029.思いは秘めておけ
一人、放牧場へ歩いてきたヤヒマは、駆け寄ってきたティコの鼻面を抱きかかえながら撫で続ける。
「……運命が嫌いか?」
「大っ嫌いですよ」
それだけ答えたヤヒマに、バルドは「そうか」といつものように返す。
その後は何も言わず、ただ互いに馬を撫で続けた。
『貫け、氷槍!』
瞬時に現れた無数の氷槍が降り注ぐ中、隊員達は魔剣を解放してそれを避けながら切って行く。午後の訓練はヤヒマのストレスを発散させる為、バルドが急遽こうしたのだ。
『暴狂の風よ、切り刻め!』
その判断が間違っていなかった事をバルドはヤヒマを見ながら理解する。
術を放つ際の文言の凶悪さが、ヤヒマの心の中を物語っていた。術を受けながらの戦闘訓練は、確かに役に立っている。陣形を整えどう攻めるか、実際の動きを体験できるからだ。
『炎人よ、触れたものを全て燃やし尽くせ!』
そしてバルドは、ヤヒマの膨大な魔力があるからこそ、この訓練が出来ると思っている。
小さな人型の炎を無数に出したヤヒマは、一体一体が別々の動きをして隊員達に襲い掛かるのを見ながら、やっとざわついていた心が落ち着いてくるのを感じていた。
いつも、こうしてバルドに助けられている。
それがとても悔しく思えるのは、相手が二十二で、自分が五十八である事を理解しているからだろうか。若造だけど、自分の息子よりずっとしっかりしているバルドを見ていると、余計に悔しく思えてしまうのだ。
『滔々と流れ行く清らかな水よ、汚物を浄化し給え』
そして、大量の水を浴びた隊員達に、笑顔を見せた。
「あー、スッキリしたー」
甲冑の繋目から漏れ出る水に、慌てて兜を脱ぐ隊員達も笑っていた。
一度休憩となり、甲冑を脱いで水を出す隊員達は、それぞれにヤヒマの頭を撫でて行きながら「お疲れ」と声を掛けて行く。
そして、最後の一人に頭を撫でられたヤヒマは、その場に座り込んでふう、と息を吐き出した。
「どうした?」
「え?」
「気分が悪いのか?」
「ああ、いえ、大丈夫です。ちょっと休憩です」
「そうか」
見上げれば、ヤヒマのせいで濡れた黒髪を、風が柔らかく乾かしていた。
ヤヒマの髪と同じぐらいの短い髪は、風に遊ばれふわふわと踊っているように見える。
「なんだ?」
「……バルドさんて、変な人ですよね」
「なんだそれは」
ヤヒマの言葉にクツクツと笑う。
怒った所を見た事が無いけれど、とても厳しい人だとは思う。
魔物と戦う職業だから、一時の油断も無い、そう言う人だ。
だけど、戦いの場以外ではだらしがない。
一度だけ覗いた事のあるバルドの部屋が、とんでもない腐海になっていた事を思い出して、ひゅっと肩を竦めた。
「そう言えば、部屋の掃除しました?」
解りやすく背を向けたバルドに、ヤヒマは文句を言う。
「信じられない、私の部屋にまで匂いが届いたら追い出しますよ?」
「まだ匂いは少ない方だ」
「いいから掃除しろ」
必ず言い訳をしてのらりくらりと返してくるから、掃除が面倒なんだろうと言う事だけは解っている。全く、これが無ければ手放しで良い男だと褒められるのにと溜息を吐き出した。
「バルドさんの部屋から謎の生物が誕生しそうで怖いです」
「ああ、そうしたら研究用に飼い慣らせるな」
「何でそう何でも前向きなんですかっ!」
「そうか?」
そう言って笑うバルドに、ヤヒマも最初は睨んでいるが、結局一緒に笑ってしまうのはいつもの事だ。そして、隊員達がそれを見ながら溜息を吐き出し、視線を逸らすのもいつもの事になっていた。
それから再び魔剣に合わせた戦い方の訓練が始まり、ヤヒマも必死で魔力を放ち続ける。ヤヒマが大規模な術を放つ事もあるが、大抵は複数の魔物と退治する為、補助する為の術を使うのが一番効率が良かった。
戦闘中に魔力を使っても、魔窟を閉じるだけの余裕があるヤヒマは、ブナンにとってとても重要な存在になりつつあった。
皇子がブナンに来て、ヤヒマに禁句を唱えてから五日。
全く姿を現さなくなった事に、ヤヒマは首を傾げていた。確かにあの時怒ったし、今でも怒ってはいるけれど、絶対にめげない人だと思っていたのにと少し心配もしている。
今日は休日で、いつものように奥方からの誘いがあった為、迎えに来てくれた奥方付きの女性と一緒に城に入った。
そして、案内されるままいつものサロンへ入ったヤヒマは、そこに皇子がいる事に驚き、ついでに物凄く憔悴している様子にさらに驚いた。
「え、あの、ご病気にでも?」
挨拶もそこそこに皇子にそう聞くと、皇子はヤヒマから視線を逸らしたまま何も答えない。困ったヤヒマが奥方へと視線を向けると、にっこりと笑みを返された。
「殿下はね、不治の病に罹ったのよ」
「……え?」
「これは薬ではどうにも出来ないのよ。そうですよね、殿下?」
「……うむ」
「傷付けちゃってとっても後悔しているのよ。何を言ったか知らないけど、絶対に許しちゃダメよ、ヤヒマ」
そう言って笑う奥方に、ヤヒマは引き攣った笑みを返した。
どうしよう、どうやら自分のせいらしいと気が付き、フォローすべく声を掛けた。
「あの、殿下。発言しても宜しいでしょうか?」
「……うむ、許す」
「あの時は本当に申し訳ありませんでした。自分勝手な怒りを殿下に向けてしまい、失礼な事をしたと」
「いいや、ヤヒマは悪くない。私が、余計な事を言ったばかりに」
「いえ、私の自分勝手な思いからの事で、殿下は全く悪くないのです」
運命という言葉を嫌っているのはヤヒマの勝手だ。
だけど、それを殿下に押し付けるのは間違っていたと、怒りが収まった時に反省したのだ。謝ろうと思ってたのに、殿下が全く姿を見せなかった為、今になってしまったが。
「殿下」
呼び掛ければ、本当にちらりと一瞬だけ視線を向けてくれた。
「申し訳ありませんでした。それと、今回の事でお分かりかと思いますが、伝えておきます。私は、運命というものを呪っています」
「……お前、何かあったのか?」
「はい。それをお伝えするつもりはありませんが、運命という言葉が嫌いです。それが本当にあるのならばぶっ飛ばしますと言ったのは、本気です」
そう言ったヤヒマを、皇子はじっと見つめヤヒマも静かに見つめ返した。
「不用意な発言だった」
「いいえ、自分勝手な思いを殿下にぶつけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「うむ。許す」
「寛大な御心を持つ殿下に感謝致します」
「……うむ」
そして、少し顔を赤らめた殿下が向き直り、声を上げないようにしながら笑っていた奥方が、お茶とお菓子を出してくれたので、いつものようにそれを頂きながらお喋りに興じる。
「うふふ、ヤヒマったら上手いわね」
「何の事でしょうね?殿下にはわかりますか?」
「ん?ああ、そうだな、ルシア殿はヤヒマを素晴らしい女人だと言っているのだろう」
「まあ、殿下ったらお上手ですわ」
「お世辞でも嬉しいです、ありがとうございます、殿下」
「うむ、当然の事だ」
「そう言えば殿下には、思いを寄せている方がいると伺いましたけれど」
「素敵ですね、どんな方なんですか?」
「ど、どんな、と」
「ルシア様、もしかしたら秘密の方なのかもしれませんよ」
「まあ、それもそうよね。素敵だわ、思いを告げる事の出来ない秘密の恋なんて」
「憧れちゃいますねえ。密やかに思いを寄せながらも、相手の幸せを願うなんて中々できませんからねえ」
「さすが殿下。ご自分の立場を考えると、秘めなければならないのでしょうね」
「殿下が密やかに思いを寄せている事に気付かないなんて」
「本当にねえ。口に出されるとやはり、不都合が生じてしまうのでしょうね」
そんな感じに奥方とヤヒマが盛り上がっていると、段々と勢いを失くした皇子は、やがてガクリと肩を落とし、そして退室の挨拶をしてから部屋を出て行った。しょんぼりと歩く姿が可愛かったと言ったら怒るだろうか。
「ヤヒマ」
「はい?」
「駄目よ、ほだされちゃ」
「ないですよ。それに、殿下だって本気ではないでしょうからね」
「そうかしら?割と本気だったかもしれないわよ?」
「それなら更に無理です。あのタイプは絶対苦労しますから」
「やだヤヒマ。良く解ってるじゃない」
「ええまあ。もっと世間を知って這い蹲って身の程を弁えたら、考えなくも無いです」
「うふふ、私、ヤヒマのそう言う所好きよ」
「ありがとうございます。私もルシア様のそう言う所が好きです」
ヤヒマが思う好きという感情は、人としての好きであり、異性としては見ていない。どうしても母親目線になってしまう為、息子と同じ年頃だと知ると自然とそうなってしまうのだ。
勿論、今現在の息子たちは既に三十を超えている事ぐらい承知しているのだけれども、こちらに来た時の息子しか知らないから、二十代の男を見ると息子と同世代かと思ってしまうのだ。
そして、十代は子供にしか見えないヤヒマである。
「ヤヒマ、ごめんなさいね」
「え?」
「髪を切る必要、無かったわよね」
「ああ、いえ、これはこれで気に入ってるんですよ。なので気にしないで下さい」
むしろ、ただで髪を切ってくれるなんてラッキーぐらいに思っていたのだ。
親衛隊見習いになってから、外に出られない為にどうしようかと思っていたので、本当に本気でそう思っていた。
「確かに、ヤヒマにとても似合っていると思うわ。でもやっぱり、切る必要が無かったと思ったら申し訳なくて」
「大丈夫、髪は伸びますから」
またそう言って笑うヤヒマに、奥方も笑いを誘われ、いつものように笑い合った。




