一の二
ここで少し、鶯淑について述べる必要がある。
鶯淑は、正式には那成士鶯淑という。
佩峠国第十一代皇帝、蘇雁紅士汪明の正妃にして、佩峠国唯一の皇后。臣民の国母たる存在。
彼女が十五歳の時、三つ年上の汪明に正室として嫁いだ。その七年後汪明が二十五歳の時に昭賢帝として即位すると、彼女も同時に皇后として即位する。鶯淑が二十二歳になった春のことであった。
以降は妻として皇帝である昭賢帝に尽くし、国母として王の子である臣民に尽くしてきた鶯淑。
その温厚な性格と慈悲深い態度をもって万民に接し、宮中の重臣たちはもちろん、国民からの信望も厚かった。
しかし今や、そんな彼女の地位は無情にも奪い去られた。後宮において最も皇帝の覚えめでたく、最も権勢を誇るとあだ名された陽春宮は、今まさに斜陽の中にある。
小秋子を除く官壬、官女たちは全て陽春宮から剝がされた。広い宮内に残るのは鶯淑と小秋子、ただ二人のみ。
食事の供給も絶えて久しい。厨に残った僅かながらの備蓄でここ数日を凌いでいたが、今朝それが全て尽きた。
宮内に井戸があるお陰で水に困ることはないが、水だけで命を繋ぐには限界があるだろう。
鶯淑を助けようと彼女の実家も必死になっているようだったが、それも今となっては間に合わない。それどころか、これ以上騒ぎ立てれば実家にも累が及ぶ。
そうなることだけは、鶯淑も避けたかった。
* * *
鶯淑は努めて明るい声で、未だ怒りに震える小秋子へ語りかけた。
「小秋子。持ってきたものを見せて」
小秋子は両手で一つの盆を抱えていた。
彼の体の震えに合わせ、盆の上に乗った何かがかちゃかちゃと音を立てている。早く鶯淑に中身を晒せと急き立てているようにも見えた。
小秋子が一向に動きそうもないので、鶯淑は彼女の白くて細い手を盆に掛けられた白布へと伸ばす。
「なりません、皇后様!」
小秋子は鬼気迫る表情で言った。咄嗟に身をよじり、鶯淑の手が白布に触れることを頑なに拒む。
その姿は玩具を取られそうになった子供が、玩具を取られまいと必死に駄々をこねているかのようだ。
「あなたが必死になるところを見るのは、とても新鮮だわ」
「何を呑気なことを」
「小秋子、大丈夫よ。中身は分かっているから」
幼子に言い聞かせるように、優しくゆっくりとした口調で鶯淑は言った。
「そんな顔をしないでちょうだい」
「私は今、どんな顔をしておりますか?」
震える声で小秋子が尋ねる。鶯淑は思わず、ふふっと笑みをこぼした。
「泣きそう。まるで子供みたい」
うっすらと笑みを浮かべる鶯淑とは正反対に、小秋子は目をぐっと見開き鶯淑のことを見つめていた。
しかしその両目は充血し、今にも大粒の涙が零れ落ちそうなほど潤んでいる。
彼の高い自尊心が泣くことを許さないだけだ。他の者ならば今頃とうに、わんわんと泣き声を上げていることだろう。
彼のいじらしさが、鶯淑にとっては愛おしい。
「せっかく腹を括って待っていたのよ。それなのに、あなたのそんな悲しそうな表情を見ていたら、私まで泣きたくなってしまうわ」
「皇后様も、もう泣いても良いのですよ」
照れ隠しだろうか。小秋子が唸るように呟いた。
けれど、鶯淑は首を振ってそれを否定する。
「いいえ、泣かない。だって私は皇后だもの。自由に振る舞うことは許されないわ」
鶯淑のその一言に、小秋子ははっと息を飲むと固まった。
そしてその一言が彼の心を突いた。彼は緩慢な動作で手を動かすと、盆を覆っていた白布をゆっくりと取り除く。
「陛下からの勅命をお持ちいたしました」
喉の奥から絞り出すような声で、小秋子が定められた口上を訥々と語り始める。まるで血の一滴まで絞り出さんとするような、低く重い声だ。
その言葉を合図に、鶯淑は座っていた椅子から立ち上がった。小秋子の前に両膝を折って跪くと手の平を鳩尾あたりで重ね合わせ、皇帝の命を聞くための姿勢を取る。
頭を深く垂れ、瞳を閉じた。
「昭賢帝よりの命である。皇后、那成士鶯淑から皇后の位を奪し、右の者に賜死の命を下す」
「謹んで拝命いたします」
鶯淑の返事はひどく淡々と響いた。
彼女は頭を垂れたまま両腕を小秋子の方へ伸ばす。そして彼から盆を受け取ると、改めてその両目で盆の上の品々を眺めた。
盆の上に載っているのは紐状の長い布、短剣、毒薬が入った小瓶の三つ。
賜死の命とはすなわち、皇帝が臣下に自死の命令を下したということだ。
「皇后様っ!」
悲痛な叫び声を上げ、小秋子がその場に膝を着いた。
彼の瞳からはとうとう、大粒の涙が堰を切ったように流れ落ちていった。重力に従って零れ落ちていく雫が、四阿の床にぽつぽつと染みを作る。
鶯淑は小秋子の姿を静かに見つめていた。
彼女は悠然とした佇まいを一切崩すことない。平時の彼女と、何一つ変わらないようにさえ見えた。
しかし、その本心は違う。
彼女の中には、これまでに感じたことが無いほど激しい感情の嵐が渦巻いている。
――なぜ私が。どうして。苦しい。悲しい。辛い。悔しい。死にたくない。
子供じみた駄々にも近い感情が浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返す。許されるなら大声を上げて叫びたかった。
「死にたくない! 陛下どうしてですか!?」とみっともなく取り乱してしまいたかった。そうすることができれば、この感情の渦をいくらか上手にやり過ごすことができたかもしれない。
しかし、そう思いながらも彼女はそうしなかった。否、できなかった。
名目上、皇帝によって皇后の身分を剥奪されたとはいえ、鶯淑は皇后としての自尊心までもは失っていなかった。
幼き頃から、皇帝に嫁ぎ皇后として生きることを宿命づけられて育った鶯淑である。皇后という衣は鶯淑にとって、その身分を剥奪された程度で脱ぎ捨てられるほど簡単な衣ではない。
鶯淑の双肩に掛かる”皇后”という称号は、彼女が自由に振る舞い自由に生きる権利を永久に奪い去った。
しかし同時に皇后という称号は、彼女がどんな状況に陥っても取り乱さず、己の二本の足でしっかり立ち続けられるだけの矜持を与える鎧でもある。
彼女は今この時も、紛うことなき皇后であった。