第三乃迷夢 少女と媚薬のエンドレスワルツ
夜代はその出会いを熱っぽく語りだした。
「そう、まさに衝撃だったの。私が朝食のハムサンドをくわえながら、玄関を飛び出したその時! 彼女とぶつかってしまったの」
花の女子高生にもなって、何の予定もなくしっとりと集まった哲学部のメンバーは、黒板の下半分を埋め尽くさんばかりに書かれた「小説におけるキャラクターの魅力」という文字を完全に無視して、雑談に興じている。
「それで? 背中に『開封厳禁』の張り紙でもされて、まんまと逃げられたとか?」
みつめは嫌々そうに夜代の話に付き合っていた。
「イタズラ被害の報告じゃないのっ。それでね、その子が私のカバンを拾って、私の手を取ってきたの。『ごめんなさい、怪我はありませんでしたか?』って」
「ふーん。脳以外でどこか怪我したの?」
「私の体は至って健康でした! あと脳だけ選択肢から外さないで」
「で、どうなったの?」
みつめが尋ねると、夜代はそのまま一緒に登校したこと、少し前から、気になっていたと相手に言われたことを夢見がちな口調で答えた。
「うわー。脳完全にいっちゃってるじゃん」
花歴がどぎついギャルメイクで夜代につっこみを入れる。ティーン雑誌を机の上に見本市よろしく並べて、大量の付箋をペタペタと貼り付けている。自分が特集されているページだけでなく、他のページも入念にチェックしている。見た目と反して実に仕事熱心だが、声はいつものチャラさを維持したままだ。夜代はむすっと頬を膨らませ、非常に不機嫌な声を出す。
「妄想じゃないよ。これは現実。リアルなんだから。ついに私にも春がやってきたのよ」
歌うように節をつけて喋る夜代。みつめはやれやれと首を振る。
「一緒に登校したっていうなら、その子うちの生徒でしょ? 誰よ。名前言ってみなさい。直接質問してきてあげるから」
みつめとしてはどうせ、いつもの夜代のお花畑の生み出した、たちの悪い幻覚だと決め込んでいたのだが、夜代はあっさりと名前を口にする。
「三年の五代香里さんよ」
五代香里、と聞いて、みつめも朧気に思い出していた。横で、花歴が驚きの声を上げる。
「五代香里って、確かうちの学校でもトップクラスの美人で、よくモデルとかのスカウトがきてるってあの子? 私も何度か事務所からその名前聞いたわ」
五代香里。その特筆すべきは見事なプロポーションだという。花歴とは違って清純派タイプで、路線が違うため、花歴も事務所に勧誘を頼まれたことがあった。ただ、本人にその気はないらしく、花歴もあまり競合相手を増やすのも気が乗らなかったので、実際に声はかけなかったらしい。
「じゃあ無理ね。夜代には高嶺の花よ」
みつめはそろそろ雑談を終わりにしたかった。部活動として、少しでもそれらしいことをしたい。これではただの雑談部だ。これまでの話に哲学的要素など一オングストロームもない。黒板を丸めた中指でコンコンと叩き、みんなの視線を集めようとしたが、夜代がカバンから取り出した小瓶に、部員の注目が完全に奪われていた。
「ふふ……私にはこれがあるの」
夜代が取り出した小瓶には、無色透明の液体が入っていた。夜代はそれを丁寧に机に置くと、誇らしげに鼻を鳴らす。
「これは、私が独自に開発した、特製『惚れ薬』よ。これを飲ませた相手は、私のことが頭から離れなくなって、どんな難敵でもイチコロ、最上級ハーレムまっしぐら、新たなる私の人生の幕開け。曙光よ今ここに!」
部員の反応が薄いことに、夜代は一瞬不満そうな顔を見せたが、すぐに得意げに笑う。
「ふん。いいもん。別に信じてくれなくっても。私一人だけバラ色人生送ったって、後で恨み言言わないでちょうだいよ」
恨み言もなにも、誰も、言葉がそもそも出てこなかった。そういえば、最近コソコソと何か妙な薬を作っている、というアホな現代魔女っぽいことを言っていた気がする。みつめは友人の将来が急激に不安になってきた。いくらモテないからといって、変な薬を作り出すなんて、狂気の沙汰だ。道を誤る前に自分が引き戻してあげるべきか、そのまま走破させるべきか。それが問題だった。みつめは優しく声をかける。
「夜代。落ち着いて。現実から目を逸らさないで。大丈夫、人生、悪いことばかりじゃないから。だから、その瓶は思い出と共にそこの窓から捨てましょう」
夜代はぶんぶんと首を振る。
「ダメ! これは本物なの! 捨てるなんてできない」
夜代が小瓶を大切そうにぎゅっと握り締めた。ちょうどその時、部屋のドアをコンコンとノックする音が部屋に響いて、遅めのお昼寝をしていたらいか以外の全員が、小さく震え上がった。突然の訪問者に、忌まわしい記憶が脳裏をよぎる。通常、哲学部に用事のある者など皆無だ。先生すら来ない。来るとすれば、花歴が学校のHPに掲載した、『悩み相談募集中』を真に受けてしまった哀れなる訪問者しか考えられなかった。みつめはごくりと生唾を飲み込む。一瞬、居留守を決め込もうかと選択肢が頭をよぎったが、ウトウト眼のらいかが、「はぁ~い」と眠そうに返事をしてしまった。その声に呼ばれて入室してきた人物を目の当たりにし、らいか以外が言葉を失った。その人物が、例の五代香里だったからである。
「ある物を、取ってきてほしいんです」そう言われ、長く整ったまつ毛をうつむかせた時も、みつめはただ、驚きと共に依頼者を見つめていた。百六十後半はありそうな身長に、豊かに膨らんだ胸部から落ちる流線型は見事にウエスト部分でくびれ、その反動を利用したのか、見るものをうっとりとさせるヒップライン。花歴のような技術で攻めるタイプではない、純粋な素材勝負だ。みつめは自分の、何も遮るもののない幼児体型と比較し、心の中で慨嘆した。
依頼の内容はこうだった。ある人物から、気付かれないように、香水と手帳を取ってきてほしい、というものだ。いくら何でも、人から物を勝手に拝借するのは、悩み相談でも何でもない。ただの泥棒だ。しかし、五代香里は、その香水というのは自分がその人物にあげたものだという。手帳の方は本人の物であるが、依頼者はそこをなんとか、と倒産寸前の営業マンみたく頭を下げてきた。困り果てた哲学部のメンバーだったが、夜代が、チラチラと、みつめに目配せをする。みつめはそれを豪快にスルーして、単刀直入に、香里に切り込んだ。
「あなた、うちの夜代に色目を使ったって、本当? 本当だとしたら、あなた相当変人よ。夜代はこう見えてね、見たまんまの、残念系妄想女子なのよ。悪いことは言わないわ、他をあたりなさい」
香里は思いの外小さい声で、答える。
「夜代さん? あぁ、そちらの方ですね。私、色目なんて使ってませんよ。そもそも、どこかでお会いしましたかしら?」
やはり、夜代の妄想だったのか、とみつめは脳内にヒヨドリが二千羽くらい詰まってピヨピヨと大論争でもしてるであろう、哀れな失恋妄想女子を眺めるが、その虚ろに開かれ、虚空を彷徨う目線の先に気が付くと、全身の血の気が引いていく思いがした。夜代が、俊敏な手さばきで香里が机に何気なく置いた、ペットボトルのお茶の蓋を、くるくると回して、開けていた。ポケットから無色透明の液体の入った小瓶を取り出したのを見て、みつめは叫んだ。
「夜代、やめなさい!」
夜代は、魂の抜けた人形のようだった。しかし、恐るべき速さでペットボトルと小瓶を背中に隠すと、「何?」と空とぼけた。そして、「これのこと?」とペットポトルのお茶を見せる。そして、やだぁと笑うと、ペットボトルを元の場所に置いた。
「落ちちゃったから、拾ってあげてたの。どうしたの、みつめちゃん、そんな大声なんか出して」
夜代が本気であのお茶に細工しようとしたのか、判断ができなかった。それほどまでに、素早い手つきだった。香里は「ありがとう」とお茶の蓋をくるくると回すと、口をつけて、飲んだ。一瞬、夜代の目が光った気がした。
「香里さん、困ってるみたいだし、助けてあげようよ? ね、みつめちゃん」
猫なで声で急にねだり始めた夜代に、先にあの媚薬とやらを入れてしまったのか、詰問したかったが、もはや、後の祭りだった。もう飲んでしまったのだから。
「でも、人のものを勝手に取ったり見たりするのはねぇ。大体、そんなもの取ってきて、何するつもりなの?」
「人の物って言っても、私の友達の物だし、すぐにまた返していいから。ちょっと確認したいだけ。お願いします」香里は頭を下げる。
みつめはどうしようか、と部員を眺める。夜代は急に生気を取り戻し、熱い視線を送ってくる。花歴も、特に反対の様子を見せない。らいかは、一体何に疲れたのか、寝ている。諦めるしかないようだ。
「いいわ。取ってきてあげる。ただし、ちゃんと取ったものは返すこと。それだけは約束して」
香里は嬉しそうに感謝の言葉を伝えてきた。香里が香水と手帳を取ってきてほしい、と依頼してきた人物は香里の友人で、桶井凛という名前であった。バレー部に所属しており、放課後は体育館で練習中だという。寝ているらいかを叩き起こし、哲学部の四人と依頼者、香里は体育館へと向かった。体育館では、威勢の良いかけ声と共に、バレー部がスパイクの練習をしていた。高校生とはいえ、その覇気は凄まじく、宙高く放り投げられたボールを、ぺちゃんこになりそうなほど叩きつけている。直撃したら骨折してしまいそうな威力だ。その中に、人一倍クールビューティーな部員がいた。彼女が凛だという。みつめたちは練習風景から視線を横にずらす。生徒たちのカバンが、乱雑に積み重なっている一帯で、マネージャーが、熱心に手元の紙に何か書きこんでいた。
「どうやって取ってくればいいのかしら」
「もう、それを頼んでるんじゃないの」と不満を露わにする香里。確かにそうだが、哲学部は泥棒集団ではない。そんな訓練も積んでいない。
「らいか、取ってきて」
この場面で考えられる、唯一にして最高の選択肢だ。らいかの速さがあれば、一秒もかからないだろう。
「はぁ~い」
二度目になる寝ぼけ声を残し、らいかは姿を消した。しかし、何秒待っても、帰ってこない。不審に思い、体育館を見渡すと、らいかが、バレー部の強烈スパイクを返していた。思いの外上手かった。綺麗にセッターのいる場所にボールが次々と流れ込んでいた。
「らいかってやっぱり体育系は上手いのね」
「関心してないで、早くなんとかしてよ」と香里。
仕方ないので、らいかに、みつめは手で合図をする。それじゃないよ、カバンから手帳と香水を取ってきて、とジェスチャーしてみるが、無理そうなので、途中でやめた。手招きして、戻ってくように、と合図する。
「スパイク返すのが目的じゃないの。らいか、あのカバンの中から、香水と手帳取ってきて」
「泥棒はよくないよ」
「その話はもう終わったの。早く行ってきて」
再びらいかが姿を消すと、バレー部員たちが、ざわついているのに気が付く。急に風のように現れて、自分たちのスパイクを見事にさばいたのは誰だ、と体育館中に奇妙な空気が流れ始めていた。らいかの帰還を確認し、すぐさま体育館を後にする。部室に戻ってくると、走ったせいで少し汗ばんだ体を冷やすために、しばらく休憩をとった。机に置かれた二つの品物を、香里は熱心に眺めていた。
「これ、クロエじゃない?」と声を出したのは花歴だった。
香里は、さすがねといった感じで頷く。
「そう。これはクロエのオードパルファムよ。ただし、私なりにちょっと手を加えてあるんだけどね。スポーツしてても香りが持続するように」
全然ついていけそうにない会話が花歴と香里の間で始まってしまい、みつめは、手持ち無沙汰のまま、もう一つの品物に目をやる。手に取ろうとすると、香里が形相を変えて遮ってきた。
「ま、待って、それはまだ触んないで。そ、そうだ。頭領さん。あなた、香水とかも詳しいんでしょ? なら、この手帳についてる匂い、どの香水だか分かるかしら?」
花歴は手帳を受け取り、くんくんと匂いを嗅いでいる。しかし、難しい顔をして、首を振った。
「確かに、少し匂いがあるけど、なんだろう……フローラル系、コロン……違うかな。エタニティっぽいか……どっちにしても香りが少ないから分かんないね。そもそも手帳に香水なんて振らないよね」
香里は食い下がる。
「お願い、頭領さん、こういうの得意なんでしょ? あなたしか頼れる人がいないのよ」
「そんなこと言われても、これだけ匂い消えかかってちゃ、どの製品かなんて分かんないって。でも、これはクロエとは少し違う気がする」
「そ、そうなのよ。私があげたのはさらに少し香りを変えてあるの。この香りじゃない」
花歴はめんどくさそうに、手をフラフラさせる。
「マジ分かんないって。でも何でだろうね、手帳から匂いがするなんて。奇妙っちゃ奇妙だけど、あとはショップの店員さんとかに聞いてよ。私には分かんない。ごめんだけど」
香里は失望を隠しきれなかたのか、がくっと肩を落とした。夜代が、ちょっとトイレに行ってくると席を外す。待って、と香里も付いてくる。廊下に出て二人きりになると、夜代は、ずっと抱いていたもやもやを、思い切って香里にぶつけた。
「香里さん。私、あなたと一緒に登校した覚えがあるんだけど。本当に、覚えていないの」
香里は澄ました表情だ。しかし、少し室内が暑かったのか、汗をかいていた。
「覚えてないわ。そうだったかもしれないけれど。毎日いろんなことがあるでしょ。記憶って、どんどん埋もれていっちゃうものよ」
「だけど、私は……覚えています。私にとって大切な記憶だから」
香里は何も答えなかった。無言のまま、トイレに入る。個室のドアを閉めようとした瞬間、急にドアが開いた。慌ててのけ反ると、香里が、狭い個室に押し入ってきた。頬が上気し、目がとろんとしている。酔っているような印象を受けた。
「何だか、クラクラするの。夜代ちゃん……私、どうかしちゃったのかな」
香里はそう言って、後ろ手にドアの鍵をスライドさせた。夜代は何が起こったか理解できなかった。ただ、目の前で、香里が、体を密着させて、官能的な吐息を首筋に吹きかけてきていた。
夜代は、媚薬が効き始めたのだと、確信した。