序章、あるいはひとつの
即死しなかったのは、奇跡に等しい偶然だった。
「――っ、は?」
驚きと不可解。二種類の感情をミックスした呟きとともに、俺の体が仰向きに傾いた。
ちゃりんと。買ったばかりの四葉のブレスレットが、涼やかな音を立てる。
それに少し遅れて、ばたんどたんと二つの音が耳に届いた。
さっきぶった切られた俺の上半身と下半身が地面に倒れたことを、一拍遅れて理解する。手がこんでいるなあと頭の片隅で思いつつ、俺は空を仰いだ。
緋色が滲んだ夜の空。青白い満月が、不気味な夜を煌々と照らす。
そんな光景を背景に、彼女は俺を見下ろしていた。
「……」
白銀の髪、紅色の目。
いわゆるアルビノとは一線を画す暴力的な色と、あちこちがほつれた制服で構成された少女は、おもむろに右腕を上げる。その動きに合わせて、ついさっき俺を真っ二つにした日本刀の切っ先が彼女の頭上に掲げられた。
律儀なことに、トドメを刺すつもりらしい。
出血で死ぬだろうにと他人事のように考えた後、そうではないことを思い出す。おそらく彼女もそれを知っているからこそ、刀を振り下ろそうとしているのだろう。
がたんがたんと。
遠くから、フィクションでしか聞いたことがない路面電車の走行音が聞こえてきた。
都電という略称で呼ばれる列車が、俺たちの方へと向かってきているのだろう。もしかしたら人が乗っているかもしれないが、この状況がなんとかなるとは思えない。誰かが俺たちに気づくより早く、振り上げられた刃が今度こそ俺のHPを刈り取るだろう。
「…………ぁ」
怖い。本来なら感じなくてもいい感情が、脳裏をかすめる。
だが、俺の意識は十数秒後に俺を殺す凶器より、俺を見下ろす少女の方に傾いていた。
「なんで」
ぽつりと零しながら、少女に向かって手を伸ばそうとする。しかし、力が入らない体は言うことをきいてくれず、ほんのわずかだけ浮いただけだった。
「……?」
俺の仕草に、少女は一瞬だけ怪訝そうな顔を浮かべる。だが、その表情も見間違いだったかのようにすぐに消え去った。あとに残るのは、無機質なガラス玉じみた眼差し。
そんな少女の横には、小さな画面が表示されている。
それなりに距離はあったが、そのウインドウに記載された一文を読み取ることができた。
ストラテジーエネミー【朔のルー・ガルー】
エネミー。
それはこの世界において、完全なる敵対存在を意味する言葉。
言語を介した交渉が通用せず、そうあれかしと刻み込まれたAIに従って暴力と殺戮を振りまく属性を与えられた少女は、振りかぶった凶器を躊躇うことなく俺に振るった。
「【繊月】」
その直後、朔のルー・ガルーの背後を路面電車が通過する。
眩い人工の逆光で、彼女の姿は見えなくなった。
「ぅ、ぁ」
痛みはない。この世界は虚構だから。
代わりに、1だけ残っていたHPが0になる。死亡する際、苦痛の代替として味わう虚脱感に襲われながら、俺の視界は暗転した。
「……ああ」
迷子みたいだ、と。
今わの際でそんな感想を抱いた。
一つの人影を除き、誰もいなくなった沿線。
朔のルー・ガルーと呼ばれる少女は、刀を軽く振るってから空を仰いだ。
「――――貴方は、私という歪な月を、呑みこんでくれるのかな?」
謎めいた言葉を淡々と紡ぐ姿は、彼女をただの敵対存在として見ていれば、そうあれとプログラムされたAIの一動作だと認識しただろう。
だが、そこには確かに孤独と寂寥が滲んでいた。
「……」
少女の脳裏によぎるのは、先ほど斬り殺したばかりの少年。
取るに足らない力量であることを、少女は正しく認識していた。
それでも、死の間際まで向けられていた眼差しが、彼女の中に設定されているパラメーターにプラスを加える。その加算は、少女に白い服の少年を記憶させるには十分だった。
人狼は、ずっと待っている。
■■■
「……ん?」
白い学ランを着た長身の男。すなわち三十分前に拠点を発ったはずの友人の姿を見かけ、長ランを着た青年は首を傾げながらも声をかけた。
「ヨシツネ、ゾウシガヤのイベントもう終わったのか?」
「……」
しかし、青年から呼びかけられても、ヨシツネと呼ばれた少年は反応しない。さながらフリーズを起こしたように、人目も人の迷惑も気にせず突っ立っていた。
はて、回線落ちだろうか。
そんなことを思いつつ、青年は友人の肩に手を乗せて。
「…………だったな」
「ん?」
その直後、ようやく友人から反応らしきものが返ってきた。
けれどそれはあまりにも小さく、聞き返すつもりで青年は惚けた顔を覗き込む。
そして少年――ヨシツネは、青年の算段に応えるように改めて口を動かした。
「あの子――――」
「はあ? あ、ちょっ、ヨシツネ!?」
青年が引き留めるのにも気づかず、ヨシツネはその場から走り出す。
十数分後。少女に話しかけようとしたところを文字通り一刀両断され、再びこの場所に戻ってくるとは、ヨシツネはおろか青年さえも想像してはいなかった。
それが、今からちょうど一年前の二月。
当時中学三年生だった源良が、長い受験期を終えたことを祝し、ゲーム仲間に勧められて気になっていた没入型オンラインVRゲーム《リバーストーキョー・ナイトメア》の世界に踏み入れたばかりの時のこと。
彼はその夜、超高難易度の肩書きを持つ少女と運命の出会いを果たしたのだった。