後悔
妻の沙織と離婚して2年になる。
別れた原因は色々あって、最終的には彼女の不倫が決め手とはなったが、それ以前に私のモラハラ行為が取り沙汰され、双方に問題ありとの判断で慰謝料などはお互いに請求せず、お互いに二度と会わないという約束を取り付け、離婚届にサインをした。
男女の機微を取り沙汰するに、必ずどちらか一方を悪く言いたがる人達が大勢いる。
例えばDV被害者やアルコホリックの共依存者が自分の自信を取り戻そうとする過程で相手を悪く考えることはとても大切な事だとは思うが、何故か関係のない第三者が尻馬に乗って人の事を悪く言いたがるのかは理解に苦しむ。
私が二人きりの夫婦生活で彼女をひどくなじった音声は録音されており、沙織がそれを皆に公開したため、大勢の人がそれを耳にし、私はいろんな人からずいぶんと悪く言われたものだ。
結果として私は先方の家族からは毛虫のごとく嫌われ、二人の共通の知人の多くは沙織につき、私の両親も「育て方を間違えた」などと言って半ば絶縁状態となった。
私は仕事もうまくいかなくなり、職を変え、私の事を誰も知らない郊外へと一人引っ越した。
けれどもこれが結果として自分の人生に良い影響をもたらすことになるとは、世の中とは本当に不思議なものである。
私は実家住まいからそのまま沙織との夫婦生活へと移ったから、この歳になるまで一人暮らしをした事がなかったのだ。
一人になってみて初めて、色んな事が見えてくる。
私はずっと一人になりたかったのだ。誰とも関わらず、たった一人で静かに暮らしたかったのだ。
過干渉な両親に実は嫌気がさしていたし、べたべたと関わってくる前職の同僚などはうんざりしていたし、上っ面だけの付き合いを強要する知人・友人という人達も息苦しかったし、何より沙織と二人で同じ家に暮らすこと自体が色々辛くて仕方がなかったのだ。
一人で生きたい人間が自分を偽って無理に他人と関わろうとして、色んな所に迷惑をかけていたのだと、遅まきながらこの歳になってようやっと気付かされた。
それでようやっといろんな気持ちに整理がつき、自分自身のこれからの人生を少しずつ前向きに生きる決心がついたのは最近の事である。
私は初めて、沙織に対して申し訳ない事をしたと『後悔』することが出来るようになっていた。
思えば彼女は犠牲者だ。子供のころから共同生活というものが苦手だった私に彼女は辛抱強く付き合い、よく考え、色々努力してくれていた。
それらの全てを私は一方的に非難し、腹を立て、拒絶をした。
私はただ伝えればよかったのだ。どうしようもなく、人がそばにいるだけで息苦しいのだと。ただただ一人の時間が恋しいのだと。
どうしようもなくずっと一緒の生活が出来ないのだと。
たったそれだけの事を伝えることが出来れば、例えば別居婚だとか、週末婚だとか、お互いに適切な距離を得られて今でも仲良く出来たかもしれない。
あるいは円満に離婚することが出来たかもしれない。
「死に至る病」とは孤独を表す言葉ではあるが、この私の『後悔』もまた、孤独を味わうための最良の友であるように思える。
私は間違えた。
私は間違え続けた。
それで彼女は嫌気がさし、私のもとから離れていった。
それで良いのだと思う。
むろん私自身が一方的に悪かったなどとは私も思わない。
彼女が私の知らないところで別の男性と懇意にしていた件は歴然とした事実であり、私達がお互い適正な関係性を築くための努力を放棄したのは、間違いなく彼女の方が先であろう。
だからこれはどちらが悪かったという話ではなく、お互いに少しばかり『後悔』しつつ、これからは全く別の人生を歩みましょうという話なのだろうと思う。
さて、ところでここから先が本題なのだが、これはつい先日の事である。
私が最近の趣味になってしまった夜の散歩をしていると、目の前で交通事故があった。
荒川近くの人気のない麦畑をのんびりと歩いていると、ものすごい勢いで私を追い越していったスポーツカーらしき車が、そのまま少し先のカーブを曲がり切れず、ガードレールにぶつかって大破した。
今どき流行りの外国メーカーの高級電気自動車。たまたま興味があり少し調べていた車種だったから、思わず見惚れてしまい、そのまま最後まで見続けてしまった。
辺りは見渡す限り誰もおらず、私一人が目撃者であった。
それで、助手席をこじ開けるようにして出てきた人物を見て、思わず声を上げてしまった。
別れた元妻の沙織だった。
奥の運転席には、沙織の今の夫だろうか? 恋人だろうか? 男性がエアバックに顔をうずめ、ピクリとも動かずにぐったりとなっている様子もうかがえた。
何故沙織がこんな埼玉の片田舎に?
彼女は私と別れた後、都心の方へ引っ越したと聞いている。その後私自身も引っ越しし、私達はお互いがどのあたりに住んでいるかも全く知らないのだ。
恐らく沙織と連れ合いの男性は、夜のカー・デートかなにかでたまたまこのあたりをドライブしに来ただけなのだろう。
驚くべき偶然の再会であった。
沙織は声を上げる。
「誰か! 誰か助けてください! 誰か!」
気が動転しているのだろう。ともかく声を大きく叫び出す。
その様子が私にとってはなんだか奇妙な光景に思えた。
沙織はまずは自分のスマートフォンを使って110番通報するべきではないだろうか? なぜ真っ先に他人に助けを求めているのだろうか? 最初にすべきことが違うのではなかろうか?
それでふと我に返る。
私が自分のスマホで110番通報すれば良いのではないか?
だが何故か私はそうする気になれなかった。
ただただ、その場で彼女が泣き叫ぶ様子を眺めるばかりであった。
そうして1分も立った頃か、彼女が「あっ!」と声を上げた。そして私の方へと指を差した。
暗い夜道、辺りは街灯もまばらで、私は影のようなところにいたから、沙織の方からは最初はこちらが分からなかったに違いない。それが目を凝らすことによってそこに人がいることに気付き、その姿を認めた瞬間に彼女は私が誰だかまで気付いたようだった。
「隆!? 隆なの!? 私よ! 沙織よ! お願い! 助けて! 助けて! 足が痛くて動けないの! このままじゃ死んじゃう! 助けて! 助けて!」
見れば沙織の足は不自然な方向に折れ曲がっており、地べたに這いつくばるようにして腕だけで身体を起こし、そこから一歩も動けないようであった。
無我夢中で車内を飛び出し、けれどもそれ以上は身体が言うことをきかなくなったのだろう。
私は。
私は何故だか、彼女を助ける気にはならなかった。
目の前で交通事故が起こり、沙織自身は命にまでは別状がなさそうだが、奥の男性は危険な容態に見える。もしかしたらもうすでに息を引き取っているかもしれない。
だからどうした?
「助けて! 助けて!」
沙織の悲痛な叫び声が響く。
だが、私に彼女を助ける義務はあるのだろうか?
私と彼女は別れた。
私は今でも自分に問題があったと思っているし、こんな私とたとえ数年だけでも夫婦としてともに暮らしてくれた沙織は素晴らしい女性だとも思っているが、私達は今や赤の他人となったのだ。
私が風邪や病気で苦しい思いをしても彼女が助けてくれることはなくなったのだし、それで私は今年の冬に3日間寝込んだ時に、とても辛い思いをした。
この先たった一人で生きていくとはこういうことだと理解するのに時間がかかったが、それでも最近になってようやっと納得したところなのだ。
だからこそ、彼女が辛い思いをしてももう私が手助けできることは何もないのだ。
例え目の前で交通事故に遭っていても。
私達は赤の他人になったのだ。
私はもう二度と沙織とは関わらないと、どんな理由があろうともこの先死ぬまで縁のない人生を送ろうと、それだけは心に強く誓ったのだ。
この地球上で、沙織と私はいっさい接点のない赤の他人になると、そう心に誓ったのだ。
「お願い! 隆! 私このままじゃ死んじゃう! 助けて!」
背後から沙織の追いすがる声が聞こえる。
私は、いつの間にか踵を返していた。
街灯も数えるほどしかない暗い田舎道を、自宅へ向けて足を動かした。
「お願い! 待って! 見捨てないで! 私が悪かったから! 助けて!」
なんだろう? 彼女が何かを言っているが、いまいち意味が分からなかった。
悪かったのは私だし、見捨てられたのも私だ。
私が愚かだったのがいけないのだ。
「助けて! 助けて!」
どうして彼女は赤の他人に対してそんなに必死になれるのだろう? 地球の裏側に住む言葉の通じない人間に助けを求めてもどうにもならないことが自明なように、別れて赤の他人になった元夫がどうにか出来る事だって何もないのだ。
だって私達は、もう二度と関わらないとお互いに約束をしたのだから。
裁判所を通じて、離婚調停の時に確かにそうサインしたのだから。
電気自動車の電池は危険度の高いリチウムイオンから安全度の高いリン酸系などに置き換わっているそうだが、どのみち発火、爆発の危険性はなくなっていないらしい。
しばらくしてものすごい爆音が鳴り響き、振り返ると遠くの方で車が激しく燃えていた。
沙織の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
ずいぶんと後になって、彼女が交通事故で亡くなったという話を人づてに聞いた。
通夜はそれなりに盛大に行われたようなので、今でも私と付き合いのある知人のうちの一人がこれに参加しており、何かのきっかけでこの事を私に教えてくれたのだった。
「てっきり隆は知っていたかと思ったよ」バツが悪そうにそう言う知人に「気にするな」と返事をしつつ、すぐさま話題は別のものへと移っていった。
元夫の私には訃報を伝えるハガキ一枚来なかったから、向こうの親族から自分がどう思われていたかが伺い知れるお粗末な話であった。
不思議と何の感情も湧かなかった。
腹も立たず、悲しくもならず、寂しい気持ちにもならず、喜びもなく。
ただこれだけははっきり言える。
彼女を見殺しにしたあの日の夜について、私は何の『後悔』もない。
■あとがき
なんか別作品の感想欄で『後悔』に関するネタをいただき、一本思いついてしまったので数時間で書いてしまいました。
恐らくこの作品は多くの人に受け入れられず、気を悪くする人も大勢いるでしょうが、私としては「みんな友達仲良しこよし」は性に合わないので、嫌われてもいいやと発表してしまうことにします。
不快な思いをした方に対しては大変すみませんが、ラストを取り下げることも修正するつもりもありませんので悪しからず。
■補足
交通事故の目撃者に救命義務はあるか?
心配になって調べましたが、現行の日本の法律では「加害者」や「運転者」「同乗者」には責がありますが、「目撃者」には責務はないみたいですね。
それどころか、目撃者は証言せずにその場を立ち去っても違反・違法とはならないようです。
なお目撃者などの第三者が救命行為などを行う場合は「緊急事務管理」といってあくまで善意によるものなので、当事者が最初から救護を期待するのは間違っているようです。
やはり「同乗者」の沙織さんが自分で警察なり消防なりに通報するのが正解なようですね。
法律って難しいけど色々面白い!