三の七
小秋子と兎雨が出ていったことで、鶯淑様の二人きりとなった。
鶯淑様は急に緊張したような面持ちを浮かべると、私に向かって話したいことがあると告げた。
「何かございましたか、皇后様?」
「昨日伝えそびれたことを伝えさせて」
彼女は高床式の長椅子から立ち上がると、私の真正面に立った。
「改めて、お礼を言わせてちょうだい。昨日は、危険を冒してまで手巾を取ってきてくれてありがとう。心から感謝します」
鶯淑様は言い終えるや否や、その場で膝を折ろうとする。
私は慌てふためいて、鶯淑様の膝が床に着くより先に彼女の腕を取って立ち上がらせた。
「おやめください、皇后様! 官女ごときに頭を下げてはなりません! あと小秋子様に見つかったら殺されますから、本当にやめてください!」
半ば強引に元の場所へ座らせると、私は大きく息を吐いた。
皇后である鶯淑が膝を着く相手など、せいぜい皇帝か皇太后ぐらいなもの。
一介の官女ごときにそのようなことをされてはバレたときに大変だ。本当に私の首が飛びかねない。
私の焦りが伝わったのか、鶯淑様は少しおかしそうに笑いながら頷いた。
「分かったわ。玲寧がいなくなるのは嫌だから、言葉での感謝のみにとどめます」
「そうしてください」
「けれどね、この手巾は本当に大事なものだったから、どうしてもあなたにお礼を言いたかった。昨日は小秋子に邪魔をされて言えなかったから、今日こそは絶対に! って思っていたのよ」
「そうでしたか」
「この手巾は私の母親代わりでもあった、柳淑姉様が作ってくださったの」
姉のことを想っているのだろう。鶯淑様は丸い瞳を優しく細めると、昔を懐かしむように身の上を話し始めた。
鶯淑様の母親は、彼女を産んですぐに亡くなった。柳淑様は鶯淑様より十三歳上で、幼い妹をとても可愛がってくれたという。
鶯淑様が幼いうちに啓親王へ嫁いでしまったが、折に触れては実家を訪れ、本来なら母親が教える礼儀作法を鶯淑様へ徹底的に仕込んだ。
ときに厳しく、ときに優しく。愛情深い姉のことが、鶯淑様は誰よりも大好きだった。
鶯淑様が嫁いでからは顔を合わせる機会が減ってしまったため、鶯淑様にとってあの手巾は姉の身代わりに近いものであるらしい。
「官壬や官女たちの手前、手巾は諦めるようなことを言ったけれど、本当は焦っていたわ。お姉様の思い出までなくなるような気がして、とても恐ろしかったの」
「大丈夫ですよ、皇后様。また同じことがあっても、何度だって私が取りに行きます!」
「ありがとう」
鶯淑は微笑んだ後、視線を手元へ落とした。
「でもね、あなたが梯子から落ちたときはもっと恐ろしかった。手巾を失うよりもずっと、あなたを失うことの方が怖くてたまらなかった」
意外な一言に心臓が跳ねた。
「後宮で信頼できる人を得ることは、後宮で出世することより難しい。私にはこれまで、小秋子にしか頼れる人がいなかったの」
淡々と語る鶯淑様の瞳には、どこかほの暗さが潜んでいる。
「けれど、あなたが陽春宮へ来てくれたおかげで変わったわ。私には信頼できる人が増えた。だから、あなたが梯子から落ちたときは心臓が止まるかと思ったのよ! 死んでしまったらどうしようって考えたら、涙まで出てきたんだから」
「皇后様――、もったいないお言葉です」
推しが己の身を案じ、大切な手巾よりも己の命を惜しんでくれた。
これ以上の喜びが他にあるだろうか。
私が一人喜びに打ち震えていることなど、鶯淑様は知らない。
「玲寧。あなたという信頼できる官女を得ることができて、私は本当に幸せです。これからもよろしく頼みます」
鶯淑様の力強い視線が私へ一心に注がれる。
私は無意識のうちにその場へ跪いた。
「承知いたしました!」
涙が零れ落ちそうになるのを必死にこらえながら、しっかりと鶯淑様の顔を見つめる。
鶯淑様は笑顔を浮かべていた。
大輪の花が綻ぶような華やかさと、慈愛に満ちた優しい眼差しが私に注がれている。その神々しさはまさに天上の花、牡丹を冠するに相応しい。
牡丹の花を「花神」と一番最初に表現した人も、きっと今の私と同じように幸せに満ち溢れた気持ちでいっぱいだったことだろう。
佩峠国の花神を目の前にして、私は決意を新たにした。
「皇后様、今改めてここでお誓い申し上げます。この琳貝士玲寧、全身全霊をもって皇后様のためにお仕えし、皇后様のためにこの命をお捧げいたします!」
口にしたことで確信した。玲寧も、優羽も、鶯淑様のこの笑顔を守るためにここにいる。そのために生まれ変わったのだと。
(私はここで生きる。青藍に推しが散るなんてこと、絶対に許さない――!)
試合の幕は今静かに切って落とされた。




