涙の通り道
祖父とコメ子の物語(プロローグ〜Letter 10、及びLast Letterまでの12話)の最終話 Last Letter より
もし涙に沸点が存在するとしたら、私のそれは間違いなく低いだろうと思う。
ただ、その涙はかなり偏った涙だ。
いつの頃からか明確なきっかけがあったわけではないが、私の中で、涙の通る道は二手に分かれた。
それは、自分が可哀想で流す涙が通る道と、それ以外の涙が通る道。それ以外とは、感動や同情、安堵など、自分以外を思って流す涙のことだ。
物心ついてからの私の涙は、ほとんどが後者だった。
子供の頃、自分の不注意で痛い思いをしたり、怒られたり、思い通りにいかず地団駄を踏んで泣いた時、ヨシヨシと無条件に甘えさせてもらった記憶はあまりない。それは愛情をかけてもらえなかったということではなく、どの場面においても、弱かった私がこの先に待ち構えている世の荒波の中で生き抜くための、見守りだったと感じられることが多かった。
今となってわかることだが、手を貸したい衝動に耐え、できるまでひたすら見守ることは、コーチングの手法として有益な一方で、同時に時間と神経をじわじわとすり減らす、かなり根気のいる教育法の一つだ。
自分が可哀想で流す涙は美しくないと涙を堪える習慣は、実際私をほんの少しだけ強くしてくれた。
しかし、同時に堪えた涙は行き場を探していたらしい。
片一方を塞げば、もう片一方に勢いよく流れる水のように、私の涙は"それ以外の涙が通る道“へと流れるようになった。
それからというもの、私は自他共に認める、涙もろい人になった。
それは、夜中の突然の電話だった。
予定にない夜中の電話を怖く感じるのは、ただ耳につく不快な着信音に驚くからだけではない。それが無意識に間違い電話か良くない知らせかの二択だとわかっているからだ。
その電話は後者だった。
大好きな祖父の最期を知らせる電話だった。
それから数時間のことは、あまりはっきりと覚えていない。家族と共に始発の新幹線に飛び乗り、京都へと只々向かった。
いつの時も鞄から溢れ出そうな旅の高揚感を運んでくれる、前向きな名前がとても似合う列車。思い起こせば、悲しい気持ちでこの列車に乗車したのは、人生で初めてのことだった。
初島も、富士山も、澄んだ青空にひときわ映える新緑も、流れる車窓の景色は、何一つ記憶に残っていない。
祖父との対面は衝撃的だった。
身近な人の最期の姿に初めて対面した私は、駆け寄る家族をよそに、居間の入り口のその場から全く動けなかった。気持ちと体の両方が目の前にある現実の受け入れを拒否し、確認することを拒んでいるかのようだった。
自分はもうすっかり大人だという爪先立ちの不安定な自信は、いとも簡単に崩れ落ちた。
でも、私は泣かなかった。
それからの二日間は、何かに没頭することで現実から逃れようとする、そんな風にわかりやすく動き回った。葬儀の手配や準備を率先して、そして脇目も振らずに手伝った。
告別式の日、私は受付に居た。
親戚や祖父の友人、知人、仕事関係者の受付が一段落し、式場の席へ向かおうとした時、受付に列をなす大勢の弔問客の姿が目に飛び込んできた。
祖父のかつての教え子たちだった。
その人数は把握できないほど多く、準備していた会場には到底入りきれない人数だった。少しでも座席を増やそうと椅子を並べ直す私に、その皆が口々に会場の後ろに立って参列すると申し出てくれた。
会場後方の扉は急遽開け放たれ、その列は会場外につながる階段の下まで黒喪帯のように続いた。
祖父は長い間、仕事とは別に、大学や施設でジュニアやプロを目指す学生たちにテニスのコーチをしていた。その教え子の一人が訃報を知り、皆に声を掛けたのだと後に知った。
最後の別れの時、教え子たちに幾重にも囲まれ、手を握り話しかけられている祖父は、とても幸せそうに見えた。皆が手向けてくれた別れ花は棺の中に入りきらないほどに溢れ、温かい白い花の布団を掛けてもらっているかのようだった。
私の知らない祖父の人生が、そこにはあった。
テニスと犬と日本酒を愛し、良く笑い楽しいことが大好きだった祖父。その最後を賑やかに送ってもらえたことが何よりもありがたかった。
俯瞰で見ているように感じたその崇高で清らかな光景は、無理に塞いでいた心の傷にやさしくやさしく沁みた。
我に返った時にはすでに、私は一人土砂降りの涙の中に立っていた。
そして、その時から私の涙の通り道は、一本増えることになった。
祖父が最後に教えてくれたのは、感謝という涙の通り道。
涙がその三本目の道を選び通ることができる人生を、これからも懸命に歩んでいきたいと思っている。