恋ゆえに貪る①
延々と夜が続く反転した大都会にも、「夜」は存在する。
その刻限になると、禍々しい夜空の頂には青白い月が現れる。それは日を追うごとに欠けては満ちてを繰り返し、月日の流れと、月下に彷徨う異形どもの多寡を知らしめた。
そして今宵、空に浮かぶのは魔性が最も活発に蠢く大きな月だった。
満月、あるいは望。そう称される刻限。
そんな夜の下を、道路上に敷設されたレールに沿って、一人の少女が歩いていた。
一見すると、制服姿の女子高生にしか見えない。特異なのは、その手には木の枝の如き気安さで日本刀が握られているという点か。
少女の名は、【朔のルー・ガルー】。人の似姿を持ちながら、人より怪異より強き獣。
そんな獣の足が、不意に止まった。
二重の意味で人形めいた面立ちが、静かに月のない夜闇、その一点を見据える。血のように紅い眼球に映るのは、彼女に向かって歩み寄ってくる人影だった。
人影の数は決まりきっている。
なぜなら、彼女の前に立つことができる人影は一つきりだからだ。
「あんたが朔のルー・ガルー?」
軽薄に声をかけてきたのは、派手な紫色のブレザーを着た少年だった。
黒い指ぬきグローブを両の手にはめたいでたち。傍目からは徒手空拳のようにしか見えないその少年の名は、シュピーネと言った。
「……」
ルー・ガルーは、にやにやと笑うシュピーネを問いかけには答えない。多くのプレイヤーに対してそうするように、無機質な眼差しで一瞥した後、手にした刀を中段に構えた。
「【フシ――――」
必殺技の名を口にしようとしたところで、その動きが止まる。
無機質な紅い目が、ゆっくりと刀を持った腕に向けられる。
一見すると、そこには何もないように見える。だが、よくよく目を凝らせば、華奢な腕には細い糸が絡みついているのがわかった。そしてそれは腕に限らず、いつの間にかルー・ガルーの四肢全体を巻きついていた。
さながら、蜘蛛の巣に絡めとられた蝶。
そんな姿を見て、シュピーネはにやついた顔のまま肩をすくめた。
「おいおい、こんな簡単に引っかかっちまうのかよ。ほんとにこいつが、RTNの中でもトップクラスに強いエネミーなのかぁ?」
そう言いながら右手を持ち上げ、手のひらの開閉を繰り返す。
動きに合わせて、彼の周囲では細い糸がざわめく。その糸はルー・ガルーの方に向かって伸びており、彼女の四肢に絡みつく糸と繋がっていた。
上位スタイル【糸使い】。
攻撃性能を有しつつも、それ以上に束縛を付与することにかけては、専門職の呪士系列にも勝るスタイル。その力をもって雑魚を蹂躙し、格上をハメ殺しで嘲弄してきたプレイヤーは、あっけなく束縛された少女を愉快そうに見つめた。
シュピーネのレベルは86。
RTN歴が長い部類に入るが、ストラテジーエネミーとの会敵は今回が初めてである。
己の強さに酔いしれるプレイングが好きなシュピーネにとって、レベルカンストでも苦戦するようなエネミーというのは眼中になかった。
それでも今回【朔のルー・ガルー】に挑んだのは、他のプレイヤーが彼女を討伐しようという噂を小耳に挟んだためである。ストラテジーエネミーがリスポーンしないらしいことは知っていたので、倒される前に物は試しと、軽い気持ちで都電沿線を訪れた。
そして今、彼の目の前では糸の罠に引っかかった少女がいる。
今、シュピーネのテンションは最高潮に近かった。
「確かあんた、結構イイ体してんだったよな。スクショ見たぜ」
「……」
「ちっ、だんまりかよ。……ハッ、せっかくツラもNPCに負けないくらい可愛いんだし、このまま嬲り殺すのはちょっともったいねえよなあ」
完全に倒したつもりで、現実の人間やプレイヤーには言えない下卑た言葉を口にする。
そして、少女の顔に無造作に手を伸ばそうとしたところで。
ぶちりと。身じろぎ一つで、糸は全て引きちぎれた。
「…………は? うおっ!?」
呆気にとられるシュピーネの前で、無造作に刀が振るわれる。
レベルは80オーバー。ステータスは相応に高く、俊敏性《AGI》の数値は最高等級であるSランクに届かんとしている。そんなシュピーネでさえ、ただ飛び退くだけでやっとだった。
遅れて耳に届くのは、中身がみっちり詰まった何かが落ちる音。
それが、断ち切られた片腕が地面に落下した音だと理解した直後。
「う、うわあああああ!?」
シュピーネの口からは、悲鳴が上がった。
RTNは高校生未満お断り。痛覚をオンするシステムなどなく、ゆえに痛みはない。
だが、四肢が欠損するほどのダメージを初めて味わうとなれば話は違ってくる。シュピーネは本当に腕が斬られたように動揺しながら、目の前のストラテジーエネミーを瞠目した。
そんなプレイヤーを、ルー・ガルーは無機質な眼差しで一瞥した。それだけだった。
「【三日月】」
淡々としたメゾソプラノを口にしながら、突き出す形で構えた刀を振るう。鋭い切っ先は両者の間にあった距離を一瞬で埋め、過たずにシュピーネの心臓を貫いた。
「っ、ぎゃ」
短い悲鳴が零れる。
数秒後、HPが0になったプレイヤーは赤い霧となってその場から消滅した。
「……」
刀を軽く振るってから、少女は何事もなかったかのように、再び沿線を歩き出す。
しかし、その歩みはすぐに止まった。
進行方向に、またも人影があるのを見つけたからだ。
ある一つの目的のため、立ちはだかる者に己が刀を突き立てる。
魂《AI》に刻まれた本能に従うまま、ルー・ガルーは人影に向かおうとし――――
「……?」
途中で、またもその足を止めた。
理由はルー・ガルー自身にもわからず、己の行動に小さく眉をひそめる。そんな少女の姿を見て、夜闇の中からやってきた白い装束《学ラン》の少年が、思わずといった風に笑みを零した。
「残念だ。今日は熱烈な歓迎はないんだな」
肩をすくめたのに合わせて、腰から吊るされた武器がかちゃりと音を立てる。
禍々しい黒の刀身が鈍く輝く、刃渡りの長い牛刀が二振り。それを見て、ルー・ガルーはもう一度わずかに眉をひそめた。
少年のことは、記憶している。
朔のルー・ガルーに設定されたとあるパラメーターで、現時点における最高値を維持しているプレイヤーだ。先ほどまでガラス玉のようだった紅玉の眼にささやかながらも確かな目の光が宿るくらいには、目の前のプレイヤーは個として識別されている。
だが、雰囲気が普段と異なった。その差異が、不可解さとなって少女の足を止める。
「わかるのか? それは……嬉しいな」
その疑問を読み取った少年は、笑みを浮かべたまま牛刀を手にとる。
そして、おもむろに二対の刃で構えをとった。
いつもと変わらぬ構え。しかし今宵、その構えからは確かな力に裏付けされた凄みが感じられた。ゆえに少女もまた、反射的に刀を構え、少年と対峙する。
それを見て、少年の口元に浮かぶ笑みはいっそう深くなる。
だが、そこには隠し切れない悲哀と覚悟が込められていた。
「朔のルー・ガルー」
お返しのように叩きつけられる殺意を愛おしみながら、少年は口を動かす。
「今夜、俺は、お前を」
一つ一つの言葉を区切るように、噛みしめるように言った後。
「――――殺す」
この日、退魔士ヨシツネは【朔のルー・ガルー】を討伐するために戦いへと臨んだ。
【朔のルー・ガルー】。
そのストラテジーエネミーは、都電アラカワ線の沿線でエンカウントする。
出現するのは一ヶ月に一度。名前にそぐわない、満月の日の十二時間。
短い期間ではあるものの、場所と時間が固定されている分、ストラテジーエネミーの中では遭遇しやすい。古参プレイヤーたちは、この朔のルー・ガルーの存在によって、RTNというゲームにストラテジーエネミーなる超高難易度がいることを知った。
その手に握る刀で、補足した敵を斬る。
ギミック戦闘を強いる他のストラテジーエネミーに比べ、朔のルー・ガルーの戦闘スタイルは至ってシンプルそのものだ。
狼のような機動力《AGI》、華奢な見た目にそぐわぬ膂力《STR》、冴え渡る剣技を支える技巧《DEX》、そしてアンコモン以下の術式や状態異常を容易く弾く耐性《CON》と精神力《POW》。
レベルカンストすら凌駕するステータスの暴力はしかし、高難易度の肩書きを持つエネミーならば標準装備で備えているものでもある。
特筆すべき点は、LUCに上方修正がなければほぼ確実に決まる即死の必殺技くらいか。
そのスキル自体は間違いなく理不尽の領域であったが、避けてしまえばただの剣技であることもまた、否めない。
それでも、朔のルー・ガルーを倒せたプレイヤーはいなかった。
シンプルということはすなわち、小手先の攻撃が通用しないということ。人の形をした獣と相対する時に求められるのは、同じくシンプルな強さ。
そして、純粋な力比べで人が獣に勝てる道理はない。
ゆえに彼女は、最強の名を冠して夜の世界に立っていた。
――――あるプレイヤーが、ゲーム内の掲示板でこんなことを言った。
「やりこみプレイヤーが、全財産をなげうつくらい準備したら勝てるんじゃないのか?」
荒唐無稽な言葉は、当然のように笑い飛ばされた。
当然である。
サービス終了を除けば明確な終わりが存在しないオンラインゲームにおいて、高難易度はあくまで乗り越える壁の一つにすぎない。たかだか超高難易度の一つをクリアするために、今までの積み重ねを無にするギャンブルに挑むプレイヤーなどいるはずもなかった。
これからそれを実行しようとしているヨシツネも、自分が選んだ道を賢いものだとは思っていない。ゆえに彼は、ゲームを引退する覚悟をもってこの一戦に臨んだ。
だが、彼は知らない。
たった一人を倒すため、全てをなげうつ覚悟で挑む。
それこそが、《リバーストーキョー・ナイトメア》のゲームデザイナーが想定している、ストラテジーエネミー戦の正攻法であるということを。




