六の二
半ば引きずられるような状態で大庭園までたどり着くと、小秋子はようやく私の腕から手を離す。
握られていた腕を見ると、私の健康的に日焼けした肌にはくっきりと赤い手形がついていた。
こちらは女性なんですけど!? と思いながら恨めしげな視線を小秋子へ向けたが、彼はそれ以上にきつい目で私のことを睨んでいる。
「貴様! 何を企んでいる!?」
小秋子が吠えるように言った。
「いきなりなんですか?」
「聞いているのはこちらだ!」
彼は唸るようにそう言うと、私の体に何かを投げて寄越す。その物体はばさりと音を立てて、地面に転がった。
なんとなく嫌な予感を覚えながら、私はそれを拾う。
手にして中をめくった瞬間、さっと血の気の引く思いがした。
地面に落ちていたもの、それは紛れもなく私の日誌だ。
(噓でしょ! 小秋子のやつ、日誌を勝手に覗いたの!?)
日誌は旧式が寝る前に毎日付けていたもので、日々の雑事を記載してあるだけ。
誰に見られても問題ない程度の内容しか書かれていないが、本人の了承なく覗くなんて身勝手にも程がある。
「私の日誌を勝手に覗いたんですか!? ただの備忘録です!」
私が腹立たしげに呟くと、小秋子は明らかに馬鹿にしたように鼻で笑った。
「白々しいことを。では、この書き留めはなんだ!」
小秋子はそう言うと、私の前に一枚の紙を掲げた。
どうやら日誌から一部をちぎり取ったものであるらしい。
文章が目に入った途端、私は目を見開いた。
よりによって、小秋子が切り取ったそのページは、私がこの世界に関する知識を日本語で書き留めた部分だったのだ。
衝撃の目覚めの後、私はよりによって日誌の中に記憶を書き起こしていたらしい。
(迂闊だった! 兎雨が文字を読めないから大丈夫だろうと思って、机の中に置きっぱなしにしてあったのよね。まさか、小秋子が私の持ち物検査をするなんて、夢にも思わないじゃない!!)
反省しても遅いが、私は過去の自分の行動を呪う。
私が今いるのは、誰が味方で誰が敵かも分からない宮中の中。もう少し慎重に行動するよう心掛けるべきだった。
けれどいくら首席官壬とはいえ、官女の持ち物を本人不在の状態で調べる権利があるだろうか。
一歩譲って彼にその権利があるとしても、個人の、しかも異性の日記を勝手に読むなんて男としては終わってる。
(そんなんだから、鶯淑様にも将来を心配されちゃうのよ! この堅物石仏石頭の小秋子めっ!!)
なんて口走ったらとんでもないことになるので、私はぐっと堪えた。
けれどこの苛立ちは止めることができない。
「先ほど申し上げたとおり、備忘録です! そんなことより、他人の日誌を勝手に読むなんて、人としてどうかと思うんですけど!」
「黙れ! 私には、皇后様の安全を守る義務がある」
小秋子のこめかみに青筋が浮かぶ。
「訳の分からん文字を書き起こす不審者を、皇后様の傍へ置いておくわけにはいかない!」
「訳の分からんて……、確かにまあそうですけど」
「これは文字だと認めるんだな! これはどこの文字だ? お前は何者だ?」
小秋子の目が血走っていた。
ここにいるのが私でなく他の官女なら、今頃とっくに泣き出して、その全てを洗いざらい白状してしまうだろう。
そんな風に感じさせるくらい、強い怒気を小秋子は全身から放っていた。
例えるなら阿吽像のような、鬼の形相をしている。
しかし、私はそうはならなかった。
小秋子から放たれる怒気に恐怖しないわけではないが、彼程度を怖がっていては、この先の困難に立ち向かうことができない。
仕切り直すために、私は大きく息を吸う。
いっそ、「その文字は異世界の日本という国の公用語です。私は異世界からやって来た転生者だから、その文字が使えます」とあっさり白状してやろうかとも思った。
けれど、小秋子相手にこの方法が通じるかは疑問だ。
何せ相手は、堅物石仏石頭の小秋子。
昼に対峙した伏華様のように、柔軟な頭は持ち合わせていないだろう。
今のところ私と小秋子は馬が合わないとは言え、鶯淑様を救うには彼が欠かせない。
今回のことで溝を作ることは、私もできれば避けたかった。
(そう言えば、伏華様が一つ助言をくれたわね。)
私はふと、伏華様の去り際に交わしたやり取りを思い出す。
この言い訳が小秋子に通じるかは分からない。
しかし、真実を語るよりは彼の理解を得られるような気がした。
私は意を決すると、鋭い視線を小秋子へ向けた。
「小秋子様。申し訳ございません、実は隠していたことがございます」
「なんだ。やはり皇后様のお命を狙う刺客だ、とでも言うのか?」
刺客とはまた随分派手に出たな――と思ったが、静かに首を振るとさらに言葉を続ける。
「いいえ、違います! わたくしは、巫祝の見習いでございます」
力強い口調でそう言い放つと、一瞬、小秋子が怯んだように見えた。
「何っ? 巫祝だと!?」
小秋子の驚いた様子から見るに、彼は巫祝がなんたるかを知っている様子だった。
私の言葉に少しだけ眉をひそめたということは、もしかすると彼は信心深い方なのかもしれない。
もしそうであれば、この作戦、成功する可能性が格段にアップした。
私はにやりと笑いそうになる頬にぐっと力を入れ、至極真面目な表情を浮かべた。
「はい。巫祝の修業を終えるより前に後宮へ上がりましたので、巫祝の秘儀すべてを行うことはできません。しかし、つい昔の癖で巫祝の文字を使ってしまうことがあるのです」
「つまり、この文字は巫祝の文字だと言うのか?」
まるっきりのでたらめである。
けれど、今の私にはこれしか方法がない。私は力強く頷いた。
「はい。内容は『今日は風の強い日だった。皇后様の手巾が風で飛ばされてしまったから、私が屋根に上って取ることになった。途中、足を滑らせて梯子から落ち、頭を打って気を失っていたようだ。どうりで頭に瘤ができているわけだ。兎雨は、けちん坊が氷をくれなかったせいだと喚いていた。けちん坊とは、一体誰のことだろう? まさかとは思うが、小秋子様のことではないだろうか。後で兎雨に確認しておこう。もし本当にそうなら、彼女を叱らなくてはいけないから。』と書いてございます」
よくもべらべらと適当なことが淀みなく言えたものだと我ながら感心する。
人間、窮地に追い込まれると実力以上の力を発揮できるものらしい。
けれど、目の前にいる小秋子は私以上に驚いているようだった。目を白黒させながら、私のことを見つめている。
駄目押しとばかりに追い打ちをしかける。
「もしかして、小秋子様は私が巫祝であるか疑ってらっしゃいますか?」
「ああ、当たり前だ。巫祝は額に目模様の刺青を入れておられる。だが、貴様にはそれが見当たらないからな」
「ええ。私は見習いでございますから」
「ならば、何か証拠を見せてみろ! そうしたら、信じてやらなくもない」
小秋子がその一言を言うのを待っていた。
掛かったな――と言うのを堪え、私は心の中でガッツポーズを決める。
私が巫祝だと小秋子へ信じさせるには、私が伏華様と同じことをすればいい。
つまり、私が持つ「不思議な力」を彼に見せつけてやればいいのだ。
そして、それは意外と簡単な事だった。
「承知いたしました。私には物事を見通す力が、少しだけ備わっております。私はこれからその力を使って、あなた様の隠し事を暴いて差し上げます。お覚悟ください、狼藩様!」
「なっ!?」
小秋子があからさまに狼狽するのを尻目に、私は続ける。
「小秋子様。あなた様のご本名は、蘇雁紅士狼藩。皇帝陛下の甥御様でいらっしゃいます」
私がこれから語ることは、全て『青散る』の中で語られていた小秋子という官壬の設定だ。
「お母上は、皇后様の姉君であらせられる柳淑様。つまり、あなた様は皇后様にとっても甥御様に当たります。後宮に官壬として身を置くのは、皇后様の御身を心配したお母上から、お傍仕えを命じられてのことでございましょう?」
『青散る』にどっぷりはまっていた私からすれば、すべて当たり前の知識。
しかし小秋子は、この事実を周囲には伏して入宮している。
庇護の対象である鶯淑様ですら、このことは知らない。
このことを知るのは小秋子と、その両親である啓親王と柳淑様、小秋子の師匠の官壬だけである。
限られた者しか知らない隠し事を、私は「不思議な力」でいとも簡単に暴いて見せた。
信じられないと言った表情で私を見ている小秋子は、しばらくの沈黙の後、重い声で「他に何かあるか?」と訊ねた。
「皇后様のお命が、危険に晒されております!」
「なんだと……!?」
小秋子の眉間に僅かに皺が寄る。私はあともう一押しだと確信した。
「何者かは分かりませんが、皇后様のお命を狙う者がいます。私はそれを阻止すべく陽春宮へ参りました! 私は小秋子様と同じで、皇后様のことをお守りしたいのです!!」
「どうして皇后様のお命が危ないと知った?」
まさか「前世で彼女が殺されるのを見ました」とも「今世で、私が彼女を殺すように指示されています」とも言えない。
「私の力を使い、少し先の未来を視ました」
私はできる限り神妙な面持ちを浮かべた。
「私は力を悪用する気はございません。もし信じられないと思うなら、どうぞこの場で私のことを斬り捨ててください。ですが断言します。私が死ねば、皇后様の命も失われる」
「本当に、悪意はないと誓えるか?」
私の想いが少しは小秋子に通じたらしい。彼の眉間によった皺が少し和らいだ。
小秋子は徐々に私の話を信じ始めている。今の私にできることは誠心誠意、自分の想いを彼へ伝えるだけだ。
「もちろんです! もし私に悪意があるなら、小秋子様の秘密を悪用し、とうの昔にあなたを皇后様から引き離していることでしょう。それをしないのは、小秋子様が皇后様のお傍にいることが、彼女を守ることに繋がると知っているからです!」
ありったけの想いを述べると、私はその場に両膝を着いた。小秋子の前に身を投げ出すようにして土下座をする。
突然のことに、小秋子が狼狽えたような声を上げた。
「おい、何をしている!」
「小秋子様、お願いです! 私が皇后様のお傍に仕えることをお許しください。私は、皇后様を絶対にお守りしたいんです!」
私は天に祈った。
(頼む、小秋子! これで信じてくれ――!)
思わずぎゅっと目を瞑る。
多少のフェイクは交えているが、鶯淑様への忠誠心と、彼女を守りたいという志には嘘偽りがない。
小秋子だって私と同じ気持ちのはずだ。
この際、玲寧が少々胡散臭いことについては大目に見て欲しい。
縋るような気持ちで小秋子の判断を待つ。
ほんの僅かなはずの時間が、永遠に続くかのようにも思えた。
どれくらい経っただろうか。
小秋子が肺の中の行きを全て吐き出すように、ふぅっと重たい溜め息を付いた。
「分かった」
小秋子の承諾の声が聞こえて、私の体が震える。ビクビクと顔を持ち上げると、私のことを見下ろす小秋子と目が合った。
小秋子は諦めたとも呆れたともつかない、なんとも複雑な表情をしている。
けれど、これ以上玲寧を責めるつもりはないらしい。
彼の大きな手が目の前に差し出された。大人しくその手を掴むと私は勢い良く引き起こされる。
「うわっ!!」
ものすごく強い力だった。
私の体は勢い良く前進し、そのまま小秋子の体へ激突する。ドンッという音と共に追突した私を、小秋子は易々と抱き留めた。
痛みに呻き声を上げる暇もなく、私の顎を小秋子のもう一方の手が掬い上げる。
いわゆる、顎クイされたような状態だ。
小秋子の深い藍色の瞳と、私の薄茶色の瞳がかち合う。
(近い、近い、近いっ!! 小秋子が近いってば――!!)
私の頭はパニック寸前だった。
近くで見ると、小秋子がイケメンであることがよく分かる。
切れ長の一重の瞳は、彼の涼し気な印象を形作るのに一役買っているし、薄く形の良い唇は男性のはずなのにしっとりと濡れている。
女性から見たって、羨ましくなるくらいの色気があった。
小姑みたいな性格をしていると知らなければ、私だってついうっかり恋をしてしまったかもしれない。
不覚にも早鐘の如くなり始めた自分の心臓の音が、小秋子には聞こえていないことを願うばかりだ。
「いいか、琳貝士。私はお前の全てを信用したわけじゃない。しかし、お前の瞳に偽りがないことだけは分かった。だから、共闘してやる!」
甘い言葉の一つでも囁くのではないかという状況だったが、小秋子の口から吠えるように吐き出された言葉は、同盟締結の宣言だった。
甘い雰囲気すらすっぱりと斬り裂くその言葉に、私はむしろほっとした。
小秋子らしくて安心したのだ。
「十分でございます。私は、皇后様をお守りできればそれで構いません!」
「良いだろう。今後お前が不審な動きをしたら、私がお前を斬る。覚悟しておけ!」
小秋子の宣戦布告ともとれるその言葉に、私は黙って頷いた。
上等ではないか。小秋子はまだ、私の覚悟を十分に理解していない。
(いつかあんたに、「お前のおかげで助かった」って言わせてやるんだから――!)
突き放すように私を解放した小秋子へ、心の中であっかんべーと舌を出した。




