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一 『青藍に花神散る』

 青々とした空が白く見えるほど、その城の青は深く美しい色をしていた。

 佩峠国はいたおこくの首都、仙玉せんぎょく。そこにある尊碧城そんへきじょうは、佩峠国の初代皇帝である蘇雁紅士喜擽が贅を尽くして築城した平城である。

「碧」という言葉が表すとおり、城の屋根は見渡す限り全て青藍色に覆われている。

 塗料に螺鈿らでんが混ざっており、日の光を受けるときらきらと光り輝く。その様子はまるで南海の波間のきらめきのようで、見る者の目を楽しませた。

 尊碧城は東西の長さが四百間は越える、非常に巨大な平城である。高く堅牢な城壁の周りには大きな堀が張り巡らされ、難攻不落の城と渾名された。

 この城の中には皇帝が政務を執り行う政養殿せいようでんを皮切りに、皇帝の居所、皇帝が擁する妃嬪の居所など様々な施設が設けられ、数え切れぬほど沢山の人間がこの城の中で生活を送っている。

 尊碧城の北西、皇帝の政務室兼居所である政養殿のすぐ近くにある陽春宮ようしゅんぐうに居を構えているのが鶯淑おうしゅくである。


 彼女はいつもそうしているように、今日もまた、陽春宮の四阿しあで一人物思いに耽っていた。四阿に備え付けられた陶製の腰掛に座り、瞳を閉じてじっとしている。

 青と白を基調とした陶器の色合いは、彼女が着ている薄黄緑の着物によく映える。彼女自身の美しさも加わり、さながら書画に描かれた美女のような神々しさを放っていた。

 この陽春宮を皇帝から賜って以降、鶯淑はこの四阿で過ごす時間を大切にしていた。瞳を閉じて世界に耳を澄ませると、瞳で見るより遥かに多くの情報を受け取ることができる。

 例えば今、鶯淑の頬を優しく撫でていった柔らかな風。ほんの二、三日前までは外を少し散歩するにも上着が手放せなかったというのに、今し方過ぎ去った風は確実に春の暖かさを孕んで吹き抜けていった。

 よくよく耳を澄ませば、遠くから鳥の囀りも聞こえる。「ケキョケキョ」という未熟な鳴き声は、春の訪れをどう告げるか悩む鶯の声だろう。

 あと数日もすれば立派な美声をあちこちに響かせるに違いない。

 風は音だけではなく匂いも運んだ。微かに香る青臭い薫香は、木々の芽吹きを鶯淑へ知らせる。

 鶯淑の大好きな春が訪れた。そのことが妙に嬉しくて、鶯淑の唇は緩く弧を描いた。

 目に見えるものだけが全てではない――と鶯淑は思っている。

 だからこそ、目以外の五感で感じる全ての事象に集中し、その一つ一つに注意深く意識を向けた。

 そうすることで、そのどれもが愛おしく大切なもののように感じられるのだ。


――コッ、コツ、コッ、コツ。

 この独特な足音でさえ鶯淑にとっては大切な音だ。ある官壬かんじんの足音である。

 官壬とは尊碧城に仕え、尊碧城で暮らす人々のために雑用をこなすことを職務とする男性のことを指す呼び名。

 皇帝の側で日常生活を補助する侍従じじゅう大官たいかんから、果ては汚泥処理を行う浄処じょうしょの桶運びの官壬まで。彼ら多くの官壬の努力のおかげで、巨大な城での生活が支障なく回る。

 官壬は妃嬪の宮にも数名ずつ仕えている。宮付きの官壬たちは、共に仕える官女たちではできない力仕事や雑用を任された。

 宮中にある沢山の雑事をこなすため、常に忙しく動き回る官壬たちの足音は必要以上に大きくかしましい。特に足音が大きい官壬などは「一間離れていても、官壬が近づいてくるのが分かる」と揶揄されるほどだった。

 本当に忙しくて足音に気を配る余裕もないのか、それとも宮中で働いている威厳を示すためなのかは知らないが、どたばたと足音を立てて動き回るのは彼らの流儀であるようだ。

 宮中へ入ったばかりの新入りから、要所の長を務める官壬まで。みな教えられずともやってのけるのだから、大したものである。

 その点、鶯淑に近付いてくる官壬の足音はその流儀から大きく外れた、随分と淑やかな足音を立てていた。

 まるで妃嬪が底高の馬蹄底靴を履いて歩く時のような、静々とした足運びである。

 鶯淑はその官壬の生まれも育ちも詳しく知らない。何度聞いても彼は言葉を濁して答えてくれなかったので、いつしか鶯淑も彼の出自を聞くことは諦めた。

 それでも彼の足運びは育ちの良さを雄弁と語っていたから、彼を上品に育て上げた母君を、鶯淑は心の内で秘かに称賛してやまなかったのである。

 鶯淑から一尺ほど先でその足音が止まったのを合図に、鶯淑はゆっくりと瞳を開いた。


小秋子しょうしゅうし、待ちくたびれたわ」


 鶯淑に声をかけられた官壬は彼女の方へ一歩進み出ると、恭しく一礼をした。

 その態度とは裏腹に彼の切れ長の瞳は薄く細められている。鶯淑のことを非難がましい目で見ていることは、誰が見ても一目瞭然だった。


「皇后様、またこのような所に薄着でおられるとは。お身体を冷やすからお辞めくださいと、何度も申し上げましたでしょうに」


 小秋子はわざと鶯淑に聞こえるように、深く重々しい溜め息をついた。

 小秋子は見た目が二十代中程の、精悍な顔付きをした男性である。瞳は深い藍色をしていて、すっと通った鼻筋と細い顎が彼の美男ぶりに拍車をかけている。

 身長は六尺二寸ほどあり、細身でありながらしっかりとした筋骨を備えていた。

 官壬の象徴である坊主頭をしていなければ、恐らく多くの女性が見惚れる男前であるに違いない。

 しかし一方で、彼の内面にはやや難があると鶯淑は常々思っている。まるで口うるさい小姑のような性格をしているのだ。

 彼が鶯淑に仕えるようになって大分経つが、真面目な性格であることも災いしてか、小言っぽい性格は年々厄介さを増していく。

 彼は特に、鶯淑が四阿でぼんやりと過ごすことがお気に召さないらしい。

 やれ「体を冷やす」だの「後宮の主のすることではない」だのとぶつぶつ言って、鶯淑を四阿から体よく追い払った。

 他にも鶯淑が食事の好き嫌いをしようものなら「作物を作った民のことを思え」と叱責するし、責務をちょっとでも怠けようものなら「それで天へ顔向けできるか」と叱咤する。

 何一つ物怖じしない彼の態度には、他の官壬や官女たちのほうがびくびくと怯えるほどだった。誰彼構わずそういう態度が発揮されるのだから、みんなたまったものではなかった。

 そんなわけで、彼は見た目に反して女性受けがすこぶる悪い。

 美男子の官壬なら浮いた話の一つや二つあって当然なのに、小秋子の周りには一切聞こえてこなかった。堅物と陰で言われていることを、本人は知らない。

 ところが、鶯淑はそんな彼を重用していた。

 確かに彼は口うるさくて、それがあまりにも続けばうんざりすることもある。しかしその根底には、彼の誠意と真心がこもっていることを鶯淑は理解していた。

 欺瞞や虚栄の渦巻く後宮にありながら、真正面から真っ直ぐに言葉をぶつけてくる小秋子の存在は、鶯淑にとってはかえって清々しく感じられた。

「平然と嘘をつき、自分に媚びへつらう官壬よりも、口うるさい小秋子の方がずっと信頼できる」と言って、鶯淑は小秋子のことを傍へ置いた。

 しかし、この愛すべき小姑のお小言も聞き納めかと思うと、鶯淑は少し寂しい気持ちになった。そんな気分を紛らわすように、努めて明るい声で鶯淑は言った。


「いつもその台詞なのね。他に言うことはないのかしら?」


 鶯淑がわざと厭味ったらしく、ねっとりとした口調で言っても、小秋子の表情は涼しいままだった。


「皇后様の御身を健やかに保つこと。これこそ宮付き官壬の職務でございます。しからば、皇后様にお掛けする相応しき言葉を他には持ち合わせておりません」


 相変わらずの正論っぷりに、鶯淑はぐっと言葉を詰まらせた。

 思わずあかんべえと舌を出しそうになる気持ちを、唇の端を軽く噛むことでどうにか抑える。


 鶯淑は良家の子女の生まれである。

 将来、良き夫人となるために必要な知識や教養を幼い頃から学び、皇帝の妻となるべく研鑽を重ねてきた。

 女子の心得を説いた「女人訓抄」を手始めに、詩歌に筝、手芸に絵画。普通は女子が読むことの無い歴史書も少し齧ったし、武人として名を馳せる兄の勧めもあって馬術も嗜んだ。

 他家の子女と比べても遜色ない、あるいはそれ以上の知識を身に付けてきたのである。

 ところが才色兼備と名高い彼女の教養をもってしても、目の前の小秋子には敵わなかった。

 鶯淑が彼を言い負かすべく舌戦を挑んでも、いつもひらりと躱され、軍配は常に小秋子へ上がる。

 一度でいい。小秋子に勝つことが、鶯淑の秘かな目標の一つだった。


「さあ、皇后様。身体が冷え切る前に、お部屋へ戻りましょう」


 この時すでに、小秋子は鶯淑を打ち取ったつもりでいた。

 自分の言葉に二の句を告げないでいる鶯淑を見て、彼女が自分の注進に従ってくれると踏んだのである。

 けれどそれは大きな誤り。鶯淑は最期の牙を剥いた。


「冷えたって構わないわ。だた、死を待つだけの身よ」

「皇后様!」


 小秋子にしては珍しい大声が、静寂に包まれた陽春宮の中に響き渡った。

 彼はひどく焦ったような表情で、鶯淑のことを咎めるように見つめている。握りしめた両手がぶるぶると震え、真っ赤に染まった顔はの石榴の実よりも赤かった。

 予想外の小秋子の反応を見て、鶯淑もまた驚いていた。しかしこちらは、どちらかというと喜びのそれに近い。

 こんな状況下で不謹慎だとも思ったけれど、こんなにも素直に感情を顕わにする小秋子の姿を初めて見た。

 いつもどこか斜に構え、仲間とも一線を引いているように見えた小秋子の感情が、すぐ目の前に剥き出しにされている。

 ああ、こんなにもすぐ近くに小秋子はいた。そしてこんなにも真っ直ぐに自分のことを思ってくれていた。

 生きているうちにそれを知ることができた。鶯淑にとってこれ以上の喜びはない。


「本当のことを言ったまでよ」


 鶯淑が初めて放った小秋子への勝利宣言は、彼女の心の内とは裏腹に冷たく乾いたものだった。

 小秋子は鶯淑の言葉に尚も反論できず、血が滲みそうなほど強く唇を噛み締めている。

 平時に彼があんな大声を出せば、鶯淑の傍付き官女がびっくりした表情で室内からまろび出てきただろう。しかし、待てど暮らせどその気配はない。

 陽春宮はしんと静まり返り、鶯淑と小秋子以外、誰の息遣いも聞こえない。


「小秋子、私はもう廃后となったの。分かって」


 廃后。それすなわち、後宮において皇后がその地位を剥奪されたという意味であった。

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