015.湯を借りる
まず馬に慣れる事だと言われたヤヒマは、馬に乗る為の練習をするのだが、どうも小バカにされているようで、ヤヒマが鐙に足を駆けると歩き出すのだ。何度もそれを繰り返している内、イラっとしたヤヒマは「動くなっ!」と怒鳴った。
途端、ビクッとした馬が動かなくなった事に、よしよしと頷きながらヤヒマは漸く馬に跨る事が出来た。
それを見ていた者達が歓声を上げ、良くやったと声を掛けてくれたので、ヤヒマは嬉しくなって笑顔で手を振った。
ずっと黙って成り行きを見ていたバルドが、ゆっくりと馬を歩かせ始める。
馬上で揺れている内、横にずれて落ちそうになるヤヒマに、何度か馬を止めてしっかり内股に力を入れるよう注意する。それでも揺れる度にずれて行くヤヒマに、バルドは何度も馬を止めて座り直すよう注意し続けた。
実はヤヒマ、とてつもなく緊張していた上、一人で乗っていると言う恐怖から、ガチガチに固まっていたのだ。正直怖くて堪らなかったのだけれど、バルドがいてくれたからこそできたチャレンジだったのだ。
パドックを何周かする内、やっと高い視点に慣れ、揺れる馬上にも慣れてきた。ずれて行く尻はまだまだ訓練が必要なのを物語っているけれど、最初に比べれば随分とマシになったのではないかと思う。
一度馬から降りる事になった時に、その高さに恐怖しながらも何とか降りる事が出来てほっとする。
「では、最初から」
「はい」
バルドの言葉に応え、また鐙に足を駆ける所から始める。
今度は馬が動く事にはならず、そのまま跨る事が出来てほっと息を吐き出した。手綱を握り、顔を上げて前を向く。
「ゆっくり歩かせてみろ」
「はい」
そして、そっと足を腹にぶつける程度で合図を出すと、馬はぽこ、ぽこ、とゆっくりと歩き出してくれた。嬉しくて抱き着きたい衝動にかられながらも、ヤヒマは手綱をしっかり握って前を向いていた。
「もう少し早く歩かせてみよう」
「はい」
バルドがヤヒマを乗せてくれた時ぐらいの速さを想定し、再び腹を柔らかく蹴って合図を出す。そうすると、ぽこぽこと少しだけ早く歩き始めてくれた事に、ヤヒマは物凄く感動していた。そのままパドックを一周してきたヤヒマは、嬉しくて満面の笑みを見せていた。
そんなヤヒマを見てバルドは苦笑を漏らしながらも、次はもう少し早くと指示を出し、徐々に速度を上げて行った。
昼前には何とかぽこぽこぽこぐらいに歩かせる事が出来たヤヒマは、終了の声に馬から降りてからその首に抱き着いた。
馬もどきを初めて可愛いと思った瞬間だった。
「ありがとう、本当にありがとう」
首に抱き着いてそう言ったヤヒマは、モヒカン鬣を撫でまくった。
馬も理解しているかのように、大人しく撫でられるままになっていた。
食事の為に入った食堂で、見知らぬ親衛隊員がヤヒマに声を掛けて来る。頑張れとか、その調子だとか、そうして元気付けようとしてくれるのが解って、ありがたく思いながらバルドと共に空いている椅子に腰を下ろして食べた。
食堂の料理は可もなく不可も無くの味ではあるけれど、毎日食べるのならばこれぐらいがいいのかもしれないと思う。
特徴が無いからこそ食べ続ける事が出来る、そんな味だった。
昼食後もバルドが付いて、馬の練習をする。
とにかく馬に乗れ無ければ駄目なのだろうと理解し、ヤヒマは一日中馬上で揺られ続けた。
「お尻が痛い……」
「足じゃなくてか?」
「足も痛い」
「だろうな。まだ余計な所に力が入っているようだからな」
「手も痛い」
「手綱を力いっぱい握っているからだ」
「でも、怖くて握っちゃうんですよ」
「慣れるまではそうかもしれないな」
さすがに一日中馬に乗っていると、あちこちが痛むのだなと実感しながら、ヤヒマの隣室に移ったと言うバルドと視線を合わせる。
見上げる形になるバルドは、恐らく百八十を超えているだろう。
「どうした?」
「今日は、お湯を使えますか?」
そう聞いたヤヒマに、バルドは少し考えてから「こっちだ」と歩き出した。
さすがに汗を掻いた今日はお湯を使いたいと、ヤヒマは嬉しく思いながらバルドの後を着いて行く。宿舎を出て訓練場を横切り、城の中へと入るバルドに首を傾げながらも後を着いて行けば、何故かダグラスの部屋に連れて行かれた。
「え、なに、どうしたの?」
「ヤヒマが湯を使いたいと」
「え……、えと、そうだよね、うん、解るけど、なんで?」
「他にないからな」
バルドにそう言われたダグラスは、いやでもと小声で抗議はするけれど、結局バルドに押し切られた。
「ヤヒマ、ダグラスが浴室を貸してくれるそうだ」
「ありがとうございます、お借りします」
遠慮はしないヤヒマは、バルドが教えてくれた浴室へとさっさと入った。
一人、顔を赤らめていたダグラスは、戸惑いながらも「ごゆっくり」と小さな声で呟いてそれを見送る。そんなダグラスを見ながらバルドはクツクツと笑いつつ、勝手知ったるダグラスの部屋の中を漁り、酒とグラスを二つ出してきた。
「ヤヒマの部屋に浴室を付けるか」
「うん、それは、考えてるけど」
まだ赤い顔でちらちらと浴室のドアを見るダグラスに、バルドはクツクツと笑った。
「笑うなよ」
「いや、悪い」
そう言いながらも笑う事を止めないバルドに、ダグラスは不貞腐れた。
「悪趣味だぞ」
「そうだな」
さらりと流される事に、はあと溜息を吐き出したダグラスは、バルドが注いでくれた酒を煽った。このブナンでは、酔う程に酒を飲めない事ぐらい承知しているが、ほんの少しならば許される。
いつ何時見張り台の鐘が鳴り響くか判らないここでは、完全な休日でもない限りゆっくり休む事も出来ない。
「ヤヒマは今日、何をしてた?」
「馬に乗る練習だ。一日中ずっとな」
「そっか。乗れるようにはなったのかな?」
「ああ、歩かせる事は出来るようになったぞ」
「そうなの?覚えがいいのかな?」
「若いからな。頭で考えるより体で覚えた方が早いだろう」
そう言ったバルドにダグラスは軽く目を眇める。
「あんまり厳しくしたら駄目だよ」
「……ダグラス、厳しくしなきゃ生き残れない」
バルドの言葉にはっとした顔をしたダグラスは、素直にごめんと謝った。
「まあ、男のような厳しさではないが。それでも相応の事は教えなければ、反発を食らって共闘する事など出来なくなる」
「そっか……、そうだね」
「それとも、お前がさっさと口説き落としてくれるのなら、余計な手間が省けていいんだがな?」
丁度グラスに口を付けていたダグラスが、ごふっと噴き出し、噎せながらバルドを睨んだ。とは言え、全くそんな事は意に介さず、バルドは飄々と酒を楽しんでいるのだが。
「魔放士隊の方はどうなんだ?」
「全く使い物にならないね。皇都から押し付けられたとは言え、一度魔力を放つと数日寝込むようでは、戦いの場に出す事など出来ないよ」
「それは、確かに。ヤヒマが異常なのか?」
「……今城いる魔放士達と比べると確かにそうだけど、冒険者の中にいる魔放士と比べたら、ヤヒマは普通なんじゃないかな?」
A級と言い張ってはいたが、それ以上の実力も魔力もあるとバルドは思っている。
ただ、それ以上になってしまうと面倒だから、魔放士としてのクラスを上げていないのだろうと思う。恐らくギルドに登録されているのは、魔放士としてのヤヒマなのだろうが、その身分は捨てたのだろうと理解している。
「今まで魔放士を辺境伯私兵にした事が無かったからね。魔窟を閉じる時にはギルドに依頼していたし」
「そうだな」
「魔放士だけを誘うのは色々支障が出るしさ」
ダグラスのその言葉に、以前冒険者の中の魔放士を雇う事にした時のことを思い出した。組んできたパーティーを抜けると言うのは、それまでの戦いが出来なくなると言う事で、パーティーのランクが下がってしまう。
その為、冒険者がパーティーを組む時は互いに誓約している場合が多く、それを崩してまでブナンに仕えようと思う者は中々いなかったのだが。
ある女性の魔放士がパーティーの誓約を破棄して来てくれた事があった。
だが、何をどう勘違いしたのか、ダグラスと結婚するつもりでいたらしく、辺境伯とギルド長が出張る程の大騒動になってしまったのだ。
確かに誘ったのはダグラスではあるが、あくまでも一魔放士に声を掛けただけであり、彼女だけに声を掛けた訳では無かったのだが。
まあそれ以来、魔放士を積極的に雇う事は諦め、都度依頼を出して魔窟を閉じてもらっている。
ヤヒマが言うように、本当は神聖魔放術を使うのが一番早いし確実なのだが、本来その術を使える者は神殿から出て来ない物なのだ。ヤヒマは知らないようだが、魔放術にも魔窟を閉じる術があり、膨大な魔力と引き換えに魔窟を閉じる事が出来る。
恐らくではあるが、ヤヒマにその術を教えても簡単に使いこなすのだろうなと思っている。
「はー、お先失礼しました」
「あ……」
浴室から出てきたヤヒマを見た途端、ダグラスが赤くなって固まった。
それを見てクツクツ笑いながら、バルドは残った酒を飲み干す。
「冷えない内に戻ろう」
「はい。ダグラスさん、ありがとうございました」
「い、いや、構わないよ」
「ダグラス、お前もさっさと入って寝ろよ。ヤヒマの後だからまだ湯が温かいだろうし」
バルドの言葉にダグラスの顔が更に赤くなったのを見て、バルドはクツクツと笑いながら「じゃあな」と言って部屋を出た。ヤヒマは「おやすみなさい」と声を掛けてから部屋を出る。
そうしてバルドの案内で歩き出し、まだ笑っているバルドにヤヒマが声を掛けた。
「意外と、意地悪だったんですね」
「まあな。あまりにも可愛くてつい、な」
「……気持ちは解りますけど」
恐らく、バルドの余計な一言のせいでダグラスはまともに湯に浸かる事が出来ないだろうと、ヤヒマには解っていた。知らない振りをするような可愛らしさは無いし、これでも子供を産んだ身なのだから。
「ヤヒマ、お前、解っているのか?」
その問い掛けに、何をと聞く程若くは無かった。
「人から向けられる感情って、割とわかりやすいですよね」
「……そうか。なら俺はどうだ?」
「興味はあれど好意ではない、と言った所でしょう?」
「ふむ、その通りだ」
たぶん、バルドはちゃんと女を知っているのだろう。
こういう男の事を、『女慣れしてる』と言うのだと良く解っていた。
城から出て訓練場を歩きながら空を見上げれば、そこにはぽかりと月が浮かんでいた。何もかもが地球と同条件の違う星だなんて、全くザラシュの奴らは良い仕事をしやがると、浮かんでいる月を睨み上げる。
「なあ、ヤヒマ」
足を止めてヤヒマを見下ろすバルドに、戸惑いながらもヤヒマも足を止める。
「……はい」
返事をして月から視線を外し、自分と同じ黒い瞳を見上げた。
「お前は、どんな秘密を抱えてるんだろうな」
問う訳でもなくそう告げただけの言葉に、ヤヒマはじっと黒い瞳を見つめ続けた。
ふい、と視線が外され、そのまま歩き出したバルドを追い、そのまま部屋にヤヒマが入るまでバルドは何も言わなかった。




