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018.ティコは魔物

 勿論、キスの経験はある。

 だけど、これだけ胸がドキドキしたのは何十年振りだろうかと思ってしまう。


 枕を抱えたまま転がっていたヤヒマは、そっと右手で自分の唇に触れそして、「どんだけやねーんっ!」と言いながら枕を投げた。違う、私はそんな純情乙女ではないと思いながらも、ドキドキ高鳴る鼓動がさっきから耳に響いてくる。

 こんな、五十八にもなって二十二の若造に転がされるとは、と悔しく思いながらも、言われた事を思い出したので、腕輪から魔力回復薬を出して飲んだ。

 作り置きしてあった錠剤を五個程飲んだ所でやっと完全回復を果たしたヤヒマは、そう言えばティコの面倒を見ろと言われていた事も思い出し、部屋から飛び出した。


「ヤヒマ?大丈夫なのか?」

「はい、もう大丈夫です。ご迷惑をお掛けしました」

「いや、そんな事はいいんだ。これから気を付けろよ」

「はい、ありがとうございます」


 丁度バルドと隊員が一対一で剣の訓練をしていたようで、待機していた親衛隊員達に話し掛けられたヤヒマは、見習いらしくしおらしく対応する。それから隊員の馬がいる厩舎へ行き、ティコの所へ行った。


「ティコ。良かった、ごめんねティコ」


 そう言いながら鼻面を撫でれば、甘えるように顔を寄せて来た。

 世話人に世話の仕方を聞いたヤヒマは、馬を歩かせても良い所を聞き出し、今日は急に森に入ったのだからゆっくり休んで、明日遊ぼうねと約束する。


 その後、いったん部屋に戻ったはいいが時間を潰せるものが何もない事に気付いたヤヒマは、部屋のカーテンや、浴室のカーテンを作ることを思い立った。だが、元々あまり服など買わなかったヤヒマは、カーテンに出来そうなものを持っていない。

 これは相談しなきゃ駄目かと思いながら、浴室の掃除と部屋の掃除を行った。

 

 夕食の時間に食堂に行き、いつものように空いているテーブルに腰を下ろして食べ始めると、バルドが来なかったからか初めて見る、とヤヒマは思っている親衛隊員たちが話し掛けてきた。


「ヤヒマって、副隊長と仲良いよな」


 そう言われただけなのに、『あれ』を思い出してしまったヤヒマは、顔を真っ赤にしながら否定する。その様子は言葉とは裏腹に、仲良しなのを認めているに等しく、親衛隊員達は顔を見合わせて乾いた笑いを上げるしかなかった。


「そういや、ヤヒマが来た時から副隊長が声かけてたよな?」

「ああ、あれヤヒマだったのか」

「変な男に絡まれてたのを助けたんだっけ?」

「そうそう。女取り合ったとか言われてた時だな」

「あれヤヒマか」

「なんだ、そんな前からの仲か」


 勝手に進んで行く話に、ヤヒマは事実以外を否定しようと試みるも、何故か違う方向へと転がって行く話にオロオロする事しか出来なかった。そして、間の悪い事に丁度バルドがやって来て、ヤヒマに話があると連れ出されたのは不運としか言いようがない。


「……バルドさん」

「どうした」

「バルドさんに恋人はいないんですか?」

「ああ、いない」

「そうですか……」


 恋人がいるなら早い所火消しをすべきだと進言できたのに、いないのでは放っておけと言われそうで、どうしようかと悩んでしまう。


「なんだ、俺に恋人がいないとどうなんだ?」

「あの、実はですね」


 そうして食堂での話を包み隠さずバルドに伝え、否定した方が良いんじゃないかと言ったのだけれども。


「放っておけ」

「やっぱりね、そう言うと思いました!」


 色々心配した自分がバカみたいだと思いながら、ヤヒマはバルドの後を歩いて行く。


「否定したいのか?」

「え……」


 突然足を止め、振り返ってそう聞いて来たバルドを見上げる。

 黒い瞳が、じっとヤヒマを見つめ、薄い唇がくっと弧を描いた。


「悪い、冗談だ」


 ぷっと噴き出したバルドに、ヤヒマはピクリと片眉を跳ね上げたが拳を握りしめて耐えた。ふーと鼻息を荒くして落ち着かせたヤヒマは、いつの間にか歩き出していたバルドに「早く来い」と言われて走り出す。


『飛べ、ロケットパーンチッ!』


 走っている勢いのまま振り被り、魔力が乗ったヤヒマの拳をひょいっと避けた上、腕を掴んだバルドに、ちっと舌打ちをする。


「お前、さっき魔力失って倒れたばかりだろうが。学習しろよ」


 そう叱られてシュンと勢いを失くしたヤヒマは、直ぐに『あれ』を思い出して真っ赤になった。そんなヤヒマを見下ろし、バルドは「可愛い可愛い」と言いながらクツクツ笑い、「行くぞ」と言って歩き出す。

 くっそ、今に見てろよ鬼バルドめと、握り拳を固め、ふんふんと鼻息を吐き出しながら歩いて行った。


「入るぞ」

 

 そう言ってドアを開けて中に入ったバルドに、ダグラスの声が聞こえる。


「バルド、ノックしようよ」

「心の中でしたぞ?」

「残念だな、通じ合っていないようだよ」

「そうか」

「ヤヒマ、ごめんね。入って」

「失礼します」


 ドアの所に佇んでいたヤヒマは、ダグラスの入室を促す声にやっと部屋へと足を踏み入れた。


「遅くにごめんね。やっとヤヒマの服が出来上がって来てね」


 ダグラスの言葉に、そう言えばそんな事を言っていたなと思い出した。

 大きな箱に入れられているらしく、ダグラスから箱ごと手渡されたヤヒマは、腕輪の中にしまおうとした。


「あ、待って待って。ちょっと着てみて欲しいんだ」

「…………ここで?」

「いや、浴室を使ってくれて構わないから」


 ダグラスの言葉に頷き、浴室へと入ってドアを閉める。

 箱を開けてみれば、親衛隊員の色である黒で揃えられた服が一式入っていた。フードマントの刺繍を眺め、凄いなあと思いつつ着替える為に服を脱ぐ。

 新しい服なんて、この世界で初めて着るなと思いながら黒いシャツに袖を通し、ボタンを閉めていった。


 一方、部屋に残ったバルドは、そう言えばヤヒマに休日を与えたんだったと思い出し、それをダグラスに伝えた。


「三日?」

「ああ。一か月休まず仕事に従事したからな」

「何でそんな事に?え、ちゃんと休日あるよね?」

「ある。すまない、うっかりしていた」

「うっかりって」

「ヤヒマが何も言わなかったからな。そのまま続行してしまったんだ」

「そんな……」


 そう言って心配そうな顔を浴室へと向けたダグラスに、バルドはもう一度謝った。


「五日上げてもいいんじゃないの?」

「無理だ。魔放士が使えれば構わないんだが」

「ああ……」


 今の所、皇都から無理矢理押し付けられた魔放士が一人だけ残っていた。

 こいつも逃げてくれれば言い訳のしようもあるのに、何度も何度も倒れて迷惑を掛けながらここに居座り続けている。

 共に戦える程の魔力は無く、さりとて魔窟を完全に閉じるまでに相当の時間が掛かる魔放士では、正直いなくなってくれた方がほっとするのだが。


「ギルドに依頼を出そうにも、抱え込んでいる魔放士がいてはどうにもね」

「ヤヒマの事はバレてないんだろう?」

「勿論だよ。おだてていつも魔力を空にしてるから、寝込んでいるよ」

「それでも逃げないとはな。またお前、変な事に巻き込まれるんじゃないか?」

「止めてよ。二度とごめんだよ」

「……あれが男ならこんな心配もしないんだがな」


 バルドはうっかり忘れていたのだ。

 ヤヒマから『禍事を口にするな』と言われていた事を。

 

「着替えました」


 丁度ヤヒマが着替えを終えて浴室から出てきたので、ダグラスもバルドもそちらへと視線を向けた。


 黒いシャツに黒いズボン、柔らかい革のチュニックは同じ黒のベルトを巻いている。フードマントも黒で、背中にはブナン辺境伯家の家紋であるドラゴンと剣の刺繍が入っていた。


「……まあ、元々マントが黒だったしな」

「似合ってるよ、ヤヒマ」


 それぞれの感想にヤヒマは笑顔でダグラスにお礼を言う。

 

「新しい服って初めて着たので何か嬉しいです。ありがとうございます」

「喜んでくれて僕も嬉しい。ヤヒマ、今バルドから聞いたんだけど、ずっと休日を貰えなかったんだって?」

「ああはい。でも、見習いってそうなのかなって思ったので」

「ヤヒマ、ちゃんと休日はあるんだよ。だからね、無理し過ぎないでね?」

「はい、休日があるって判ったので今後はちゃんと言う事にします」

「うん。ところで、休日はどうするつもりなのか聞いてもいいかな?」


 ダウラスの問い掛けに、苦笑しつつも特にやる事が無いとヤヒマが伝えると、城を案内するとダグラスが言う。


「でも、お城はブナンの機密事項では?」

「ヤヒマは親衛隊に入っているんだからいいんじゃないかな?」

「ええ……、と、そうだ、図書室はありませんか?」

「としょしつ?」

「あ、ええと、本がいっぱいありますか?」

「ああ、あるよ。行って見る?」

「よければ。時間を潰すにも本があったらいいなと思ったので」

「じゃあ明日、朝食が済んだら城に、いや、僕が迎えに行くから待っててくれる?」


 ヤヒマが方向音痴である事を思い出したのか、ダグラスがそう言ってくれたのでヤヒマはありがたくそれを受けた。さすがに、訓練場から見える城の入り口までならば迷う事は無いけれど、来てくれると言うのならお任せしようと思う。


「食堂で待っててね?」

「はい。お待ちしてます」


 ダグラスの部屋を出て宿舎に戻り、バルドと一緒に夜勤ではない親衛隊の馬が放牧されている所へ行くと、ティコとバルドの馬が走って来た。


「夜勤の場合は厩舎にいるが、通常はここで放牧されている。勝手に食ってはいるが、偶に肉を食わせないと駄目なんだ」

「に、肉、ですか」

「ああ。魔物の一種だから、魔物の肉を好む。あまり与えすぎても駄目だし、与えないのも駄目だ」

「……その加減はどれぐらいで?」

「皆と同じようにしていれば間違いないだろうが。最初の頃は俺が声を掛けよう」

「はい、お願いします」


 甘えるように鼻面を押し付けてくるティコを撫でてから、おやすみと挨拶をして宿舎に戻った。




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