恋する少年
墨汁に、赤い色を混ぜこんだような夜。まばらについた電灯と暗視、そして不気味な空に浮かぶ青白い満月を頼りに、俺は道路と並行する線路に沿って歩いていた。
この東京に朝は訪れない。
青白い月が沈めば、代わりに昇ってくるのは黒い太陽。常に不気味な色合いの夜が空を支配し、赤い闇夜の下では人ならざる魔性たちが生者の命を付け狙う。
力なき人々は再び正常な太陽が昇る日を夢見て屋内に閉じこもり、魔性に汚染され望まぬ力を手に入れた少年少女が、生きるために人ならざる存在を狩り続ける。
リバーストーキョー。
あるいは、ナイトメアトーキョー。
そう呼ばれる夜の中を歩くうち、薄暗い視界にあるものが映った。
現実では廃線して何年も経つ、文京区をぐるりと囲むように走っていた路面電車の駅。
改札はなく、転落防止の柵もなんともしょぼい。あくまでも乗り場兼降り場としてだけ存在する。そんな駅のホームに、誰かがぽつねんと立っているのがわかった。
期待に胸が弾む。
高揚感に急かされるまま、俺は足早に駅へと向かった。
足音に気づいたのか、ホームに立っていた何某が俺の方を向く。そしてそのまま、まるで俺の方へと駆け寄るかのように何某も動き出した。
高揚感、さらにアップ。走る足により力がこもる。
距離が縮まることによって、相手の姿かたちがはっきりとしてくる。
夜闇に紛れてわかりづいらいが、灰色の上着と黒のスカートで構成されたブレザー。夜闇の中で、際立って存在感を示す白銀のセミロング。
俺と同い年くらいの女の子が、こっちに向かって駆けてきていた。
テンションがうなぎのぼりになるのを感じながら、俺は腰のホルダーに手を伸ばした。
ホルダーから吊るしてあるのは、シンジュクエリアに出現する【駅迷宮のミノタウロス】のドロップアイテムを使って製作された二対の鉈【雷光の角】。強化と修理を重ねながら、長く使い続けている愛剣を両方とも引き抜き――――
跳躍と同時に振り下ろされた刀を、受け止めた。
ちゃりんと。手首にはめた四葉のクローバーモチーフのチェーンが、涼やかな音を立てた。
「ハッハー! 今回も熱烈だなあ!」
自分でも気持ち悪いほどハイテンションな声を口にしながら、両腕に力を込めて跳びかかってきた何某――もとい、少女を弾き飛ばす。華奢な体は後方に弾き飛ばされるも、着地と同時に地面を蹴りつけ、すぐさま弾丸のように俺の方へと向かってきた。
紅色の瞳で俺を見据えたまま、少女は片手に持った刀を、今度は刺突の要領で突き出してくる。切っ先が向けられるのは俺の喉。何の躊躇いもなく急所を狙ってくる鈍色の凶器を、俺は雷光の角の片翼で叩き落した。
『【朔のルー・ガルー】とエンカウントしました 推奨レベル???』
遅れて、視界に一つのウインドウが表示される。
口元に満面の笑みを浮かべながら、雷光の角を構え直す。
「今月も会いに来たぜ、ルー・ガルー。今夜も俺が死ぬまで遊んでくれよな」
「……」
沈黙が返る。だが、全くのノーリアクションじゃない。
返事の代わりとでも言うように、少女は首輪がはまった部位めがけて斬撃を放ってきた。
「ははっ!」
会話ギミックがないエネミーは、言葉ではなく暴力をもってプレイヤーに応じる。
今日も今日とて言葉によるコミュニケーションは一方通行。それでも俺はあえて口を閉ざさず、言葉と暴力を用いた戦闘行為に勤しむ。
「サンキュー! 惚れ直しそうだぜ、ルー・ガルー!」
満面の笑みとともに、首を捻って回避行動。かすった髪は即座に消えず、宙に舞うモーションをとりながら地面に落ちる。いっそ偏執的なリアル再現に苦笑を零しつつ、お返しとばかりに二対一振りの武器を振るった。
鋏の要領で刃を交差させ、左右の逃げ道を塞ぐ。
後ろに飛び退けば束ねて突き、下に屈めば面を利用した叩きつけ、上へと跳べばただの的。
他の退路にも追撃の罠を仕掛けたこの攻撃は、彼女と再会するまでの一ヵ月間、数多のエネミーのHPを刈り取ってきた。けれども、ルー・ガルーのAIは怯まない。彼女は迷うことなく、懐に飛び込むという最善手を叩きつけて俺に肉薄した。
「ヒューッ、さっすがぁ!」
感嘆の声を口ずさみつつ、振りかぶられた拳を見て脳内シミュレート。
拳を避けるためにあえてバランスを崩す。追撃の刀が百パーくる。NG。
あえて拳を受けて次に備える。ダメージは受けるが刀よりマシ。OK。
コンマ数秒の取捨択一を経て、俺の体にはルー・ガルーの右ストレートがお見舞いされた。
「ぅ、お……!?」
華奢な体からは想像もつかない打撃力《STR》は、最低限のところで踏みとどまろうとした俺の筋力《STR》を容易く凌駕しする。180センチはある体躯が宙に浮いたかと思うと、俺の体は線路の向こうまで吹き飛ばされた。
痛みはない。なぜならこれはゲームだから。
CERO:Z……いわゆる十八歳未満お断りのゲームには痛覚スイッチをオンにできるものもあると聞くが、あいにくと俺がプレイしているのは高校生未満お断りである。
だが、殴打による運動エネルギーを物理エンジンが算出する以上、殴られることによる衝撃までは消すことができない。
「ぐぅっ」
痛みの代わりに、全身に行き渡る痺れ。スタン一歩手前のそれに呻き声を零しながらも、なんとか地面に着地を果たす。
(HPは……よし、余裕!)
即座に確認するのはHP。視界の端に浮かぶステータスを見て、安堵を零す。
身に着けている白い防具《学ラン》は、見た目のわりになかなかの防御性能を持っている。にも関わらず、一万ある俺のHPは見事に二割削れていた。
パンチ一発でこの威力。相変わらずえげつないダメージアベレージをしてやがる。
だが、まだまだこれからだ。顔に浮かんだ笑みはそのままに、雷光の角を構える。それに応じるように、ルー・ガルーも刀を中段に構え、体の軸をひねった。
「……【臥待月】」
サーバーAIによって生成されたとは思えない自然なメゾソプラノが、短い単語を口にする。直後、華奢な体は勢いよく刀を振り抜く。
その動きに合わせ、鋭い太刀風が俺の方めがけて飛来した。
中距離から放たれる即死の斬撃技【臥待月】。
胴体を泣き別れさせんと振るわれた剣筋を浴びれば、どれだけHPが残っていようと上半身と下半身の二つに分かたれ、そのまま地に伏すのみ。ゆえに臥待月。
死の運命に抗うには、奇跡に縋るか、致命の斬撃を回避するかの二択しかない。
それが、朔のルー・ガルーの剣技。幸運《LUC》を補正する装備品がない限りほぼ十割の確率で即死判定が入る、ゲームバランスの調整を疑うようなえげつない攻撃だ。
レベルが上限に達したステータスを凌駕した能力。
惚れ惚れするほど冴えた剣技。
搦め手の攻撃を容易く回避する優れたAI。
高確率の即死攻撃を、通常攻撃のような気軽さで放つ理不尽。
惰性でこの世界を生きているだけでは到底超えることができない至高の存在【ストラテジーエネミー】。この世界における最強の一角にして、目の前の少女が背負う肩書きだ。
今まで何人もの俺がこれを避けられず、無念のリスポーン地点送りを味わってきた。
だが、彼女と出会ってからもうすぐ一年。
超高難易度のくせにタイマン限定という、無理ゲー強要してくる朔のルー・ガルー。彼女と善戦するためだけに、俺はこのゲームをやりこんでいる。
Sランクの敏捷《AGI》に、思考発動型の【加速】の上位互換【加速・極】を付与するよう思考。そこに常時発動型、一度受けたスキル攻撃の回避率が上がる【死に覚え】、同じエネミーとの戦闘時、ステータスに上方修正がかかる【Know‐how】が適用される。
朔のルー・ガルーの攻撃を体で覚えた証明ともいえるスキルのブーストを受けながら、まずは体を前のめりに屈めることで太刀風を回避した。
「【繊月】」
間髪入れず、ルー・ガルーは別の月の名を口にする。
今度は刀を上段に構えながら、彼女は地を蹴る。すると、少し離れた場所に立っていた姿が一瞬にして掻き消えた。
一度の瞬き。消えたはずのルー・ガルーが、すぐ目の前に現れる。
超高速移動からの斬撃【繊月】。
さっきの【臥待月】と同じく、命中すれば高確率で即死する必殺技だ。
俺が彼女の動きを学習しているように、彼女に搭載されたAIもまた、目の前にいる俺が【臥待月】に対応できることを学んでいる。遠距離攻撃使用後は様子見するばかりだった最初の数ヶ月と異なり、少女は今や即座に第二撃をお見舞いしてくるようにまでなった。
つまりそれは、俺が俺として認識されていることに他ならない。その事実は、ただでさえ強い相手がいっそう難敵になっていく絶望以上に俺を喜ばせてならなかった。
顔がにやけるのを感じながら、首を狙った刀の峰を鉈で叩き落した。
――――ガキィンッ!
鋼と鋼のぶつかる音が響き、俺たちの間に火花が散る。
小さな火種に照らされたルー・ガルーの目が心なしか悔しそうに、それ以上に高揚感を帯びているように見えるのは、きっと都合のいい錯覚なんだろう。だが、錯覚とわかっていてもテンションがさらに上がるのは止められない。
「ハハッ!」
零れる笑い声。鏡のように磨き抜かれた刀に心底嬉しそうな俺の顔が映る。
我ながら笑えるがっつき具合。それでも、一目惚れした女の子と情熱的に一緒にいられる事実は、健全な青少年をさらなる興奮に駆り立てるには十分すぎる刺激だった。
興奮に突き動かされるまま、防御に使わなかった鉈を懐にいる少女めがけて振るう。
先ほど殴られた時のお返しのような、至近距離からの一撃。だが、俺以上の俊敏さを有するルー・ガルーには紙一重でかわされてしまう。切っ先だけはかすったが、そんなカスダメでは高い防御性能を持つ柔肌に傷一つつけることはできない。
「相変わらずつれないことで、そんなとこも好きなんだけどよ!」
笑いながら、一歩後ろに下がる。そして、二振り一対の鉈をルー・ガルーに突きつけた。
「もっと俺と遊んでくれよ、ルー・ガルー」
「……」
俺のおねだりに、少女はやはり無言。
代わりに得物を構え、行動でイエスを返す。
「ハハッ、サンキュー!」
夜はまだ始まったばかり。天井知らずのモチベーションを胸に、俺は愛しい少女に挑む。
源良は恋をしている。
相手は、プレイヤーを倒し、プレイヤーに倒される以外の挙動を有していないエネミー。会話もできない敵Mobに惚れこむ俺を、他のプレイヤーはピエロのように盛り立てる。あいつはただのデータにガチ恋している、面白くも滑稽なプレイヤーだと。
そんな奴らに、俺は胸を張ってこう思う。
ゲームのキャラを本気で好きになって何が悪い、と。




