一の三
鶯淑は未だ泣きすがる小秋子の腕を取ると、彼を優しく引き起こした。
「小秋子、私のために泣いてくれてありがとう。あなたのお陰で、私は泣かずにいられます」
「皇后様。俺は、俺は」
「あなたはいつも私に言ってくれたでしょう。『皇后たるものは、何があっても取り乱してはならない。常に虚気平心を以って万事に当たり、私欲を排し、温柔敦厚の気持ちで万民に等しく手を差し伸べよ』って」
佩峠国が建国されるより遥か昔。小雀という歴史家によって編纂された『万征記』という書物がある。その一節を小秋子は鶯淑によく語って聞かせた。
当時の皇后で、賢后としても名高い宇喜皇太后が後身へ語った言葉だという。
聞かされるたびにまたこの話かとうんざりしていたものだが、まさか役に立つ日が来るとは鶯淑も思ってもいなかった。
「あなたが私のために説いてくれた言葉のお陰で、今の私はこうして立っていられるわ。ありがとう、小秋子」
鶯淑はそう言うと、小秋子の涙を手巾で優しく拭った。半ば放心状態の小秋子は鶯淑のされるがままになっている。
「皇后様、俺はあなた様を死なせたくありません」
虚ろな目をした小秋子がぽつりと呟いた。
日頃は”私”と丁寧な言葉遣いをする小秋子が、珍しく”俺”と言い続けている。
「やめなさい。陛下の命に異を唱えたと誰かに知れたら、あなたの命もないわ。そうなったらもう、私でも庇うことはできないの」
「構いません! あなた様の冤罪を晴らすことができなかった俺など、万死に値します!」
再び大きな声が陽春宮に響き渡る。徐々に興奮していく小秋子に、鶯淑は戸惑いを隠せなかった。
「小秋子、黙りなさい! それ以上は私が許しません」
どうにか彼の言葉を封じようと、鶯淑は咄嗟に小秋子の口を手巾で覆った。しかし小秋子はその手を拒み、乱雑に彼女の手を跳ね除ける。
平素の彼ならば絶対に行わない行動に、鶯淑は目を丸くした。
「嫌です! 俺は認めません! 皇后様が賜死の命を賜ることは認められません!」
「小秋子」
「なぜ、陛下は信じてくださらないのですか? 皇后様が陛下のお子を害すなど、天と地がひっくり返ってもあり得ないことだというのに。虫すら殺せぬ御方が、どうして陛下のお子を殺すことなどできますか? これは陰謀です。皇帝は間違っておられます!」
身を引き裂かれんばかりの悲痛な叫び声だった。もしかすると、小秋子は鶯淑以上に鶯淑の死を恐れているのかもしれない。
彼以外の従者がこの場にいなくてよかったと、鶯淑は心の底から思った。今の発言を誰かに聞かれたら、間違いなく小秋子の命もない。
「もうやめて、小秋子。私はあなたには生きて欲しいの。そうでないと一体誰が、私の無念を晴らしてくれるというの?」
苦々しげに呟かれた鶯淑の一言に、小秋子はようやく冷静さを取り戻したようだった。傷ついたような表情で口を噤む小秋子に、鶯淑はさらに語り掛けた。
「あなたが私の真実を知っていてくれる。それだけで十分よ」
「しかし、皇后様。陛下と臣民のことを愛し、後宮の長としての務めを立派に果たしてこられた皇后様に対し、この仕打ちはあんまりです」
「そうね、そうかもしれない。けれど、これ以上陛下のことを悪く言うのはよしてちょうだい」
小秋子の汲々とした叫びを聞き続けることは、鶯淑にとってはこの上ない苦痛だった。耳に鋭い針を何本も何十本も押し込まれ続けるような不快な感覚が襲う。
皇后という地位を剥奪されたとしても、鶯淑が未だに皇帝のことを心から愛し、信頼している事実は変わらない。
部下として大事に思っている小秋子であっても、彼が皇帝のことを悪し様に言うのは許せなかった。
これまでの鶯淑と皇帝との幸せな日々すらも否定されるような気がして、いたたまれなかったのである。
小秋子の言うように、鶯淑は皇帝の子を殺していない。けれど、その真実は皇帝の目には真実として写らなかった。それが結果だ。
けれど鶯淑は真実が伝わらなかったとしても、己の真心だけは皇帝へ届いたと信じたかった。
きっと彼女に賜死の命を下したのだって、何かのっぴきならない事情があってのこと――。
そう自分自身にそう思わせることで、鶯淑はどうにか自我を保っている。
真っ直ぐすぎる小秋子の言葉は、そんな鶯淑の自我をずたずたに傷つけていく。これ以上は耐えられそうにもなかった。
「諦めましょう。枢密院がすでに決定を下したわ」
――皇后、那成士鶯淑は第一皇子の死後、皇帝との子を成せずにいた。嫡子を成すことができない焦りは、いつしか他の妃嬪への嫉妬に変わる。その結果、稚苑妃が産んだ第二皇子の存在を疎んじ、百祝の儀において皇子に毒を盛って殺した。
「たとえ真実とは異なろうとも、史書に記される事実はそういうことになったの」
鶯淑の淡々とした呟きは風にかき消されて消えた。
皇帝一族を調査し、裁きを下す部署である枢密院の決定は絶対だ。枢密院自体が皇族出身者で構成されるため、皇族にとって有利な事実が史実となり、不利な事実は闇の中へ葬られるのが暗黙の定め。
たとえ鶯淑が皇帝の子を殺していないとしても、彼らが殺したと言えばそれが事実になる。
そして一度決まったことは、二度と覆らない。枢密院の判断が下ったその日から、鶯淑は罪人としてただ死を待つのみの身となった。
唯一の救いは、最終的な決定が下るまでは陽春宮での謹慎のみで許されたこと。
本来なら身包み剥がされ刑部の独房へ送られるはずなのだが、皇帝から情けが掛けられた。
これまで何不自由なく過ごしてきた皇后が、寒くて汚い独房へ放り込まれるのはあまりにも不憫な仕打ちだと思ってくれたらしい。
しかし、それも全て今日で終わる。
「こうなったのは全て私の罪よ。至らなかった私の責任」
「皇后様のどこに罪があったと仰るのですか? 俺には理解できません」
小秋子はそう言って、力なく項垂れた。
鶯淑は気落ちする小秋子の肩を優しく撫でさすりながら、不意に空を見上げる。
日の光を受けきらきらと輝く青藍の屋根。美しくて大好きだったはずの陽春宮の青い屋根が、なぜか今はとても寒々しく見えた。
鶯淑の心の中を写し取っているようで、小憎たらしくさえ思える。
鶯淑は屋根から目を逸らすと、自戒するように低い声で言った。
「私の罪。それはね、人を信じすぎてしまったことよ」
そう呟いた鶯淑の脳裏に、一人の官女の姿がよぎった。
彼女に王子殺しの罪を着せたのは、彼女が信頼していた傍付き官女である。
鶯淑には分からなかった。鶯淑のことを姉のようだと言って慕ってくれていた官女が、どうして鶯淑へ牙を剥いたのか。
彼女が鶯淑へ向けた愛らしい笑みに、嘘偽りなどなかったと鶯淑は今も信じている。
しかし、彼女は鶯淑を裏切った。鶯淑を奈落の底へと突き落とす計画に加担し、見事にそれをやってのけたのだ。
「あの子の中に巣くう闇に私が気付いていたら……。私の人生も、結果が違っていたのかもしれないわね」
彼女は一体どんな秘密を抱えていたのだろう。それを鶯淑が救ってやることはできなかっただろうか。
いまさらそんなことを考えても栓なきことだが、どうしてもその考えが頭から離れない。
上手く彼女を救ってやることができれば、今頃は小秋子と彼女と三人で、いつものように談笑しながら温かいお茶を一緒に飲んでいたかもしれない。
ありもしない未来を想うと、鶯淑の瞳が僅かに潤んだ。
「あの女のことは、俺が必ず始末します」
一人感傷に浸る鶯淑の思考を、小秋子の言葉が打ち消す。
忌々し気に呟かれた一言は、彼が裏切者の官女のことを心から憎んでいることを物語っていた。
視線だけで人を殺せるとは、きっと今の小秋子のような目つきのことを言うのだろう。
「無駄よ。きっと彼女はもうこの世にはいないわ」
鶯淑は力なく首を横に振った。
一介の官女ごときが個人の意思で皇后を策にはめるなど、利の無いことをするわけがない。彼女は誰かに騙されるか、あるいは脅されるかして行動を起こしたはずだ。
そして今頃は鶯淑をはめた真の黒幕によって、彼女は口封じとして殺されたことだろう。彼女もまた、鶯淑と同様に皇子殺し事件の被害者だ。
私と関わったばかりに可哀そうなことをした、と鶯淑は思った。しかし今更そんなことを考えても、事態は何も変わらない。
これまでの旧情に免じ、彼女が苦しまずに逝けたことをただ祈るしかなかった。




