第六乃遊戯 真贋の境界軸
「ラビリンス」を出てトイレ休憩を取っていると、夜代が、ぼそっと呟いた。
「みつめちゃん、考えたりするの好きだから、解いてくれると思ったんだけどな」
花歴はもう考えるのをすっかり諦めたのか、鏡の前でメイクを直して言った。
「仕方ないって。だって、これまで解いた人二人しかいないって多世里さん言ってたし。もちろん、その二人のうちの一人は多世里さんだろうけど」
みつめは未だに答えを考えていた。しかし、考えれば考えるほどますますわからなくなって、頭が混乱してきた。自然と口数も少なくなっていた。
トイレを出ると、多世里がいなくなっていることに、四人は一分ほど経ってから気が付いた。
「多世里さん、どこ行ったんだろう。ここで待ってるねって言ってたのに。買い物かな」
四人はしばらく談笑して時間を過ごしていた。しかし、いくら待っても多世里は戻ってこなかった。心配になった四人は、多世里を探すことにした。といっても、実際に動いたのはらいかだけだった。十秒ほどで戻ってきたらいかは、多世里が、園の北西部にある小高い丘にある展望台にいると教えてくれた。五分ほど歩くと、楼閣のような建物が見えてきた。楼閣のエレベーターに乗り込み、三階まであがった。エレベーターを降りると、多世里が、水槽で泳いでいたカラフルな魚に餌をあげていた。
「きれいな魚でしょ。南国の希少価値の高い熱帯魚なんだって」
多世里はまたしても、誰もいない隣の虚空に話しかけていた。
「多世里さん」
みつめは声をかけた。
「あら、みんな、ごめんね。この娘がどうしてもここで景色を見たいって言うもんだから」
多世里は、しょうがない人ね、と笑った。
「べ、別に構わないわ。急にいなくなっちゃったからちょっと心配しただけで」
三階は展望台のみで、水槽や望遠鏡、小さなドリンクカウンターがあったが、なぜか、みつめたち以外に客の影はおろか、スタッフの姿すらなかった。
「ここからの眺めはなかなか素敵よ。降りる前に見ていったらどうかしら」
多世里が言った。
「そ、そうね。じゃあお言葉に甘えて。夜代は高いの苦手だから、その辺で体育座りでもして待ってればいいから」
みつめが歩き出すと、多世里はその後をついてきた。みつめは不穏な気配を感じ、振り返った。多世里の目は狩人のように鋭く光っていた。
「ど、どうしたの、多世里さん」
「何でもないわ。ほら、眺めの良いところを案内してあげようかと思ってね。ほら、この娘もあなたに見せてあげたい景色があるんだって」
みつめは、多世里が何か別の目的を持っている気がしてならなかった。
「ね、ねぇ、その娘……いつから付き合ってるの?」
みつめは聞いてみた。
「付き合いだしたのは三年前だけど、私たちはそのずーっと前から、運命の赤い糸で結ばれていたの。素敵だと思わない?」
見えもしない者を素敵か否かなど判別できなかった。みつめは生唾をごくりと飲み込んだ。
「お名前は?」
「集。幽霊集っていうの。少し変わった名前でしょ」
その名前を聞いた瞬間、悪い予感は完全に消え去っていた。危険という確信に、瞬く間に形を変えていた。みつめはその不吉な名前に宿る意味を、知っていた。もはや何者か、誰も知らない、謎に満ちた女性、二年前に卒業した学校の先輩。
それが、どうしてこんな場所で、まるで本当の幽霊のように現れたのか。
みつめの不安が顔に出た。多世里はスマホを取り出して、素早く操作した。
「みつめちゃん、何かくるよ」
らいかが珍しく緊張した声をだした。
何、と聞き返す暇もなかった。
天井や壁から、それは降ってきた。まるで夏の気温異常で突発した、ゲリラ豪雨の如く。
鋭利な先端を鈍く光らせる、無数の矢の雨が降ってきた。
「嘘でしょ!? 死ぬって!」
「ははははははっはは……そう!」
多世里が邪鬼に精神を食い破られたような、半狂乱の高笑いを上げた。
「そうよ! ここは、私が集と一緒に急病人を助けてあげた思い出の場所。あぁ、集……私のもとに早く返ってきて! 私はいつまでもあなたとの記憶を忘れないわ。ほら、こうして」
多世里が、またスマホを操作した。矢はらいかが全て蹴り飛ばしてくれたが、間髪をいれず、今度は、ガタン、と床に振動が走った。
「回れ回れ」
地面が、ゆっくりと回転を始めた。みつめは近くにあった望遠鏡につかまった。
「この建物どうなってんのよ! らいか! 多世里さんを止めて!」
らいかは回転する床をルームランナーのように走って、定位置をキープしていた。親指を立てて見せると、床と一緒に回転している多世里に狙いを定め、かかとをあげた。
らいかの疾風のような足払いが炸裂した。多世里はそれを飛び上がって回避した。続けざまに放たれた後ろ蹴りが、らいかを襲った。らいかは内側の壁に叩きつけられた。
「らいか!」
多世里は、邪鬼に取り憑かれたような笑みを崩さずに言った。
「無粋ねぇ、私たちの大切な思い出を邪魔しようだなんて」
遠心力が一番かからない場所で座っていた夜代が、悲痛な声を上げた。
「多世里さん、やめてください! 正気に戻って、お願い」
「正気? 私はずっと正気よ。集はこうしてここにいるし、私たちは永遠に愛し合っている。それ以外に何があるっていうの?」
「多世里さん、あなたの隣には誰もいません。集さんなんて人、私には見えない」
多世里はスマホを固く握りしめた。自分自身で、狂気を抑えつけているようにも、一気呵成に吐き出そうとしているようでもあった。
「そうよ……集はいない。だって死んでしまったから。この私の目の前で。世の中には世間に知られていない病気がたくさんある。集は十億人に一人の奇病で死んだの。ねぇ、分かる? 天文学確率で命を奪われる人間の気持ち。集はね、思考したぶんだけ体が劣化する奇病にかかってしまったの。そんなの……信じられる? 受け入れられる? 私にはできない。信じたくない。私は集の死を信じない。何があっても」
みつめはその独白を聞きながら、強烈な違和感にとらわれていた。幽霊集は死んでいない。以前、清子の前に彼女は姿を現した。清子の話が嘘でないならば、幽霊集は今もどこかで生きている。不気味な靄にその身を包まれながら。しかし、なぜ幽霊集がそんな嘘をついて多世里の前から姿を消したのか、知る由もなかった。
夜代は、なおも説得するように言葉を繋いだ。
「たとえ集さんがいなくなっていたとしても、こんなの、きっと集さんは喜ばないわ。お願い、もうこんなことはやめて!」
多世里は全く聞く耳を持とうとしなかった。
突然、スマホを入れているポケットが、振動して、みつめは不意をつかれた。知らない人物からメールが届いていた。みつめはそれが当然であるかのように、メールを開いていた。
送り主は、多世里に死んだと偽って姿を消した、幽霊集本人からだった。
突然すまないね。今君たちの眼前にいる彼女、桃乃多世里について君たちに忠告しなければならないことがある。君たちは多世里から、私はすでに謎の奇病で死んだと聞かされているだろう。しかし、君たちも気付いているだろうけど、私は死んでなどいない。嘘っぱちだ。私がどうして彼女にそんな嘘をついたのか、話しておく必要があると思う。
彼女が私と最初に出会った時、彼女は病院にいた。私はたまたまその前を通りかかったのだが、ふと屋上を見ると、フェンスにつかまって三十メートル下の、アスファルトを睨みつけている彼女がいてね。彼女は私に向かってパラシュートもなしに降下してきたのだよ。全く、私が普通の人間だったら、私までぺしゃんこに潰れてしまうところだったよ。四十キロの人間が落下する破壊力は想像以上だから。ともかく、私は彼女を助けてしまった。私は神様を呪ったよ。「どうして私に人の命に干渉させるのか」とね。彼女は自殺未遂でこの病院に入院していた。恋人にフラれたから、なんていう短絡的な理由で、自らの体に傷を付けたらしいね。同時に、彼女は恋愛に関して、異常なまでの依存の症状を持っていた。私には到底理解できないが、依存している相手に拒絶されたことが、彼女にとっては自らの命よりも重かったようだね。私は彼女を助けてしまったことで、彼女の恋愛の対象にされてしまった。最悪なことに、彼女は私を理想の相手だと言って放そうとしなかった。だからといって彼女を放置すれば、すぐにでもまた屋上から身を投げることは自明だった。だから、私は彼女と、彼女が運営しているテーマパークでデートをすることを提案した。そこで、彼女に催眠術をかけて、彼女が幻影の中でも生きられるようにしてあげた。
そうなれば、分かるだろう? 彼女の催眠術を解くような真似をしてはいけない。催眠術が解けた瞬間、彼女は迷わず死を選ぶ。君たちが出来ることは、ただ見守ることだけなんだ。夢の中で生き続けるか、夢さえない無の世界で沈黙するか――。考えずとも答えは明白だろう? 考えることが好きな君たちなら、なおさらのこと。
「多世里さん、また次のお客さんに、私たちと同じことをしているのかな」
幽霊集からのメールを読んで、みつめは集の忠告に従うことにした。それが良いと判断したわけではない。むしろ、多世里を再度入院させてでも、治療を施すべきだと考えていた。でも、みつめは集の方針に従うことを決めた。
みつめは言った。
「多世里さんの執念は私たちでどうにかできるレベルを超えている。精神病院に入ったところで、何も変わりはしない、私はそう思うの。それにさ、今日一日多世里さんと一緒にいて、彼女本当に楽しそうだった。私たちに自分の園を紹介する時も、空想の集さんに話しかけていた時も」
らいかに背負われた夜代は、少し顔色が悪かった。帰り道、四人は夕日を背に、歩道橋を歩いていた。
夜代が言った。
「でも、まさか多世里さんがあの遊園地の所有者の娘だったなんてね。経営権が全て多世里さんに渡る以前は、普通の遊園地だったらしいね。廃れて潰れる直前で、多世里さんが全てを任されたって言ってたよね」
「ひどい話よね。もう続けられないって分かっているものを譲り受けて……それでも、閉園を免れたのは、単純に多世里さんの頑張りがあったからだわ。奇抜すぎるきらいはあるけれど、潰れてなくなってしまうよりは、よかったのかな」
花歴が口を挟んだ。
「爆破落ちが多いのはちょっといただけなかったけどね」
階段を慎重に降りながら、みつめは答えた。
「クリアすればいいのよ。ほら、最後に私たちがしたように」
花歴は首を傾げた。
「クリア?」
「そう。最後の塔あったじゃない? 気が付かなかった? 火薬の臭いがしてたのよ。もし選択肢を間違えていたら……ボカンっ! って」
みつめはジェスチャーで、手を大きく広げてみせた。
「じょ、冗談だよね」と怯える夜代。
「もちろん。本当、冗談じゃないわよ」
みつめはそう言って、戸惑う幼馴染の顔を見ながら、意地悪く微笑んで見せた。