法を選択させてくれたうえ、鶯淑の希望通り、その看取りを彼女が信頼する官壬へ任せてくれている。
これらは全て皇帝から鶯淑への情けの証。
鶯淑の命を救うことは出来なくとも、彼女のことを気にかけ、彼女の命が失われることを惜しんでくれている。
そう感じることができただけでも、鶯淑は天にも昇る気持ちになった。
これまでに捧げてきた皇帝への愛情を、彼は彼なりの誠意をもって返してくれたと感じた。もう鶯淑には思い残すことはない。
鶯淑は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出すと言った。
「佩峠国の掟に従い、那成士鶯淑は此岸を去ります。佩峠国の弥栄を、伏してお祈り申し上げます」
政養殿がある方向に向かい、鶯淑は両膝を折った。胸の前で両手を握り合わせ、その両腕を頭上へと掲げる動きを三度繰り返す。
これは妃嬪が皇帝へ叩頭する際のしきたりである。三回繰り返すのは最上位の経緯を表していた。
これまでに幾度となく繰り返してきた動作も、これが最後かと思うと感慨深いものがある。ゆっくりと丁寧に、思いを込めてその動作を繰り返した。
一連の動作をつつがなく終えると、鶯淑は再び立ち上がった。
その表情はどこか晴れやかにも見える。
「小秋子、あとは頼んだわね」
「皇后様……。鶯淑様!」
「私の後を追ったり、自暴自棄に振る舞ったりしたら許さないわ! 私が去ったあとは宮中を去りなさい。そして可愛いお嫁さんを貰って、沢山子供を成して、よぼよぼのお爺ちゃんになってから私のところへ来るのよ」
小秋子はもう涙で顔がぐちゃぐちゃだった。そんな彼の表情を見ると、鶯淑も流石に目頭が熱くなる。
そして、最後に見るのが彼の顔で良かったと心の底から思った。
誰とも知れぬ官壬に冷たい視線を投げられながら死ぬよりも、心から自分を慕ってくれる者に惜しまれながら死ぬ方が、遥かに心穏やかにこの世を去れる。
鶯淑にとっての仙女は、小秋子であった。
「約束。ね、小秋子?」
「……善処、します」
この期に及んでも素直に「はい」と言わないのが小秋子らしい。
そのことを揶揄って遊んでやりたい気持ちにもなったが、これ以上の応酬はお互いに辛いだけだからやめた。
この続きは小秋子がお爺ちゃんになって、自分のところへ戻ってきてからにしようと心に決める。
何年、あるいは何十年先になるか分からない。
しかし弟のように思っている彼となら、いずれどこかで巡り合えるような気がしていた。
そして再会すれば、取るに足らない口喧嘩をまた繰り広げるのだろう。
鶯淑は盆の中から毒薬の入った小瓶を手に取ると、じっとその小瓶を見つめる。
翡翠でできた小瓶に、鶯淑は見覚えがあった。
今からもう十年以上前、鶯淑が汪明へ嫁いだ時、鶯淑の実家から朝貢品として一緒に宮中へやってきた舶来品の小瓶である。
嫁入り道具に命を奪われるとは、なんとも奇妙な縁があったものだ。
「あなたに命を奪われるなら本望よ」
鶯淑は誰にともなく呟いた。そしてもう一度、政養殿に向かって深く一礼をする。
「汪明様、鶯淑は幸せでございました」
そして、小瓶の蓋を開けると中身を一気に飲み干した。
* * *
後の世に、稀代の暴君として名を馳せる昭賢帝・蘇雁紅士汪明。
その最初の皇后の名は、那成士鶯淑。天上に咲く神の花、牡丹の化身とも呼ばれた、心優しい女性である。
昭賢七年、春。青藍の園に咲いた大輪の花は、今静かに、儚くも短い一生に幕を閉じたのであった。