僕の話
<僕の話>
「また死ねなかった。」
暗い部屋の、ベッドの上で僕は目を覚ました。
窓ガラスが割れて、そこから風が吹き込んできて少し肌寒い。8月だけど日が暮れると冷える。
床には割れた窓ガラスと一緒に野球ボールが転がっていた。たぶんコイツのせいだ。
自殺するのはこれで何回目だろう。そして失敗するのも。
*
適当につけたワイドショーでは、新入社員が過労で電車に飛び込んで自殺しただとか、高校生がいじめを苦に学校の屋上から飛び降りて自殺をしただとか、そんな話を引き合いに出して「若者の自殺が問題になっています」なんて、何回聞いたかわからないような決まり文句を偉そうな大学教授が言っていた。
新入社員も高校生も、みんなやりとげた立派な先輩だ。
今日は洗剤を使って中毒自殺をしようとした。
部屋中のドアや窓をガムテープで目張りし、塩酸系と塩素系、二種類の洗剤をまぜて、あと、刺激臭がするらしいのでこの前使った睡眠薬の残りを、今度は用量用法を守って飲んだ。
これで目が覚めたら自殺が成功している、はずだった。
うかつだった。
今は夏休みだ。施設の小学生たちが庭で野球をしているのを僕は何回も見ているんだから、思いつきそうなものなのに。
また自己嫌悪の波がやってくる。
今回は昼間を実行時間に選んだのが失敗だった。
*
昔から、「運がいい」と周りの人からよく言われた。
確かに、遠足や運動会の前の日に風邪をひいたりすることはなかったし、大流行したインフルエンザにもかからなかったし、いじめられることもなかった。なによりあの事故からも助かった。
でもほんとは、遠足や運動会になんて行きたくなかったし、授業を公欠してみたかったし、クラスメイトがいじめらているのを何もできずに見ているのはつらかった。
それに、お母さんと、お父さんと、妹と、一緒にいきたかった。
詳しく覚えてないけど、事故は相当に酷かったらしく、僕が事故から助かったのを「奇跡だ」と囃し立てた人たちがいた。
「良かったね」なんて言ってきた人たちもいた。
ただ生きていればそれは”良いこと”なの?
少なくとも僕にとっては、何も良くなかった。
事故で何もかもをなくした僕は、児童養護施設に引き取られることになった。
何でもそれなりにできたから、施設に引き取られて生活するようになっても苦労することは少なかった。
でも「何でもできる」っていうのは「何にもできない」ことの裏返しで、何をやっても必ず誰かの二番目だ。
独りでいることが多くなった僕はいろいろなことを考えた。
僕がいなくても世界は何も変わらないし、僕の代わりはいくらでもいる。
僕は何がしたいんだろう。何ができるんだろう。
僕はどうして生きているんだろう。
誰かが正解を教えてくれるわけでもないし、いくら考えても何も思い浮かばなかった。
「もういいや。」
そう思ったら、プツンと、生きることへの執着の糸が切れるのを感じた。
*
死ぬことを決めたのが先月7月で、そこからは早かった。
いろいろな手段を調べて、考えて、そのうちのいくつかを試していった。
ただ僕は運がよかったから、ことごとく失敗して今日まで――今日もだけど、―― 死ぬことは一度もなかった。