第四乃迷夢 狂喜的、あまりに狂喜的
世界各地で媚薬としての効果がある食材を集め、自作した『惚れ薬』。一滴飲めばたちまち恋のとりこになる。お小遣いがすっかり消し飛んでしまったが、作った甲斐はあった。香里が、指を這わせて、体を密着させてくる。腰の辺りを何度も執拗に撫でてくる。顔を寸前まで近付け、少し顔を前に倒すだけで、唇同士が触れ合いそうな距離だ。甘い吐息が首筋から全身に伝わって、わずかに体が反応してしまう。
「夜代ちゃん、私、本当はあなたと会ったこと、覚えてるの……知らないフリなんてして、ごめんね」
香里にあちこち触られているうちに、夜代は脳内がクラクラしてきた。媚薬の効果が、香里の吐息を通じて、自分にも現れ始めたのかと思った。しかし、玄関先でぶつかったのは気のせいなどではなかった。紛れもない事実である。媚薬の効果で幻覚を見て、話を合わせてくれているのではないと分かっていた。
「どうして、知らないフリなんかしてたの」
香里が、胸に手を当ててきた。
「どうしてだろう」と香里。夜代は、香里を思いっきり抱きしめようと思ったが、香里は急に体を離した。何かを振り払うように、首を振った。
「ちょっと、体が熱いの。部屋に戻りましょう」
「う、うん……」
夜代は、千載一遇のチャンスを逃してしまったことを後悔した。あと少しだったのに。でも、媚薬の効果を確認できた、と心の中で歓喜の雄叫びを上げていた。
ニヤニヤする顔を必死に真顔に矯正しながら、夜代は香里を引き連れて、部室に戻った。ぐったりしている香里を見るなり、みつめが心配そうに駆け寄ってきた。
「どうしたの? 大丈夫?」
香里は、少し立ちくらみがしただけ、とパイプ椅子に腰をおろした。額からは大粒の汗が吹き出していた。
「夜代、どうしたの、香里さん」
「う、うーん、廊下歩いてたら、ちょっと気分悪いって、うずくまっちゃって」
夜代はとっさに嘘をつく。
「本当に大丈夫よ。座っていれば気分も良くなるわ、きっと」香里は引きつった笑顔で言う。
「そう。じゃあ、どうする? これ。香水はもういいの? 手帳は?」
みつめが尋ねると、香里は急に顔を上げた。しかし、何か言いたくても、上手く言葉にできないようで、口をパクパクさせている。
「読むの? それとも、ただ手帳の匂いを嗅ぎたかっただけ?」
香里は首を振る。当然だろう。どこの世界に手帳の匂いを嗅ぐためだけに、人に頼んでまで盗ませてくる者がいるだろう。目的はそこにないことくらい、哲学部のメンバーにも分かっていた。
煮え切らない香里の態度に、みつめは少し苛立つ。手帳を手に取った。香里が、やめて、と小さく悲鳴をあげた。
「待って、開けないで」
「早くしないと、バレー部帰っちゃうわよ。この手帳と香水がなくなっているのに気が付かれるのは私たちとしても避けたいの。ほら、早く、見るなら見る、見ないなら、らいかに持っていってもらうわよ」
香里はひどく葛藤するように頭を抱えた。額からは、汗がさらに激しく吹き出してきていた。
みつめは溜め息をつくと、必死にニヤニヤ笑いを堪えているのか、気味の悪い笑みを浮かべる幼馴染に、喝を入れた。
「夜代。あなた、そんな締まりのない顔をしないの。もしかして、そのニヤニヤの元が取られたことにも、気が付いていないのかしらね」
夜代が、急に低級悪魔のような笑みから、能面のような無表情に変わった。そして、制服のポケットをあさり、ない、ないと繰り返した。
「やっぱりね、そういうこと。あんた、その女に色仕掛けでも使われたのかしら」
「どどど、どうしてそれを……!」
みつめは、あからさまに狼狽する夜代から、攻撃対象を、暗く俯いたままの依頼者へと、変えた。
「あなた、本当は夜代のこと、前から知ってたんじゃないの」
香里は黙ったまま、答えない。
「おかしいと思ったのよ。夜代は脳内お花畑だけど、それはあくまで妄想している時の話よ。顔を見れば分かるもの。夜代があなたのことを話していた時の目は、現実を語るときの目だったわ。夜代はつまんない嘘はつかない。つまり、あなたは実際、夜代と接触があった。夜代の言葉がもし正しいとすれば、あなたは前から夜代に興味を持っていた。ううん、夜代のあるモノに、強い興味があった。そうでしょう。それが、夜代がどっかから材料いっぱい集めてコソコソ作ってた、『惚れ薬』だった。そして、頃合いを見計らって、夜代に奇襲を仕掛けて、まんまと奪った、ってところかしらね」
香里は、顔色を真っ青にした。何かを堪えるように、目をぎゅっと閉じていた。
「そう……私は、夜代さんが媚薬を作っているって話を、風の噂で聞いて……うぅ」
そう言って、香里は夜代の手を握った。
「えぇ?」と驚く夜代。香里の手は小刻みに震え、汗でベトベトだった。
「ま、まさか、自分が盛られるなんて、思いも……しなかったけれど……よ、夜代ちゃん……なんて素敵な……ううん、だめよ、私、あぁ……」
香里はジリジリと、夜代との距離を詰めていく。パイプ椅子から体がずり落ちても、気にせず、ただ夜代の瞳だけを見つめていた。
「夜代ちゃん……あぁ……この媚薬を使って、凛を、凛……凛」
香里が何か思い出したように、我に帰った。
「そうだ、凛……私の大切な人、誰にも渡さない……あの香水の女にだって……」
「香水の女?」
「そうよ、凛にあげた香水には、少し変化をつけてあるから、別の女の匂いがすれば、すぐに分かるわ。凛からは、ずっと私があげた香水の香りがしていた。だけど、最近、私に隠すようにして、凛があの手帳を持っているのに気がついた。その手帳から、別の女の匂いがしたの……私は許せなくなって、誰か突き止めてやろうと……うぅっ」
香里は何度も拳で地面を叩いた。媚薬の効果を、憎しみの力で打ち消そうとしているようだった。そんな香里に、みつめは手帳を差し出した。
「読んでみなさい。その相手が誰なのか」
香里は拒否した。見たくない、と。じゃあ、これは返しましょう、と言うと、それも拒否してきた。みつめは聞き分けのない子供のように現実から目をそらす香里に、ほとほと困り果ててしまう。
「あなた、ニーチェって知ってる? 偉大な哲学者……と言ってもいいかしらね。彼が言った言葉の中にね、こういうのがあるわ。『愛されたがる。――愛されたいという要求は、自惚れの最たるものである。』ってね。彼に言わせれば、あなたのそれは、自惚れの親玉みたいなものよ。私も今、彼の意見に賛成したい気分よ。あなた、彼女、凛さんに、その媚薬を盛るつもりだったのでしょう? 彼女の意思なんて、お構いなしってわけなの?」
「そんな、そんなことはない! 私は、彼女と付き合っているの……ただ、心配なだけで……」
「だとしても、凛さんにだって選ぶ権利はあるはずよ。今あなたが味わっている苦しみを強要して、凛さんを手に入れるだなんて、自惚れを通り越して、悲惨でしかないわ」
香里はみつめの言葉に、しばらく考え込んでいたが、途切れ途切れの息を整えて、手帳に手を伸ばした。震える指で、ページをめくろうとしたが、手元が震えて、床に落としてしまった。再び拾い上げると、ゆっくりと、ページをめくっていく。やがて、一枚一枚ページを改めるごとに、彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。そして、その場に突っ伏して、号泣した。
「凛……凛……!」
夜代が、おびえたように口を開く。
「だ、誰なの……その人」
みつめは夜代にこっそりと耳打ちする。
「誰でもないわ。強いて言うなら、香里さんかしらね」
手帳の中には、香里に対する愛の奔流がぎっしりと詰め込まれていた。二人がトイレに行っている間に、悪いとも思ったが、みつめは中身を確認していた。冒頭を読んだだけで、顔が真っ赤になってしまうほどの、熱愛ぶりだった。そこで、今回の依頼の最初から、香里の行動を組み立て直し、夜代の媚薬が狙われていることにみつめは感づいたのであった。
「全く、人騒がせなカップルなんだから」
みつめはやれやれと嘆息する。香水を取ってきてほしいと言ったのは、香水に媚薬を混ぜるつもりだったのだろう。後でこっそり夜代に媚薬を返すつもりだったのかもしれない。ただ、それにしても、謎はまだ残っていた。
「でも、その手帳の匂いって、一体誰のものなのかしら。浮気してる感じでもなさそうだけど」
花歴が「もしかして」と推論を口にする。
「凛さん本人の匂いかもね。家帰ってお風呂入った後とかも、ずっと肌身離さず持ってるうちに、香りが移ったのかもしれないね」
「確かに、香水の匂いに慣れてしまったら、彼女の本当の匂いなんて忘れちゃって、誰か別の人の匂いって思うかもしれないわね」
だとすれば、とんだ勘違いの惚気話に巻き込まれてしまったことになる。ただし、実害といえば、そもそもの元凶、夜代が効果抜群の精神的ダメージを受けたくらいである。しかしながら、媚薬で擦り寄る香里を荒い吐息で抱きしめている姿は、あまり同情できないな、とみつめは夜代に忠告する。
「夜代、そろそろやめておきなさい」
「で、でも、香里ちゃん、いい香りするんだもん」
「あれ、そういえば、あの媚薬って、夜代のことが好きになるの? だとしたら、凛さんに使ったら、夜代のこと好きになるんじゃない? っていうか、そもそもだけど、本当に効果あるのかしら、それ」
夜代は興奮しながら喜びながら怒るという、奇妙な芸当をみせた。
「当たり前じゃないほら、こうして私の可愛い仔猫ちゃんが私に……あっ」
みつめは香里の制服のポケットをまさぐり、例の『惚れ薬』を取り出した。蓋をポンと開けて、匂いを嗅いだ。あまりいい匂いではなかった。
「香里さんって、結構執念深いというか、信心深いというか……プラシーボ効果とかじゃないのかしらね」
瓶に指をつっこみ、ほんの少し、舐めてみた。無色透明な見た目とは裏腹に、即座に吐き出したくなるほどの苦味が舌を覆い尽くす。みつめは吐き出したくなるのを何とかこらえ、飲み込んだ。
「うわ、マズっ!」
小瓶をすぐに窓から放り投げようと投擲フォームを取ったが、下に人がいたら大変なので、後で中身を全て捨てて瓶だけ返そうと、ポケットに媚薬をしまった。
「何も起きないわよ。やっぱりただの苦いだけの水じゃない」
夜代は、香里を自分の胸でギュッと抱きしめている。
「みつめちゃん、それ返して。私のお年玉とお小遣い全額つぎ込んだんだから」
みつめは即座に首を横に振る。
「どうせこんなの偽物じゃない。子供の小遣いで惚れ薬なんて作れるわけないじゃない。バカなことばっかりやってないで、少しは哲学の勉強でも……あれ、なんだか、頭が……」
急に、目の前がグルグル回りだした。もしかしたら、お酒のように人を酔わせる効果があるのかもしれない。みつめは自分の持ってきたお茶に手を伸ばす。しかし、いくら飲んでも、酔いがおさまらない。ふと幼い頃からの友人に目をやると、いつもより、輝いて見える。
「あれ、私……どうして、夜代……」
心臓の奥の、さらに奥からこみ上げてくる衝動が、夜代の手入れのあまり行き届いていない、艶のない髪を、撫でろ、と突き動かす。激流のような衝動とともに、脈打ち疼き始めていた。知らず、体が動く。
「あら。みつめちゃんも? しょうがないなぁ。ほら、おいで」
無言とともに、一連のやり取りを受け流していた花歴が、ひとりごちた。
「部長まで……ここ盛り場じゃないんだけど、マジで。よそでやってくんない?」
誰からも返事は返ってこなかった。ただ、夜代の歓喜の雄叫びだけが、部室を夕日の朱色に染めるまで、響き続けていた。
引用文献 『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』(ニーチェ全集5) P.435
フリードリッヒ・ニーチェ 著 池尾健一 訳
筑摩書房 ちくま学芸文庫 一九九四年 一月