大きな背中
赤い大きな橋が見えた。橋を渡って土手を超えた先には、真っ暗な道がどこまでも続いていて、車は徐々に闇の中へ吸い込まれていく。
「ただいま」
一人車内で呟いて、少しだけスピードを落とし、あたりをゆっくり見渡した。静かな細道と月明かり。車のライトに照らされてようやく浮かび上がってくる田んぼと、どごまでも響くカラスの鳴き声。良くいえば幻想的、悪くいえばクソ田舎の風景が辺りに広がっていて、その懐かしさに、思わずにやりと口角が上がった。
母さんの認知症が発覚したのは3年前のことだった。
3年前のお正月、物忘れが激しくなって困っている、と母さんが姉に相談した。その他にもどこか母さんの話し方がおかしいと思っていた姉は、念のために、と母さんを病院に連れていき、そこで初めて認知症だと診断された。ちなみに俺は4年前からお金がなくて、実家には一度も帰れていなかったので、後日、姉からメールで知らされた。
5年前に父が他界しているため、母は一人暮らしをしていた。医者にはまだ初期の段階だと言われたこともあり、初めのうちは、物忘れが激しいといった程度で生活が全くできないというわけではなかった。しかし、それから3年後、先月、姉が再び母さんのもとを訪れたとき、家の中が普通じゃないくらい荒れていた。俺もその様子を撮影した写真を見せてもらったが、床には足場がほとんどないくらい物が溢れかえっていて、机の上にもこれでもかというくらい物が高く積み上げられていた。母曰く、物の場所を覚えられず、目視でしか探せないから、できるだけ目に見えるところに置いておきたかったらしい。
その事件以来、さすがに一人暮らしは危ないと言うことで姉と話し合った結果、俺が母さんと二人暮らしをすることに決まった。どちらも家庭は持っていなかったが、姉はバリバリの商社マンで、出張も多く、母さんと一緒の時間を過ごすのが難しい。一方、俺は30過ぎてもフリータをやっている、ちゃらんぽらんだったため融通がきいた。唯一の不安要素であるお金に関しては、姉が仕送りの額を増やすと言うことと、昔からお世話になっている近所の渡邉さんの元で、農業のアルバイトすると言うことで解決。帰省するための費用は姉ちゃんから借りた。
正直、この機会は自分にとって少しだけ喜ばしいことだった。就職を諦めたことが役に立ち、今までのフリーター人生が肯定されるまたとないチャンス。ここからまた人生をやり直せる。何となくそんな気がして、これからの母さんとの二人暮らしへの不安より、新生活への期待の方が大きかった。
アパートの駐車場に車を停めて、外へ出た。コートのポケットに手を突っ込みながら、庭とつながっている一枚の窓をトントンと叩く。昔から家に人がいるときはここの窓が玄関の役割を果たしていた。少し待つと、階段をゆっくりと降りる音が聞こえて、カーテンがシャッと開いた。そして窓が思い切り開けられると、みかんと加齢臭の混ざった懐かしい匂いがくすぐった。
「おかえり」
「ただいま」
そそくさと家の中へ戻る母さんの背中を眺めながら、家に上がる。
なんべんも繰り返して来たやり取りと、いつまでも変わらない母さんの匂いに、肩の力が一気に抜ける。そこで初めて、自分が緊張していたことに気付かされた。
中に入るとすぐに母さんに促されるまま、登山用リュックに詰めた日用品と、着替えの入ったスーツケース抱えて二階へ上がった。
「今日から、またここがあんたの部屋やね。片付けんといてよかったわ。エロ本とかもそのままやろうし、まだ読めるで」
「いや、読まねえし」
「ふーん。ああ、あと送られてきた荷物は机の下にあるで。配達員の方に入れてもらったんや」
母さんは楽しそうにそう言うと、にゃっはっはと笑い、また一階へ戻っていった。俺の部屋は、上京前の高校三年生当時のままで、またここで暮らすのかと思うと、なんだか恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。
その日の夕飯はカレーライスだった。これが本当にうまいのだ。サラサラとした食感に、ごろごろのジャガイモ。都会にいるときに何度もカレーは食べてきたが、この味を知ってしまっている俺は、どれだけ美味しいと言われているカレーライスを食べても、どこか物足りない気持ちにさせられていた。
「やっぱ、うんめえなあ」
「あんた、ほんとカレー好きよね」
俺が二杯目のカレーライスを完食したとき、母さんはまだ、半分も食べられていなかった。母さんは俺の皿が空いたのを見ると、何も聞かずに、三杯目のご飯をよそってくれた。
「それより、本当にごめんね。こんなことになってしまって」
「いいんだよ。俺もちょうど今の生活に飽きていた頃だったし」
「そうかい。ならいいんやけどね。まあ、家事くらいならひと通りできるから、あんたの未来の嫁だとで思ってくれ」
そう言って笑う母。
「嫁……」
不意に発せられた嫁という言葉に腹の底から焦りが湧き上がってきたが、カレーを食べて飲み込んだ。
「ごちそうさまでした」
三杯目を完食したとき、母さんはようやく一皿食べ終えて、いかにも満腹といった具合にお腹をポンポンと叩いていた。
母さんの顔には確実にシワが増えていた。思えば、俺が母さんと会っていなかった4年という期間は、東京で過ごした大学生活と同じだけの期間で、そう考えるとずいぶん帰っていなかったのだなあと感じられる。
俺が成長したと思うたび、母さんは一つ老けていく。そんな当たり前のことがひどく理不尽なことに思えて、やるせない気持ちになった。
「お皿、洗うよ」
そう言って、ご飯を食べ終えて一息ついている母さんの皿をとろうとすると、腕をパチンと弾かれた。
「ええて、ええて。あんたはもう疲れとるんだから。ゆっくり休んどき。家事くらいならひと通りできるから、あんたの未来の嫁だとで思ってくれ」
さっきと同じことを言って、同じように笑う母は、自分の発言を忘れているのか、わざと同じことを言ったのかわからなかった。そのとき、突然寒い風が家の中を突き抜けたかのように、漠然とした不安が心を撫でた。
「いいか、農業は力じゃねえ。繊細な技術と愛情さ!」
「はい!」
実家に帰ってから1週間後、いよいよ渡邉さんのところでアルバイトが始まった。柿農家である渡邉さんから俺に任された仕事は摘蕾作業と言って、木の体力を集中させるために不必要な蕾をもぎまくる仕事だった。中高とバスケ部だった俺は体力には自信があったため、なんでも来いやという気分だったのだが、予想以上に繊細さが求められる摘蕾作業に、早速めげそうだった。
「あ、今、上向きの蕾きったな。さっきも言ったが、そいつが一番育つやつだぞ」
「すみません」
「あいよ」
子供の頃から、夕飯の余りを渡しに行ったり、ここで育った柿のおすそわけをしてもらったりと、昔から親みが深かった渡邉さんは、どれだけ間違えても、俺に優しく接してくれた。俺のミスにいちいちいち嫌味を言ってきた東京のコンビニの店長とは大違いだ。でも、口調では優しくしてくれているが、心の奥ではイライラが募っていることは確かだった。少しずつ早口になっていく渡邉さんは、ミスを笑顔で指摘してくれていたコンビニの後輩の表情そっくりだ。焦りが募り、なんとか精一杯、気をつけながら作業をするようにしたが、結局、そのあと何度も渡邉さんに注意されてしまった。
「とりあえず、初日お疲れさん。ちゃんと給料は払うから心配するなよ」
その日の仕事終わり、渡邉さんに肩を組まれてにこやかな表情でそう言われた。「ありがとうございます」と返して、なんて優しい人なんだと思う反面、渡邉さんにとって今日の俺は、対価に見合わない労働をしていたんだなと思って、どうしようもなく悔しかった。
「ただいま」
「おかえり、今日はハンバーグやで」
ヘトヘトになって家に帰ると、母さんはテレビの前に座って、バラエティ番組を見ていた。優しい母さんの声を聞いて、温かい気持ちでいっぱいになる。都会にいた頃はどれだけ嫌なことがあってもいつもひとりぼっちだったから、家に誰かがいるということが、こんなにも心を元気にさせるものなのかと思った。
着替えを済ませて席に座る。深みのあるお皿の上には、ご飯、ハンバーグ、ケチャップのかかった目玉焼きが乗っていて、食欲がそそられた。「いただきます」と手を合わせ、お箸で黄身を割り、ハンバーグを口に入れる。
瞬間、大きな違和感に襲われた。
「ごめん、焼きすぎちゃったみたい……」
母さんも一口食べて、焦げたハンバーグの苦さに気づき、ひどく落ち込んだ。目玉焼きで隠れていて気づかなかったが、確かにハンバーグは真っ黒だった。見た目でわかりそうだけれど、母さんは気がつかなかったのか、味見はしなかったのか。それは、いつも美味しいご飯を作ってくれた母さんには絶対にありえないようなミスで、昨日感じた、漠然とした不安に俺は再び襲われた。
動揺を隠すように全然大丈夫、美味しいよ、と言ってそのまま食べ続けると「優しいね」と言って母は笑った。
しかし、事件はそれだけでは終わらなかった。ご飯を食べ終えた後、お皿を片付けようと台所に行くと、泥棒にでも入られたんじゃないかと思うくらい調理器具がぐしゃぐしゃになって荒れていた。
「これ、どうしたの?」
「どこに何があるのかわからなくなってしもて」
下を俯きながらボソボソと喋る母は、もう、泣きそうだった。息子にこういう姿を見られるのが母にとって、一番辛いことなのかもしれない。
「いいよ、いいよ。大変なのに、ご飯作ってくれてありがとう。俺も今度からできるだけ早く帰るようにするから、一緒にご飯作るようにしようか」
母を気遣いながら、できるだけいつも通りの口調でそういうと母さんは顔をパッとあげて、「ありがとう」と言った。
「カレーなら一人で作れたんやけどなあ」
そう言って、悔しそうにする母はなんだかとても可愛らしかった。
それから3ヶ月、母の症状は悪くなる一方だった。俺が家に来た時点でそれなりに進行してはいたが、そこからさらに拍車がかかっていった。「今何時?」という質問を何度もするようになったり、まだ1回しか使っていない、ごまドレッシングを買って来たり、お風呂を嫌がるようになっていたりと、母さんはどんどん子供のようになっていった。でも、料理や家事は相変わらず、さすがの腕前で調理器具と火の扱いさえサポートすればいつでも美味しいご飯を作ってくれた。
「だから、その枝は切ったらあかんて」
「すみません」
初めは優しかった渡邉さんは、一緒の時間を過ごすに連れて、遠慮がなくなって来た。それは仲良くなれたという意味でもあって、渡邉さんは厳しくなった反面、より優しくもなっていた。
「よし、今日は上がっていいぞ、母さんのこと大変だろうけど、お前も頑張るんだぞ」
「ありがとうございます」
でも、こんな風に優しくされるからこそ、できない自分が余計に苦しかった。
うちに帰ると、母が正座をしてこちらを睨んでいた。普通でない雰囲気。何かが、おかしい。
「あんた、盗んだんか?」
「え?」
「私の財布盗んだんやろ。今日買い物行こうと思って財布を探したらなかったんや、あんたやろ、あんたしかおらへんわ」
他人の俺を叱るように、明らかな敵意を向けて、母さんは早口で俺に迫った。身に覚えがない。しかし、戸惑う俺を母は待ってはくれない。怖くなって何もいえないでいる俺の腕を、母さんは強く握り、ブンブンと振り回した。
「返してや。お金返してや!」
少しずつ落ち着いてきた自分の頭の記憶を頼りに、財布の場所を慌てて探す。そういえば、昨日はなぜか洗濯機の上で財布を見たと思い出し、行くと、そこにはちゃんと財布があった。とりあえず安心して、財布を取り、母さんに渡す。
「母さん、ほらあったよ。盗られたわけじゃないから安心して」
「ほら、やっぱりあんたが盗ったんやないか!」
「違うよ、ねえ、母さ、」
「うるさい! 昔からフリーターのあんたや、金に困って盗んだんやろ!」
疲れていた身体の奥に、母さんの声が重く響く。
どうしようもない怒りの感情に飲み込まれ、でも母さんにぶつける訳にはいかなくて、自分の部屋に閉じこもった。ドアがどんどんと叩かれる。
もう無理だ。知ったこっちゃない。認知症とか介護とか。仕事もわからないし。だからずっとフリーターなんだ。ああ、もう。
「話は終わってないぞ! 謝れ!」
「うるせんだよ!」
そう怒鳴りつけ、俺はドアを思い切り蹴飛ばした。するとドアを叩く音は止み、母さんの声も聞こえなくなった。
お腹が鳴る。部屋の中に食べ物はない。部屋の外から出る気にはなれず、イライラは最高潮に達した。東京に帰りたい。なんとかして介護を代わってもらえないだろうか。介護士? 施設? ダメだ、そんなお金はない。
いっそ、死んでくれないだろうか。
恐ろしい考えが頭をよぎる。でも、自然とその考えを受け入れてしまう自分がいる。母さんが死んで、お葬式を開いて、それなりに泣いて、そして、ホッとするだろう。大嫌いな自分を見つけて、ぶつけようのない怒りを覚える。
ベッドの上に座り込み、痛くなるほど自分の手を強く握りしめた。
朝、目がさめた。5時。昨日のことを思い出し、重たくなった身体を引きづって、一階へ行く。リビングに母さんはいなかった。おかしい。いつもならもうとっくのとうに起きていて、お茶でも飲んでいる時間だ。昨日の母さんじゃない母さんを思い出し、不安で胸が詰まった。水だけ飲んで、二階の俺の部屋の向かいにある母さんの部屋をそっと覗いてみたが、そこにも母さんはいない。
それから、お風呂場、トイレ、洗面所と、家中を探し回ったが、母さんはどこにもいなかった。慌てて外へ駆け出すが、当然、誰の姿もない。大きなため息をつき、ついにか、と思った。腹筋に強く力が入り、焦りと心配で吐き気がした。とりあえず渡邉さんに電話で事情を説明して、母がみつかるまで仕事にはいけない、というと、渡邉さんは落ち着いた様子で「それは大変やな。俺も探すよ、近くの奴らにも声をかける」と言ってくれた。
ずっとずっと、ひたすら走り続けた。町中を探して、「母さん」と何度も声を出した。土手を、公園を、田んぼの間を、思い出の染み付いた場所を見るたび、泣きそうな気持ちになった。母さんが死んでホッとする自分なんてもういない。いなくなるのが怖くて仕方がなかった。事故にあったらどうしよう、転んで動けなくなっていたらどうしよう、幾つもの不安が心に浮かんだ。
そして、探し回ること30分。隣町のコンビニの前に母さんはいた。
「あんた、どうしてここに?」と驚いた表情の母さん。
こっちのセリフだと思いながら、「母さんこそどうして?」と聞くと、「買い物に来たのはいいけれど、帰り道がわからなくなってしまったんや」と言った。全身からするりと力が抜けて、地面に膝がつく。はあ、と長い息を吐いた。それから、見つかりました、と渡邉さんに連絡を入れた。渡邉さんは、とても安心した様子で、よかったと言った後、「今日はもう母さんの側にいてやれ」と言ってくれた。
お互いに何も言わず、どこか気まずいまま家に帰ってくると、「ちょっと待っててね、今美味しいカレーを作るから」と言って、母さんは、コンビニの袋からカレーのルーを取り出した。「朝から?」と笑ったが、本心ではカレーが食べたかった俺は、母さんの言うことに従った。
エプロンをつけて、台所に入る母さんをサポートするため、俺も台所に入る。まな板を出して、包丁を出し、必要な野菜を母さんの目に入るところに置いた。手慣れた様子で、調理を始める母さん。俺は邪魔にならないように後ろからその様子を眺めていた。
「あのね、調理器具の場所とかはわからないけれど、カレーの味付けはちゃんと覚えているのよ? 隠し味はいつもジャガイモでね。お母さん、たっくさん作ったんやから」
「俺、母さんのカレーが大好きだからね」
「ほんとよね。だから、運動会の前の日とか、バスケットボールの試合の日とか、あなたが東京へ行く前の日とか。もうね、あんたがあまりにもこのカレーを美味しそうに食べるもんやから、たっくさん、たっくさん作ったんやで」
人参を切りながら、誇らしげに笑う母さん。楽しそうに調理をする背中を見て、子供の頃からずっと一緒だった母さんとの思い出が、初めて輪郭を帯びたみたいにはっきりしたものに感じられた。今、目の前にいるのは間違いなく、俺の大好きな母さんなんだ。
「母さん、昨日はごめんね」
「昨日? なんかあったか?」
「ごめん」
「ああ、わかった、わかったから、もう泣くなや」
母さんは包丁を置いて、俺の身体をそっと抱き寄せた。小さな身体からとてもあたたかい温もりを感じて、涙が余計にこぼれ落ちる。このまま時間が止まればいい、そう思った。
それから二人で美味しいカレーを食べた。このカレーには母さんと俺と、家族の思い出が詰まっている。そして、美味しいものを食べさせたいという母さんの優しさが詰まっている。そう思うといつも以上にカレーが美味しく思えて、あっという間に鍋が空っぽになった。ごちそうさまでした、を済ました後、「あれ? そういえば、今日、仕事は?」という母さんに思わず笑みがこぼれた。母さんのせいで休んだというわけにもいかず「母さんと会えないのが寂しいから休んだ」と嘘をつくと、嬉しそうに笑いながら「悪い子ね」と言った。
「ねえ、母さん。今日休んじゃって暇だから、カレーの作り方、ちゃんと教えてよ。おんなじ味が作れるようになりたいんだ」
「また、カレー作るの? あんたほんとカレー好きね」
「食べたりないんだよ」
外しかけたエプロンを付け直し、お皿を片付けて、母さんと再び台所に入った。もしも、母さんがカレーも作れなくなってしまったら、俺がこのカレーを作ろう。そして、いつかお嫁さんができて、子供もできた時、この味を引き継いでいきたいと思う。そうやってたくさんの思い出を一つのお皿に載せられれば。
「さ、それじゃあ始めるわよ、慎二」
そう言って、キュッ、とエプロンをきつく締める母の背中は、子どもの頃に見上げていたあの時のような、大きな、大きな背中だった。